雨の名前(州と一夜の短篇17回)
「ずっと一緒に行こうよ、帰ろうよ」
バケツの水を引っくり返した。そんな土砂降りの中、シグレは雨に打たれていた。叩きつける生暖かな水滴が天地を繋ぎ、ほの暗いこの世界には自身しかいないような気持ちになる。反面、離れた場所へ手を伸ばす雷鳴を自分ではない自分が聞いている。自分を嘲笑いながら見るもう一人の自分。夏がもたらす短時間の豪雨は、長くは続かない。感傷に浸れる時間は長くない。
シグレを溶かそうと雨は降り注ぐ。水を吸い、重くなった服がまとわりつく。ひたり。密着する衣服は、しなかった行為に対する後悔よりもどうしようもなくシグレを包む。
ふ、と。
雨が途切れた。
わかっている。迎えに、来た。
傘を差してくれるのは決まってあいつだ。
「遅いよ、ハクウ」
「主役は遅れてくるものさ」
「それにしたって遅いよ」
「私が来ないかも、と。不安だった?」
「ああ、不安だった」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「ふん?」
「ハクウが来ないと帰り道がわからない」
「冗談。そんな子供じゃないはずだよ」
「何だよ、ハクウ。今日は突っかかる」
「シグレ、こういうのはもう止めろ。私はもう君を見付けれない。だから君も隠れるな。じゃないと君はいつか私が来ようと来まいと、雨に溶けていく。独りで」
「俺も人の悪夢に溶けるか。……別に良い、ハクウがいれば」
「またシグレの我儘が始まった」
「我儘って言うな」
「誰かの悪夢が天に昇って雨雲になる。だから降ってくるのは憂鬱な気分になる雨だ。常識じゃないか。ただ、今のところ科学的には水蒸気って輩の存在が多数派だ」
「今は誰も信じなくても、今に歴史が証明する」
「わかった、わかった。睨むなよ。ほら、もう帰ろう」
「イ・ヤ・だ!」
やっと会えたのに。今の雨雲と地面みたいに。雨を伝ってやっと繋がったのに。シグレはまだハクウと居たかった。離れがたい。何故だろうか。今までもこれからも「まだ」ではなく「ずっと」一緒に居るのに。
もう会えない。本能が告げる。
ごねるシグレの腕をぐいとハクウが捕まえた。
「一緒に還ろうよ」
腕を引くハクウの力がやけに強い。こんなに強い力を持っていただろうか。持っていたとしてもハクウが、シグレへ対して有象無象の他人とは違う、特別な感情から力で訴える真似などしたことがなかった。
それなのに、何故。優しさに慣れていたシグレは痛みと虚勢でキッとハクウを睨んだ。その瞳は手負いの獣のように、威圧と共に怯えていた。
「痛いよ、ハクウ」
「帰ろうよ、シグレ」
「やだって」
「帰ろう」
「帰らない」
「帰る」
暫くの帰る帰らないの押し問答の末、折れたのは珍しくシグレだった。ハクウが、あのハクウが頑として譲らないのだ。こういう時はハクウの言うとおりにした方が良いとシグレも理解はしていた。ただ胸が騒ぐ。シグレのこの思いも無理矢理、杞憂にした。後にも、無論先にも、シグレがハクウに折れたのはこれが初めてのことだった。そう、最初で最期。
ハクウは俺ともっと居たくないの?
居たいよ、ずっと。
「しつこいな、ハクウは!」
「帰ろう」
「わかったよ、帰る。一緒に還るから」
還る場所がどんな場所でも。
「本当に?」
「うん」
「本当に帰るの?」
逆転。ハクウは露骨に「帰る」と口にしたシグレの声を嫌そうに聞いた。
表情に「なんなんだよ」と苛立つシグレ。どっちなんだよ!
顔に書いてあるものの、ハクウの雰囲気に気圧されて、いつものように文句が言えない。
言葉の代わりにハクウの傘を差してくれる手を握った。冷たい手だった。一緒に逝こうよ。
「一緒に帰ろう、ハクウ」
「わかってないよ、シグレは。僕らが帰る場所は悪夢なんだ」
「ハクウ?」
「ずっと……一緒に帰りたかった、な」
ハクウ。
シグレが名前を呼ぼうとした刹那。傘が風にあおられて宙を舞う。地面に落ちる。気づかぬうちに雨は止んでいた。遠くで山の背中にソフトクリームのような積乱雲が渦巻いている。
いない。
「ハクウ?」
脳でリフレインされるハクウの声と合唱して、遠くで響く救急車のサイレンがやけにねっとりと鼓膜から脳内へと侵入してきた。
事故による昏睡状態から目を覚ました患者は、幼なじみとはもう二度と帰れないのだと、一筋だけ頬に雨を降らせた。
この雨の名前は誰もが知っている。
「一緒に逝たかったよ、還りたかった」