#10
見ると、銀縁眼鏡をかけた長身の青年が、まるでこの洋館の長であるかのような風情で、広間をぐるりと囲う二階の通路へと繋がる階段の真ん中に立っていた。
「なにやら騒がしいと思って見に来てみれば、あろう事か仲間内で喧嘩とは⋯⋯」
裾の長い黒のコートを羽織った紳士的な雰囲気の青年は、他人を憐れむような瞳で二人を見下ろしながら、ゆっくりと階段を降り、床に到達したところでぴたりと足を止めてこう言った。
「嗚呼、何て醜い」
優しいとも冷酷とも取れるようなその声は、低く落ち着いていながらも、騒がしい場を一瞬で黙らせるような圧を放っていた。
「ふん、先に手を出したのはこの子よ」
そんな圧力には屈しないとばかりに、女は反論した。
「元はと言えば、君が僕に触れようとしたからだろ?」
少年はすぐさまそれに抗議する。上から目線で放たれた「醜い」という言葉は、彼らの神経を逆撫でしたようだった。
その一方で青年は、驚いたように目を見開いていた。
「彼に触れようとしたのですか、シャドーラ?」
「何よ」
シャドーラと呼ばれた女は顔をしかめる。
すると青年は、やれやれ、とため息をつき、こう言った。
「貴女は知らなかったようですね。彼が他者に触れられるのをひどく嫌うということを」
「聞いてないわよ、そんなこと。それにこの子は、自分を無限の闇だとか言ってたけど、それは何なの?」
女は、ムッとしたように言った。
「そちらも知りませんでしたか。……まあ、嘘は言ってませんよ」
青年は言葉を濁すように言った。
すると女は、じれったさを顔に浮かべながら口を開いた。
「さっきから何なの。勿体ぶらないでさっさと教えなさいよ。この子に何か重大な秘密でもあるの?」
青年は意表を突かれたような表情を浮かべたが、すぐに引っ込ませながら言った。
「ええ。⋯⋯しかし本人の前で堂々と述べるには些か気が引ける話でね」
と、眼鏡の青年はまっすぐに立てた人差し指を口に当てた。
それほど重要な秘密が僕にはあるのか、と、ノイジアは二人のやり取りにかたずを飲んだ。
―― が、その時。
「ふうん、そういう事なら」
女はニヤリと笑みを浮かべたかと思うと、突然少年の方へ向き直った。
そして手に持った長い鞭を展開したかと思うと、目にも止まらぬ速さで彼の首を目掛けてそれを投げつけた。
「っ、何をする」
「お黙り!」
そして黒い鞭は、少年を捕らえた。
毒を含んでいる彼女の鞭は、容赦なく少年の白く細い首を締め、じわじわと少年を苦しめている。
どうにかそれを首から引き剥がそうにも、締め付けがきつすぎて離れない。
「要はこの子に聞かれなきゃいいんでしょう? 私の身体を傷つけた罰を受けるがいいわ」
彼は、締め付けられた喉から何かを言おうとしながら女を睨む。一向に攻撃の手が緩む気配はなく、少年は、ただ苦しみに喘ぐだけだ。
鞭は少年からエネルギーを搾り取りながら、徐々に締め付けを強くする。
どうにかこの状況を打破しようと、パーカーのポケットに手を入れてナイフを出そうとするが、中には何も入ってなかった。シャドーラと争ったときに全て投げてしまったのだ。
いざという時のために、せめて一本は持っているべきだったと、ひどく後悔した。
ノイジアは絶望感に襲われ、体中が徐々に凍り付くのを感じた。
或いは毒が回り始めたために、しびれが出始めたのかもしれない。
縋るような思いで眼鏡の青年を横目で見ても、彼は無言で立ち尽くすだけで、行動を起こす気配も言葉を発する気配もない。
こんな『仲間』が居てたまるか。僕がこんな目に遭っているのに、どいつもこいつも非情な奴だ。僕らは所詮、偶然同じ船に乗り合わせた者同士でしかないのか。
僕は『人間界を破壊する』という使命は与えられたものの、最終的に行き着く先は全く見えないままでいる。
あの日告げられた、僕が『無限の闇』であるという事実も、僕を唆すための嘘でしかなかったのか?
自分が此処にいる根本的な理由は結局何だったのか?
薄れゆく意識の中で、少年はそんな事を思った。
「いい表情ねえ⋯⋯。殺っちゃうのが勿体ないくらい」
シャドーラは艶めかしい声で、彼の耳元で囁いた。
「じゃあ……今すぐ解放しろ……!」
言葉を聞き取れるか聞き取れないかくらいの、締め上げられた声で少年は言った。
するとシャドーラは、はあ、とわざとらしくため息をつきながら、
「しょうがないわねえ、そんなに必死なら……」
と、あっさりとノイジアを解放した。
全身の緊張が一気にほぐれ、少年は膝から地面に崩れ落ちた。
体を支える両腕が、小刻みに震えている。
命は助かってよかったと、心の中で安堵のため息をつきながら、そっと立ち上がる。
しかし、次に女が言い放った言葉は、こうだった。
「毒は十分注げたかしらね」
少年はハッと目を見開き、再び全身が硬直するのを感じた。
やがて視界が揺らぎはじめ、立っているのが辛くなってくる。
女は首を絞めながらも、大量の毒を僕に注ぎ込んでいたのだ。
確実に、僕を殺すために。
なんて卑怯な奴なんだ。
少年は顔を上げ、少しだけ女のほうに向けた。
「覚えてろよ⋯⋯」
憎悪に満ちた目で女を睨み、最後に振り絞った声でそう言った。
そして彼は、突然電源が切れたように、ぷつりと表情と意識を失い、スローモーションのようにゆっくりと地面に倒れた。
ああ、所詮はこんなものかと、消えゆく意識の中で彼ら二人と己を蔑みながら。
悲しみの声を上げる者も、彼に駆け寄る者もそこにはいない。
少年はぴくりとも動くことなく、光を失った紅い瞳でただ一点を見つめている。
重く冷たい沈黙の中、終始傍観者であった青年は、嘲笑とも呆れともつかぬ表情でため息をつく。
「場所を変えて話しましょう、と言おうとしただけなんですけどねえ⋯⋯。全く余計な事を」
ふん、と女は息を洩らし、人形のように儚く床に落ちた少年を見下ろした。