#11
「じゃあ、また下駄箱で」
定期テスト一週間前の放課後、奏は親友の泉美と一緒に帰る事になっていた。
この期間は全ての部活が原則活動禁止となっており、運動部員が半数以上を占める生徒達の間には、ハードな練習からの解放感と、成績に大きく関わるとされているテストへの不安が入り混じった空気が流れている。
奏は教室に居る担任に、泉美は職員室にいる教師にそれぞれ用事があったので、下駄箱で再び合流する事にしていた。
やはり教室に残っている生徒は普段よりも少なく、奏と先生以外に教室にいるのは、各々自分の席でテスト勉強をしている、飯嶋志郎と木島凛だけだ。
テストに備え、担任の西川先生にいくつかの質問をし、ついでに軽く雑談を交わした。
国語の担当である西川弘孝先生は、伊佐嶺中に着任して四年目の、四十代前半の先生だ。しかし年齢の割に見た目が若く、肌が綺麗で目鼻立ちがくっきりとしている。
自己紹介で年齢を明かした時には生徒達を一斉に驚かせ、「キャラを盛ってる」「三十代の間違いだ」「いや二十代だ」と口々に言われていた。
そして事実を証明するために、そこまで疑うならしょうがねえな、と言いながら、運転免許証をどこからか取り出し、プロジェクターを利用して、テレビの画面に自分の生年月日の欄を映していた。
書かれた西暦は、確かに四十二年前のものだった。
「雨宮、他の教科はバッチリか?」
「はい、数学以外なら何とか」
「そうか。……本番、自信がなくても朝飯は沢山食っておけよ?」
と、西川先生は意味ありげにニヤニヤしながら言った。
松原先生め、さては余計な事を言いふらしたな。
奏は先日自分に恥をかかせた数学教師を心の中で恨みつつ、笑いながら返事をした。
「じゃあ、テスト頑張れよ」
「ありがとうございます」
奏は先生に会釈し、ノートと教科書をカバンにしまい、部屋に残っているクラスメイト二人と軽く挨拶を交わして教室を後に下駄箱へと向かった。
思ったより長引いたと感じ、早足で行ったが、泉美はまだ居なかった。
「向こうも時間かかってるみたいだな」
チャックの閉まったカバンをすり抜けたヤビイが、奏の横から話しかけた。彼女はぎょっとし、慌てて周囲を見回したが、幸い誰も居なかった。
「もう、誰もいないから良かったけど、急に出てこないでよー」
「わりぃわりぃ」
水色の光が、再びすり抜けながらカバンの中に引っ込んだ。
安堵のため息をついた奏は、歴史の教科書を読みながら待つことにした。重要な年号、人物名、事件や戦争の名前を頭の中で復唱し、記憶にしっかりと刻み込む。
しかし、十数ページにも及ぶテスト範囲を全て読み尽くしても尚、泉美は来ない。
決して短気ではない奏もさすがにしびれを切らし、職員室前の様子を見に行くことにした。
テスト一週間前からは入室禁止となっており、原則、教師と生徒のやり取りは職員室前の廊下で行われることになっている。
見ると、廊下には泉美どころか生徒は一人もいなかった。ほかの所にいるのだろうか。
そう思った瞬間、職員室のドアが開いた。
「お、奏じゃないか。何か用か?」
神崎先生だった。確か、泉美が用があると言っていたのはこの先生だった。
「あの、鳴瀬さんは……」
そう尋ねた直後、この先生の場合、生徒を下の名前で呼んでいるからわざわざ名字で言わなくてよかったな、と思っていた、その時。
「ああ、泉美? ならとっくに帰ったぞ」
奏は耳を疑った。あの泉美が約束を破るはずがない。
図書館かな、と呟くと、神崎先生はこう付け加えた。
「いや、職員室の窓から帰る所が一瞬見えたぞ」
「先生、人を困らせる嘘はよくないです」
「嘘をついてどうすんだよ! 俺は事実を言っただけだ!」
神崎先生は、お得意の切れのいいツッコミを入れた。
どうやら本当のようだった。
「じゃあ、失礼します」
奏は困惑とショックが顔に出るのを必死に抑えながら神崎先生に会釈をし、結局その日は一人(と精霊一匹)で帰った。
次の日の登校中、奏は昨日の事を泉美に聞いてみる事にした。不思議な事に彼女は、第一声に「昨日はごめんね」と言うわけでもなく、奏を最初に見た時も申し訳なさそうな表情一つ見せなかった。
何かがおかしい。そう感じながら、重い口を開いた。
「昨日、どうして先に帰ったの? 急な用事でも入ったの?」
それでも泉美は、申し訳なさそうな表情は全く見せない。
それどころか、ぽかんとした顔で奏を真っ直ぐに見つめ、衝撃的な言葉を放った。
「……何の話?」
嘘だ。
「そういう夢でも見たの?」
あの優しくて誠実な泉美が、人との約束を破った上に知らん顔をするなど、天地がひっくり返ってもありえない話だ。
まるで支離滅裂な話を聞かされているかのような、困惑した表情を、彼女は浮かべている。
何かがおかしい。
普通じゃありえない何かが起きている。
だが、混乱していた奏は冷静な思考など保てなくなっていた。
「夢なんかじゃないよ。私、下駄箱でずっと待ってたんだよ?」
「ずっと待ってた⋯⋯? 奏、さっきから変よ?」
やはり、話がかみ合わない。
奏の混乱はピークに達し、とうとう爆発した。
「変なのはそっちでしょ!? 泉美のことずっと信頼してきたのに、こんなの酷すぎるよ!」
そう言った直後、彼女がハッと正気になった時にはもう遅かった。
泉美が今にも泣きだしそうな顔で、ひっ、と嗚咽を上げたかと思うと、顔を背け、そのまま走り去ってしまった。
そんな彼女の後ろ姿を見て、奏は心臓をぎゅっと掴まれたような心地がした。
激しい後悔の濁流が、一気に押し寄せる。
「おいおい、ちょっと言い過ぎじゃねえのか? 女の子を泣かせんなよ」
「分かってるよ」
小石が喉に詰まったような感覚を覚えながら、奏は小さく呟いた。「いや私も女の子だから! 」と突っ込む気力も、この時の奏には全くなかった。
その日はほとんどの授業が自習だったが、殆ど勉強に身が入らず、彼女とは気まずくて一言も口を聞けないままでいた。
そして数日間、一連の出来事のあまりの不可解さと、親友を傷つけてしまい、離れてしまった悔しさで、奏の気持ちはすっかり沈んでいた。
このまま絶交になったらどうしよう。
そんな展開は絶対に嫌だ。
私は泉美と会った時の反応を見た時点で、普通では決してありえない『何か』があると気づくべきだったのかもしれない。
彼女がそう思ったのは、もう少し後になってからの話だ。