#16
ぴちゃん、と雫の落ちる音が、白く湯気立つ浴室に響く。
何者にも踏み入ることが許されないその聖域で、女は笑うでも怒るでもなく、何処か物憂げな表情を浮かべている。
白いバスタブに浮かぶ大量の紫色の花びらが、女の靱やかで妖艶な身体を綺麗に隠している。
先日の戦闘を思い返し、ため息をつく。
あと一歩のところで、果たせると思っていたのに。
こちらの詰めが甘かったのか、あるいは運がなかったか。
しかしいずれにせよ、向こうが限界を迎え、やがて朽ち果てるまで、ひたすらやり続ければいい。
戦闘能力を身に着けて日の浅い人間と、その傍らでフワフワ飛んでいる精霊をねじ伏せるのは、さほど難しくはない筈だ。
なぜならこちらには、十分な魔力と戦力、そして何より、無敵ともいえる超強力な頭脳がいるのだから――。
「満足の行く蹂躙はできましたか?」
女の思考に呼び寄せられたかのように、磨りガラスのドアの向こうから、白い髪の銀縁眼鏡の青年の声が飛んできた。女は身をこわばらせる。
「何でそこにいるのよ。 入ってきたら殺すから」
女の呆れた声に対し、とんでもない、と青年は笑う。
「私がそんな無礼な事をするとでも? 私はそちらに背を向けて話しています。勿論顔も真っすぐに向けています。信じてください」
普段の紳士的な彼の立ち振る舞いを思い、それもそうね、と浴室の女は納得する。
もしものことがあれば、その分だけ、いや、それ以上に痛い目に遭わせてやればいい。
「まあ、結果は聞くまでもなさそうですね」
青年は普段の冷静な声で言いながら、黒いロングコートの内ポケットから、藍色の宝玉を取り出した。七つ全てが揃ったときに真価を発揮する、魔力の結晶だ。
「今回は残念でしたが、何も勝機を失ったわけではない」
手の中の叡珠を大事そうに見つめながら、青年は言った。
「寧ろ、我々が完全に負けるということは決してあり得ません。最後のピースの在処を彼女たちに突き止められない限りは」
「うっかり血迷って、あいつらに差し出しちゃわなければいいのだけど」
「この私が血迷う? 断じてありえません」
冷徹な青年は、女の発言を小ばかにするように笑い、叡珠をポケットにしまった。、
「結果的にはダメだったけど、あのデカい蛇、悪くなかったわよ。あの図体のわりに結構機敏に動けるし」
「ありがとうございます。生みの親として、そう言われて悪い気はしません」
「こんなことなら、壊される前に逃げておけばよかったかもね? そうすれば、叡珠も取られずに済んだわけだし」
女はため息混じりに言った。
音を立てて再び雫が落ちる。
「その心配は不要ですよ。⋯⋯替えはいくらでもききますからね」
女は、広い部屋で魔法陣の上に怪物を生み出す青年の後ろ姿を思い返す。
恐らく隠す気は端からないのだろう、堂々と開け放たれた扉の向こうで、禍々しいオーラと共に顕現する大型の怪物。
あれらは全て、彼の魔術によって生み出された、いわば使い捨ての兵器たちだ。
「何度壊されようとも、必要となればまた作ればいいだけの話です」
ふふっ、と女は息を洩らして微笑む。
「あんた、紳士のふりして結構酷いところあるわよね。その考え、きっと魔法少女たちが聞いたら怒るでしょうね。命を軽んじるな、って」
「と思うにしろ、毎回それらを無惨に破壊しているのは一体誰なのでしょうねえ……」
「まあ、残酷だこと」
シャドーラは口元に手を当て、肩を震わせながら笑った。
「で、今後もアタシはあの街をかき乱していればいいわけ?」
「そうです。ただしそれは、飽くまでサブゲームにすぎません。或いは本命をおびき寄せる罠、とでも言うべきでしょうか」
青年は一呼吸置き、こう言った。
「我々の真の目的は」
「七つの叡珠を誰にも揃えさせないことと、魔法少女達を倒すこと、でしょう?」
磨りガラスの扉の向こうで、青年は目を細めながら微笑む。
「で、あの子はちゃんと知ってたわけ? 何度か人間界に出ては引き返してきてたけど」
女のいう『あの子』とは、先日彼女によって停止させられてしまった美形の少年・ノイジアのことだ。
「恐らく知らないでしょうね。私からは、真の標的をおびき出すために、『人間界を破壊しなさい』としか言っていませんから」
シャドーラは、少年が初めて人間界から帰って来たときのやり取りを思い出す。
あの時彼は「邪魔者が出た」と言っていた。自分はてっきり、彼らと標的である魔法少女の間に割り込む者が現れ、それが「邪魔者」とばかり思っていたが、彼が街を破壊する事こそが真の目的だと思っていたとすれば、少年はあの魔法少女を「邪魔者」と呼んだのだろう。
「へえ、可哀そうに」
しかし実際の彼女は、少年を哀れむような表情は全く浮かべていなかった。
「そもそもあの少年には、それをやる理由がない」
青年は独り言のように、ポツリと言った。
「……どういう意味?」
「まあとにかく、今後は我々二人で目的を果たしましょう」
女の疑問の声を無視して、青年は言った。
「やっぱり、あの裏切り者は戻ってこないんでしょうね」
「恐らくは。しかし我々だけで充分です」
「というか、急にふらりと戻ってこられても、アタシとしては迷惑だけどね。無口で無愛想で可愛げないくせに、持ってる魔力は無駄に高くて……。そばにいるだけで癪に障るわ!」
「なんだかんだ言って、彼女の身を案じているのではないですか?」
「冗談じゃないわ」
いら立ちを露わにしながら、女は吐き捨てた。
「ともかく、貴女は容姿だけでなく、戦闘能力にも優れている。持っている魔力も、目的を果たすには十分でしょう」
「当然よ。 けどアタシも、あんたのずば抜けた頭脳は結構頼りにしてるんだから」
「恐縮です。どうやら我々は、完璧な組み合わせなのかもしれませんね。頭脳面は私が担い、優れた戦闘能力を活かして貴女が直接的に魔法少女を倒す」
「別にあんたと仲良しこよしでやるつもりはなかったのだけど。でもまあ、悪くないわね」
すると浴室の女は、突然何かひらめいたと思うと、標的を見つけた獣のように、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
自分に都合のいい展開が見えた時や、何かに興奮している時に舌なめずりをするのは、彼女の癖だ。
「それとも、こんなのはどう? アタシが持ってる魔力の半分を、あんたにあげるの。そうすれば、あんたからも直接あいつらに手を下せるし、さらに強力な怪物も生み出せると思うの」
「唐突に何を言い出すかと思えば」
浴室に背を向けている青年は、苦笑いしながら右手の先で眼鏡を押し上げた。
「その話には乗れません」
一蹴。女の顔がわずかに歪む。
「なっ……何でよ」
「私は別段、魔力不足に困ってなどいません。それに貴女のことです、私がその提案に乗った後、それに見合った対価を払えと言うつもりだったのでしょう?」
ずばり言い当てられた女は、何も言えないでいる。
「それも、貴女だけが快楽に浸れるような、あまり麗しくない方法で」
一瞬、青年の瞳に軽蔑の色が浮かんだ。
女の思惑は完全にお見通しだった。
当の彼女は心の中で舌打ちしながら、顔に浮かべた笑みを、自然に消える線香花火のようにスッと消しながら言った。
「あ、そう。なら別にいいけど。アタシそろそろあがるから、一旦どいてくれないかしら?」
「ええ、分かりました」
青年がその場を後にすると、シャドーラは湯船からあがった。西洋の芸術作品を思わせる美しいシルエットから湯を滴らせ、白い上質なタオルで身を包みながら、青年との扉越しの会話を思い返す。
――どうやら我々は、完璧な組み合わせなのかもしれませんね。
悪い気がしなかったのは、事実だ。
しかしそれでも、いずれは自分が優位に立ってやるという密かな企みが確かに、妖しげに微笑む女の中にあった。