【貳】
私達の朝は早い。多分、烘州では三番目くらいには早い。まず、朝食の準備に始まり、時間に押されながら急いで食事をとり、仕事に向かう。今日は、お寺で子どもに勉強を教える日だ。無駄に良い教育を受けてから追い出されたので、自分で言うのも何だが勉強を教えるのにはもってこいだと思う。
「紫玗」
「おはようございます。羚羊さんは、いつもお早いですね」
「そういう紫玗こそ、早くに来てくれているじゃないか」
「だって早く来た方が羚羊さんのお話が聞けるんですもの」
「全く物好きだな」
お寺の所有者であり、私を雇ってくださった羚羊さんは烘州から出て色々なところに行っていたことがあるらしい。本からの知識では補えない細かな発見は、私の中の世界を彩る。彼からその場所の話を聞くたびに、いつか瑩と二人で行きたい場所になってゆく。
「前は、どこまで話したっけな」
「采劭国の中でも、歴史的な木造建築物の多い枒州の町、栩栩について教えていただきました」
「あぁ、そうだったね。では、今日は染料の町と名高い榔艷についてだ」
「はい、ぜひ!あの町の女の子は、衫裙の重が綺麗だと聞きます。披帛は王族御用達だとか」
「やはり紫玗も、女の子なのだな。あそこは綺麗な染め物が多いし、王族がわざわざ頼むほどの腕もある。俺も贈り物として買ったな」
「素敵です」
「そうさな、いつか瑩と行ってみるといい。綺麗なものも沢山あるが、裏にはお前の知らない世界がある。ああいう町ほど、今の世が見えるってもんだ」
きっと、瑩は心配するから行きたがらないだろうな。優しくて、変に忠義心の強い彼だから。瑩にも、綺麗な染め物を見繕ってあげたいんだけどな。私ばかりを優先する癖が一向に抜けない彼に無理に渡せば、私にそれ以上を渡そうとするだろうし。
「瑩が行きたがらないと思います」
「だろうよ。紫玗が行きたいってねだっても渋るだろうな」
「綺麗な染め物…瑩に似合うと思うんだけどな」
「…そうだな。そう言ってみれば、行けるかもしれないな」
お寺には、近くの子どもたちが挙って集まる。昔の話や、今の国の在り方、瑩がいれば剣の使い方を、子どもたちは貪欲に吸収してくれる。
「しう先生、あのお話して!」
「おれも聞きたい!」
「うん!わたしも」
「ええ、いいわよ」
『むかしのことでありました。八人の仙人様が旅をされていたところ、やせた土地を見つけられました。とても大きなその土地は、仙人様に頼みました。
「どうか、私をお助けください。このままでは、私は死んでしまいます」
困った仙人様は、好きなようにしていいのならお前を助けようと仰いました。
「もちろんです。私をどうか皆様の礎にしてください」
そうして、とても大きな土地は、仙人様の住む仙州になりました。仙人様は仙州を住処とし、自分たちの力を使い土地を広げてゆきました。ある仙人様は火を、またある仙人様は水を、大地を、植物を、石を、御玉を生み出しました。しかし仙人様は、神仙郷と呼ばれる故郷に帰らねばなりませんでした。この土地を放っておいたら忽ち荒れてしまうと思ったので、ここを統べる者を探しました。
それが、初代の皇帝、偀奕帝であらせられます。大変優れ、美しい方であったといいます。仙人様は、仙洞宮を偀奕帝にお渡しになりました。ですが、偀奕帝は仙人様がいつ帰って来られてもいいように、自分の宮を御造りになられました。その仙洞宮は、今も宮廷の奥深くにあると言われております』
「はい、おしまい」
「しう先生、どうして初代皇帝様はせんとう宮に住まなかったの?」
「初代様はね、仙人様のお家に住むわけにはいかなかったの」
「どうしてー?」
「仙人様がいつ帰って来ても、お家があるようにしたかったからよ」
「たしかに、帰ってきたら自分の家が無いなんて嫌だもんな!」
「ええ。そうね」
初代皇帝は、一説では八仙の一人ではないかと言われている。だが、彼には仙人のような不思議な力はなかったし、仙人であるならば神仙郷に帰らなかったのもおかしい。確かに、八仙の国でありながらその力を用いてお創りになられたという州は、仙州を除いて六つ。二人の仙人が足りないのだ。そのため、仙州ではそのような謎を解くため学者や、州の長を集めて有力な情報がないか調査している。各州にある言い伝えや、先祖代々受け継がれる本など、様々なものが集められている。
「ところで、しう先生」
「なあに?」
「本当にせんとう宮なんてあるの?」
「さあ、どうなんだろう。私もよく知らないの。でも、あったら仙人様がいたってことになるし、夢が広がるわ」
「あったら、すごいことだよね!」
「おれ、仙人様にあってみたい!」
夕日が町を照らしている。橙色の昊に浮かぶ雲に、烏が飛んでいる。お寺を後にして向かうのは今日、瑩が働いているお店だ。彼の表情は相変わらす硬いままだけれど、その目で私を捉えると嬉しそうに笑う。そんな彼に小さく手を振ると、こちらに駆け寄ってくる。
「こら、お仕事中になんで来るの」
「もう終わりです。だからいいんです」
「待ってるから、ちゃんと最後までやっておいで」
「…すぐに、終わらせてきます」
再び口を引き結んだ彼は、なんだか不服そうだ。彼の働くここは、烘州でも有名な茶屋だ。顔の綺麗な彼が目当てで来る方も絶えないらしい。瑩自身は嬉しくないです、紫玗様と働いている時の方が楽しいです。の繰り返し。もちろん私もここで働いているのだが、今日はお寺に行かなければならなかったから彼だけに任せたのだけど。店主の眀茱さんは瑩を甚く気に入っている。なんでも美男子は目にいいとか、なんとか。
「紫玗」
「あ、眀茱さん。お疲れ様です」
「やっぱりねえ、瑩は紫玗が居なきゃ笑わないんだよ。お客さんへの対応は完璧なんだけど、紫玗が居る時とは違ってねえ…」
「あら…。瑩ってば」
「まあ、それでも顔はいいんだけどね」
ふはは、と豪快に笑う眀茱さん。上背のある恰幅のいい女性だ。
本日も、茶屋には瑩目当てのお客さんがいるらしく、瑩はあっちに呼ばれてはこっちに呼ばれで、しばらくは終わりそうにもなかった。これから、灯火に行かなくちゃいけないのになあ。間に合うかな。私たちが灯火に遅れると、店の運営で忙しい方の代わりにと請け負っている仕事なので、お店の方の手を煩わせことになってしまうのだ。壁の燈籠はもちろん、提灯、燭台などこの町の灯火は私たちの仕事で、私たちが灯火に遅れれば町が暗くなる。つまり、事故や事件の一因になってしまうかもしれないのだ。
「眀茱さん、あの様子じゃまだ終わらないですよね?」
「あと少しだけ待ってやってくれ。瑩は紫玗を一人で灯火に向かわせたくないんだ」
「…早くしないと置いて行くよって伝えてもらえますか?」
「ああ。分かったよ」
眀茱さんが瑩に伝えてくれているのを見ていると、目が合う。眉が下がって情けない顔だ。申し訳ないと顔で伝えてくる。急いで仕事を片付ける彼を横目に、店先の腰掛に座り、この町の楼閣に目をやる。夕焼けはどことなく、寂しさを思い起こさせる。綺麗な昊に浮かぶ楼閣、活気溢れる町の声、嬉しそうに笑う子どもたち。すべてが貴く、儚いもの。あれば時に煩わしく、なければ何時も寂しく。この町から消えてしまってはひどく悲しい。
「紫玗様、お待たせいたしました」
「瑩。もう終わったの?」
後ろから声がかかり、ゆっくり振り向く。綺麗な顔にどことなく漂う疲労の色。あぁ、今日も頑張ったんだなぁと思う。
「今日は、私が頑張るからね」
少し屈ませた後に、彼の頭を柔らかく撫でる。嬉しそうに緩む彼の顔。それを見た瑩目当ての女性が、私を睨んでいることに気付かなかった。
彼の手を取って、二人で灯火を行っていく。左手にほのかに温かい紅色の陽炎が揺蕩う。それを、壁際の燭や燈籠に灯していく。今日は、自分たちで一つ一つ火をつけるのではなく、自分で作り出した炎を灯しているので何倍も早く終わる。届く範囲は限られているが、一つ一つ点けていくよりは瑩が疲れなくていい。当の本人は不安そうな目で私を見ているけれど、大丈夫だと笑って見せればそれも緩む。
「瑩、終わったよ」
「紫玗様、お疲れではありませんか?」
私がやりますと言い出さないようにと繋いでいた手を、いつの間にかしっかりと包まれている。いつもの何倍も早く終わったが、疲労がひどい。
「少しだけ、疲れたかも」
「紫玗様」
「でも、倒れるほどじゃないわ。だから、夕餉を食べていかない?」
「しかし…」
「家で食べるのもいいけれど、たまには贅沢しないと息が詰まっちゃうもの」
「…体調が優れなくなりましたらすぐにお申しつけくださいね」
「うん。分かってる」
妖力とでも言えばいいのか、紲家の人間には人並み外れた力があった。それは、男子にのみ継がれるものとされてきた。彼女は雙孖の弟、紫鈺と同じその力をもって生まれた。その異才な子の誕生に紲家の重鎮達は焦った。愚かしいことに彼女を亡き者にせんと暗殺を企て、両親は彼女を守るために死んだ。私が生きていられるのは、その暗殺の実行が遅かったからだ。両親が死に、それを目の前で見ていた私の力が暴走した。今は、その力がほとんどない。紲家を追い出された時に、奪われた。雙孖である弟によって。けれども、それは私と弟による共犯だった。彼があの家で生きるには、要らない子である私と決別しなければならなかったのだ。彼は最後までそれを嫌がったが、私が出した条件を聞いてやっと呑んでくれた。今でも、弟とは文でやり取りをしている。
その残された少ない力で出来るのは、せいぜい術燹と呼ばれる紅色の火を灯すくらいだ。だいぶ前に、どれくらい使えるのかを試したことがあったが、加減をしないまま使ったら倒れてしまった。瑩がいない時にやったものだから、倒れている私を見つけた彼が半べそをかいていた。まぁ、彼が過保護なのは私のせいでもあるんだって自覚はしている。
「ごめんね。瑩」
「…なにがですか?」
「あまり高いものを頼めなくて」
「…紫玗様と食べられるなら、なんだって美味しいですよ」
彼は、本当に私に甘い。