【弎】
今日も今日とて、二人は生活するために働く。今日は、二人とも茶屋での仕事が入っている。午前のみの仕事が終われば、瑩は湯屋のお手伝いに、私は薬師様に頼まれたお使いに向かう。
ここ烘州、焜には大きな湯屋がある。それは山を越えた先にある隣の汪州で水が生まれたとされる都、淸汩から引かれてくる懿水と呼ばれる綺麗な水を使っている。
焜は、火の生まれたとされる場所で烘州の都だ。そんな二つの都の境で、仙力の含まれるとされる水と火を用いて湯屋を営んでいる。そこが、瑩の働く湯屋だ。彼が煤だらけになるのは、お客さんの前には出ずに裏方の仕事をやっているから。この湯屋は毎日やっているわけではないが、開業する日にはすでに噂は広まっているので、両方の都のお店ではお客さんを取るために忙しい。ちょっとしたお祭り騒ぎだ。こんな日の灯火は、私たちの出番ではない。お店の方が自分たちでやるのが決まりだ。
「紫玗様。お使いが終わりましたら、湯屋にいらしてください。一緒に帰りましょう」
「大丈夫、いつものところにいるんでしょう?」
「ええ。裏方の仕事ですから」
「瑩は接客に向いていると思うのだけど」
「私は紫玗様にしか、優しさも何も向けません」
つーんと顔を背けていじける彼。瑩は表情が豊かだ。よく拗ねていじけるし、申し訳ないと眉を下げるし、口はへの字に曲がるし、綺麗な顔はへにゃへにゃ緩むし、頭を撫でられると喜ぶし、私につく嘘だけは下手だし、秘め事は出来ないし。
「もう、拗ねないで。ほら、早く行きましょう」
「紫玗様、今日はあまり厨から出ませぬよう、お願いします」
「どうして?」
「…何となく、お客の方にも紫玗様のお作りになる茶を飲ませてあげようかと思いまして」
やっぱり、真っすぐに目を合わせない彼は嘘が下手だ。
「まぁ、うん。そうするわ」
滅多に嘘をつかない彼のそれは、きっと私に関しての何かが起こることを危惧しているのだろう。
***
午前のみの茶屋での仕事は、湯屋の噂のせいかいつもより客の入りが良い気がする。見かけない顔がちらほら見える。そんな私は瑩の言いつけどおりに、あまり厨から出ずにお茶を煮出すことに専念している。注文を伝えに来る瑩は、へへ、という笑い声と一緒に戻ってくる。
「今日は瑩が上機嫌だねえ。紫玗がいるからかい?」
眀茱さんが頬杖をついて私と瑩を見ているが、その顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんでいる。すん、と瑩の表情が無に帰す。すたすた、と出来上がったお茶を出しに行く彼は、どうやら恥ずかしかったらしい。口が居心地悪そうに結ばれている。
「あまり、揶揄わないでください。瑩が拗ねちゃいましたよ」
そう言うと眀茱さんは、大きな目をさらに開いて私を見ている。
「あの…なにか…?」
「…いや、瑩の顔、変わってなかったけど…あれは、拗ねてたのかい?わっかんないねぇ。やっぱり、瑩に関しては紫玗にゃ敵わないよ」
「…そんなことないと思います。瑩の表情はコロコロ変わりますよ。見てて飽きないくらいです」
「はぁー、そんな瑩は想像できないけどねぇ。紫玗がいて、やっと笑ったのが分かるくらいだ」
そんなことないと思うけど…、と思いながら彼に目を向けると、注文を聞いて回る彼の顔には『なんだって、あんなことを…!』と書いてある。恥ずかしさは消えていないらしい。ふふ、と声を漏らして笑うと眀茱さんがやれやれと言ったように肩をすくめた。
「似たもん同士だね。瑩も、よく紫玗を見ては顔が緩んでるんだ」
「…何年もずっと一緒ですから、似ちゃうんですかね?」
そう、もう何年も一緒にいるのだ。あの日からずっと。瑩は、私について来て後悔をしてはいないだろうか。剣の腕が立つ彼なら、きっとあの家から武官として出仕することが出来たかもしれない。そうでなくても、彼なら本家の衛兵になれたのに。
「紫玗様?」
いつの間にか目の前にいた彼に返事をする。
「え?あ、どうしたの?」
「悩み事は怪我に繋がりますから、後で私に相談してください。必ずです」
「…ふふ、ええ。そうするわ」
「必ずですからね」
そう念押しして、注文を伝えてから、今日もいる瑩目当ての女性たちに呼ばれて戻っていく。考えるのはやめにして、働こう。忙しさに感けてしまおう。
彼女は、きっと彼に大事にされている。一国のたった一人の皇女サマのようにそれはそれは大事に。
彼は、それを失ったらきっと絶望に染まる。表情という表情が抜け落ちて、真っ新に。この世に何も見いだせなくなって、誰にも心を開けなくなって、終いには彼女を追ってしまうだろう。
「……ちっ」
見慣れた客の、その一人が彼女を射殺さんばかりに睨み付ける。
***
客の入りが落ち着いてきた頃、私たちは店を出た。彼は次が急ぎの仕事ではないからと、私のお使いに付き合うと言って聞かない。確かに、湯屋が開いてから彼の仕事は始まるのだけれど…。
「瑩。なんだか今日、変よ?」
「…分かってます。でも、嫌な感じがするんです」
「ねえ、瑩」
「はい」
「私ってあなたに剣を教わったし、ある程度の護身もできるのよ?」
「紫玗様。確かに貴女に剣を教えたのは私ですが、あれは貴女が一人の時、本当に戦闘になってしまった場合には勝算のない剣です。あれは私が傍にいて、それでも敵に貴女を狙われてしまうような落ち度があったら使っていただきたいものなのです」
「…口喧嘩ではいつも負けるくせに、こういう時ばかり言い返せないことを言うなんて意地悪だわ」
「紫玗様の御身に関する喧嘩でしたら、誰にも負けない自信があります」
「そんな自信持っててもお金にならないわよ」
ふい、と彼から顔を背ける。私は、守られているだけの女になるのは嫌だって瑩には耳にタコができるほど言ったのに…それを分かってくれたから剣を教えたんじゃなかったのね。彼の身に何かあったら嫌なのは私だって同じなのに。
「拗ねないでください。今日ばかりは、命令でも引きません」
いつもより硬いその声に、機嫌を損ねてしまっただろうかと顔を隣に向ける。
「…引っ掛けたわね…瑩」
「なんのことでしょう?」
てっきり不機嫌になってしまったかと思って顔を向けたら、意地の悪い顔をしてニヤけているのだ。全く、本当に意地悪だ。
「薬師様のお使いを早いところ終わらせてしまいましょうか」
「はい」
「あ、そうそう。湯屋に着いたら覚悟してよ?私からの仕返しが待ってるんだから」
意地悪い笑顔を心がけて彼に向ける。彼は「楽しみにしてます」だそう。
そんな彼に、ちょっとだけイラっとしたのは秘密。
***
薬師様は、腕利きの医者である。その性格は、患者第一!自分は二の次だ!!な、お方。そんな薬師様を心配した患者さんや近所の方が私に食事や、果物などを彼に渡すように頼んだのがきっかけで、今ではすっかりお使い役として扱われている。薬師様の診療所に行く前に、毎度のように荷物を預かる。いつも両手から落としてしまいそうになりながら運んでいたので、瑩がいるのは少しありがたい。
「いつも、この量をお一人でお持ちになっていたのですか?」
「え?いや、瑩もいるからっていつもより多く渡したんじゃないかしら?」
「紫玗様って…本当に、嘘が下手ですよね」
「瑩に言われたくないのだけど」
はぁ、と嘆息しながら言ってきた彼に即座に返す。嘘が下手なのはお互い様だろうと。
焜にある診療所には、今日も年配の方がお薬を貰いにいらしているようだ。お婆さんは腰痛持ちらしく、薬師様の処方する薬が一番だと長年贔屓にしているのだそう。
「燮愷様、お使いの物をお持ちしました」
「ん?あぁ、紫玗…に瑩もか。毎回すまないな。そこに置いてくれ」
「いいえ。平気です。燮愷様こそ、ちゃんとお食事は取られていますか?疎かにしていませんか?」
「…紫玗は俺の母親か何かか?」
「燮愷様が早く身を固めてくれるなら小言もなくなります」
「あぁ…もういっそ紫玗が嫁いでくるか?」
「燮愷殿。まさか、紫玗様に毎回そのようなことを言っているのではないですよね」
瑩の冷たい声色は久しぶりに聞く。心配しなくてもただの戯れの言葉なのに。
「これは俺と紫玗の一連のやり取りなの。まぁ、本気にしてくれてもかまわないがな」
「…燮愷殿、流石にお戯れが過ぎるのではないですか?」
「不自由はさせないよ?紫玗を養うくらいなら、屁でもない」
「はは、紫玗様と私は一対ですから。もれなく付いていきます。そして、あんたの財産を食いつぶしてやる」
究極に口が悪くなった彼の背を軽く叩く。
「瑩。付いてくるのはいいけれど、働かざる者食うべからずよ?」
「紫玗…嫁いでくる前提で話を進めてくれるのは嬉しいんだがな…」
「紫玗様は…燮愷殿に嫁ぐ気がおありなのですか…」
完全に、泣きだしそうな彼。彼女は、そんなつもりはないと返す。それに喜び、しっぽを振るのが一人。しっぽが垂れさがったのが一人。ふふん、と言わんばかりの一匹は誰が見ても分かるくらいに喜んでいる。
「私は今の生活に満足しているし、瑩がいないのは嫌だわ」
「紫玗様…!」
彼は今にも抱き着いてきそうなほどだ。
「それは燮愷様にも言えることですよ?心配ですから、しっかりと食事は摂ってくださいね」
「結局そこに戻るのか…。分かっているよ、紫玗」
いつもならお茶を飲んだり、薬の煎じ方を教えていただくのだけれど、今日はこのまま瑩と一緒に湯屋に向かうので燮愷様の診療所を後にする。瑩は目に見えて上機嫌のままだ。この様子では、私が計画している仕返しも喜んでやるかもしれない。
***
湯屋は煌びやかだ。真っ赤な門の入口、それを淡く照らす燈籠。今は夕日が明るいから燈籠の明かりは意味を為していないけれど、夜になるとそれはもう綺麗なのだ。門の向こうに広がる朱色の建物は、王城のように厳かではあるが、どこか親しみがある。実際は王宮の方が何倍も大きいらしいが。
門をくぐって、裏から湯屋の中に入るとすでに両方の都から来ている働き手の皆さんが準備に勤しんでいる。瑩と私も彼の持ち場に行く。彼の裏方の仕事は、湯沸かし、湯加減の調節、薬湯の準備などのお客に顔を見せない仕事である。彼の顔は、多分…相当女性に気に入られる相貌なので…イケナイことになってしまいかねない。彼はそういう女性をあしらうというか、相手にしないのが上手いので問題は起きていないが、念には念を入れた結果だ。
「瑩ってば、相変わらず視線を集めるわね」
もちろん、働き手の中には女性がいる。彼は視線を集めているのが不愉快なのか、すっかり不機嫌である。それでもなお、綺麗なのだから彼も気の毒だ。
「紫玗様以外に見られるのは、非常に不愉快です。あの濁った目で見られていると思うと…」
「濁ったって…失礼よ。綺麗なお姉さまじゃない」
「私は紫玗様以外を綺麗だと思ったことはありません」
「そうなの?先日、一緒に湖を見に行ったら『ここは、なんて綺麗なんでしょう…』って言ってなかったっけ?」
「訂正します。私は紫玗様以外の人間に綺麗だと感じたことは一切ありません」
「……明日、燮愷様に目を診てもらう?あぁ、それとも心の病気かしら…」
自分の言葉を真に受けて下さらないのはもちろん、病気の線を疑う彼女は自分こそ、どれだけの男に濁りきった目を向けられているのか分かっていない。目つきが悪くなるのも当然だ。自分と目の合った男は、紫玗様から即座に目を逸らす。そう、それでいいんだ。今後一切、紫玗様に目を向けるな外道め。
「瑩。上手く生きなさいって言っているでしょう?そんなに周りを睨むと疲れるわ。余計なことに瑩の活力を使う必要はないの」
彼女が優しさだけで出来ていると思うなら、それは彼女のことを何も知らないと言えよう。その強かさ、冷徹さ、冷酷さを知らない。呑気な馬鹿は彼女の敵ではない。自分は、彼女のそこに惚れ込んだ。どこまでも、ついて行こうと決めたのだ。
「ええ、紫玗様。どうやら私はまだ、上手く生きることが出来ぬようです」
「気にしなければ、どんな目を向けられても何とも思わないわ」
あぁ、私はまた彼女を見縊ってしまったようだ。濁った男たちの目を向けられていると知って、なお彼女は私を心配していたのか。
「昔も今も、貴女には敵いませんね」
「今はともかく、昔はあなたの主だもの」
「昔も今も、私は貴女だけのじゅ、…家族ですから」
「ねえ今、従者って言いかけなかった?」
「…いいえ」
彼女は、彼の認識が少し変わってきていることを嬉しく思った。
その顔に浮かんだ笑みは、数十年に一度咲くのかも分からない、そんな一輪の花が咲き誇るような、視線を縫い付けられる笑顔だった。瑩の口元も同じように綻んでいく。
彼女の笑顔の源になれるなら、と全てを擲った彼に向けられた真の笑顔。
二人は裏方の仕事に回る。いつも以上に機嫌のいい二人は、何をするにも楽しそうに働く。
一人の女は、忌々しげに舌を打つ。その顔は、ひどく醜く歪んでいた。元は麗人であったことを窺わせるが、その原型はほとんどない。彼女を睨めつける視線は、いつまでも彼女の姿を追う。そんな視線に慣れた彼女は気にも留めないで、彼と仕事に勤しんでいる。
たった、二人の客だけがその視線に顔を顰めた。
紫玗と瑩の、二人だけが主軸だった平凡な生活に変化が訪れ始める。
書き終えてから推敲やら何やらをしていると、自分の語彙力の無さに嫌気が差して、書き直したりを繰り返すので、一話を完成させるのに時間が掛かりすぎてしまいます。そのくせ、誤字は無くならない…。
随時、修正が入っていくと思います。