【伍】
湯に入る人が少なくなってきた頃、瑩は彼女を先に休憩を出した。といっても、彼女を一人にはできないので、自分も休憩に入るまで傍にいてもらうのだが。
彼女の仕事といえば、薬湯に使う薬草を煎じるだけだが、これは普通の人に出来るものではない。これは、彼女が焜一番である燮愷殿に薬を学ぶ弟子であるから成しえるものなのだ。薬湯に使う薬草のほとんどが枒州で加工済みではあるが、紫玗様の作る薬湯はそれらを調合した特製品。故に、その湯に惚れた客が注文をするのだ。もちろん、彼女が作っているなんてことを知る者はいないが。
「紫玗様、私も休憩に入りましたから、外の空気を吸いに参りましょう」
頷いた彼女の手を取り、裏口から外に出る。ひんやりとした気持ちのいい風が、二人の髪を撫でていく。滅多に客の来ない湯屋の裏側には、燈籠の淡い光が道に沿って灯っている。この道を真っすぐに行くと、淸汩の綺麗な水の流れる滝壺がある。【汪汩滝】の名で知られる滝が、まさに水の生まれたとされる場所だ。彼の仙人様が、水が生きてゆくには相応しいと仰ったから水が生まれたのだとされている。
遠くの方からその瀑声が聞こえてくる。彼女は目を閉じて、それを聞いているようだ。
「紫玗様、__」
「瑩、水ってどうしてこんなに綺麗に生きてられるのかしら」
その問い掛けに、彼は紡ごうとした言葉を見失った。言いたいことが何となく分かるだけに、下手に返せなくなってしまう。
「水清ければ月宿る、そんな風に言う。貴女は、水の何に焦がれているのだ?」
背後からかけられた言葉に警戒して、瑩は彼女を背に隠す。
「ロウ…殿」
「久方振りだな。瑩」
その声の主は、一国の王の侍従ロウであった。
「して、紫玗は何をそんなに悩んでいる?」
「いえ、悩んでいるのではなく…ただ、気になったんです」
「そうか、てっきり悩んでいるのかと思った」
「悩みなら瑩が聞いてくれますから。それより、朗様は何故ここに?」
「主上の鬱憤晴らしにな」
ロウは、二人に近づくとふっと口元を綻ばせた。それは王宮では見られない笑みで、この世では三人ほどしか知らないものだった。
「こうしてお前たちにも会えるから、私としてもいい休暇になっている」
「紫尤様はどちらに?」
「主上は、見張りをしている。付かぬことを聞くが、幽鬼の視線を感じはしなかっただろうか」
「…幽鬼」
「あぁ、ここ最近ずっと紫玗様に関して嫌な感じがすると思ったら…そういうことですか」
「瑩は、感じていたのか?」
「いえ。ただ、紫玗様によくないことが起こりそうだという予感がありまして。なるべく一緒にいるようにしておりました」
ロウは少し考えた後、紫玗の手を取った。
「すまないが、協力を頼めないか?」
「え…?私ですか?」
「その話を聞いて思った。あれは紫玗を見ているのかもしれない」
「しかし、紫玗様を危険な目に合わせるわけには…」
「このまま解決せずにずっと見られていれば、危険が増すぞ」
瑩は、唇を噛んで紫玗の目を見た。紫玗は、ふんわりと笑って大丈夫だと伝える。
「…ならば、私も一緒に行きます。紫玗様の危険を排除するのも、私の仕事です」
「仕事を抜けても大丈夫なのか?」
「ええ、今は休憩中ですし、それに私の仕事はもう片付けしかありません」
「そうか。なら、ともに行こう。瑩は顔が目立つし、これを」
ロウは瑩に薄い布を手渡した。瑩はそれを鼻を覆うまで引き上げて、目だけが見えるように顔を隠した。
「瑩ってば、そんなに上げなくても…」
紫玗は瑩を屈ませると、少し下げて結びなおす。
「これくらいの方が不審過ぎないし、綺麗な顔のおかげで怪しまれないわ」
「ありがとうございます、紫玗様」
「主上が驚くかと思うが、行こうか」
***
二人は、彼の後に続いて湯屋の正面から大広間に入る。老若男女、様々な人が会話を楽しんでいる。そこに、馴染みきれていない麗しい美形。彼は廊下の方を見ている。
「…ただいま戻った」
「__おお、ロウ。おかえ…り」
「久方振りにございます。紫尤様」
「瑩…ここではその名を出すな。民は知らぬからと言って勘付かぬわけではない」
「では、なんとお呼びすれば」
「そうさな…ロウはそういうのが上手いから名は決めていなかった…」
「なら…ユウというのはいかがですか」
瑩の背に隠れていた紫玗が声を出した。紫玗は彼の前に出ると、へらりと笑う。
「…し、紫玗…」
「ユウか、いいんじゃないか?私と語呂が似ている」
「ろ、ロウ…な、なんで…ここに…紫玗が」
「なんでって…働いてるからです」
「…はたらいて…って」
「ユウ様、そこは気にするところではありません。紫玗様が幽鬼に見られているかも知れぬのです」
瑩がそう告げると彼は、血相を変える。
「なに?紫玗が?何故?」
「分からない。ただ、瑩の話を聞いたらそういう可能性が出てきたのだ」
「分かった…あそこの女子に、覚えはあるか?」
ユウは、廊下を指し示して大浴場を見つめている女について尋ねる。紫玗と瑩も、見たことがあるらしく目を瞠っている。
「あ、の方は…」
「知っているのか?」
「ええ、紫玗様と私が働いている茶屋の常連です」
「……それだけじゃない…あの方は、瑩目当てで茶屋に来てくださっている方よ」
「…私目当てで?」
「あの方と話しているご友人の方も、そうよ」
だけど、なぜ紫玗様を?瑩は、見られるなら自分の方だろうと思った。
「特に彼女は、ずっと大浴場の方を見ている。視線を辿ったら、壁の向こうつまりお前たちの方を見ていた」
「私が見られるならわかりますが、どうして紫玗様なのですか」
「私の勘が正しければ、紫玗が見られていることは確かだ。そして、紫玗が危険だということも」
それを聞いた瑩の顔が強張っている。
「一体、どういうことですか。紫玗様が危険って」
「あれは紫玗に、相当な悋気を抱いている。お前ほどの美形がたった一人の女にしか笑いかけないなんて、お前を想う女人の矛先が紫玗に行くのも当然だ」
「…私のせいで紫玗様に…」
「瑩のせいじゃない。だって、瑩が私に気を許してくれているから笑ってくれるんだもの。もうずっと一緒にいる私に悋気を抱くのはお門違いだわ」
「…そうだな。戀とは、そんなお門違いが罷り通るものだ。自分でもどうしようもない悋気に駆られる。自分を見失って、酷い時には想い人の一番強い感情が自分に向くことを喜とする。戀は曲者とはよく言ったものだ」
ユウの語る戀とやらは、妙に現実味を帯びていて、周りの言うような甘美なものではなかった。とても不純で、浅ましい。そんな風に感じる。
「ややこしい感情ですね。そんなものを向けられても返すわけがないのに」
「瑩はそうかもしれないけれど、きっと彼女にとっては大切な感情よ。あなたを想うだけで幸せになって、笑顔が見られたら嬉しくなる。誰だって、焦がれる人の目に留まりたいものよ」
「……似たような気持ちはあります。私は紫玗様を思うだけで幸せで、貴女が笑ってくれるなら何だって擲ちます。けれどこれは、そんな汚れた感情じゃない」
瑩の顔が泣きそうに歪む。吐き捨てるようなその言葉に、ユウも紫玗も眉を下げる。ロウだけは、その背に手を置いている。
「そうだな。お前の紫玗に対する気持ちと戀は違う」
「…すいません、取り乱しました」
瑩は反省をして尻尾の垂れた子犬のようになっている。
「それが瑩にとって大切な気持ちであるように、あの女人にとっては戀がそうなのだ。何が大切かなんて、人それぞれだ」
「はい」
「それじゃあ、紫玗、瑩。手伝いを頼めるだろうか?」
ユウは二人に手伝いをするように頼む。その作戦を聞いて二人は頷いた。