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ことだまカンパニー  作者: 今神栗八
第三章 由紀
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第三章 由紀(1)


「マスター、シャンディーガフお代わり」

 空気を抜いた特製ハンバーグのたねが並んだトレイを前に、マスター・ジロー白須田しらすだは、私の注文を聞いて眉をひそめる。

「ユキちゃん、大丈夫かい」

 使い捨て手袋を外しながら、マスターは私の顔色をつぶさに観察した。カウンター上のダウンライトのせいで、私の酔いがどれほどのものか、顔を見るだけでは分からないだろうと思う。でも、実際私は、最近ではちょっと覚えがないほど、ひどく酔っていた。それも、気持ちの良い酔い方ではない。どんよりした澱みが体内に積み重なっていて、気を許すと一気に喉元までせり上がってくる気がするのだ。

「ユキちゃん、何か食べた方がいいんじゃないか。もともとお酒、弱いだろう? すきっ腹にそんなに飲んじゃ、悪酔いするよ」

 マスターが心配そうな顔でカウンター越しに寄ってきた。

 ――悪酔い、もう、してるよ。

 私は左腕の肘から先をカウンターのへりにかけて頭を垂れつつ、一人苦笑した。

 マスター・ジロー白須田。

歳を訊いたことはないけれど、もう、いい中年だ。私はこの人の過去など知る由もない。だけど、きっと若い頃はモテたことだろう。また、基本的に、イケメンが歳を取ってもやはりイケメンなのだ。若い頃よりも渋みが加わって、今の方がいっそう魅力的になっているかもしれない。物知りで物静かで、上品なオーラを持っているこのマスターを、私は客として好きだった。

 白のドレスシャツに黒のベストと蝶ネクタイ。いわゆるバーテンダーの基本形ともいえるオーソドックスな服装ながら、糊が効いたシャツに染み一つない。

 ちらほら銀が混じり始めている頭髪は、今日も几帳面に整えられている。仕事中に一本たりとも抜け落ちることのないよう、きちんと固められていた。

 輪郭のはっきりした頬から顎のラインに、皮膚の表面から一ミリでも顔を出す無精ひげなど、ただの一本もあり得ないと私は今日も確信できた。

 このバーテンダーは、プロだ。隙がない。しかも、この人の真のプロフェッショナリズムは、隙がないのに厳格さを感じさせず、爽やかで親し気な接客ができることにあると、私は思っている。客の心の垣根の内側に土足で踏み込むような真似は決してしないが、なじみ客にビジネスライクに距離を置き続けることもない。そして私は、マスターとは打ち解けた会話ができるほどの常連だった。

 たった一つ、気になることを除いては、私はこの人の店で時間を過ごすことを快適に感じている。それで今日もつい、ふらりとこのお店に来たのだけれど、今日に限っては、注文の品を出してくれる以外は、私にかまって欲しくなかった。

「マスター、いいからお代わり」

 マホガニーのカウンターに頬杖を突きながら、マスターを睨む。そして空のグラスを片手でコースターごとマスターの方に押し出した。

「よほど嫌なことがあったんだ」

 軽いため息をついて、グラスを下げたマスターは、私の反応を推し量るようにつぶやいた。

 そうよと答えたら次々と上手に質問されて、答えなくちゃならなくなるのが嫌だなと思い、私は黙っていた。マスターは仕事柄、そういうの、上手いから。

 しばらくしてから私は話題を変えようと、マスターに訊いた。

「今日は、マサヨさんは」

 冷蔵庫からビールとジンジャーエールを取り出しながら、マスターは答える。

「ああ、マサヨたんは六時からだから、もうすぐ入るよ」

 ――出た。マサヨたん。

 私はマスターがこちらを見ていないのをいいことに、うんざりして脇を向いた。

 たった一つの気になること、そして、聞いている私の方が恥ずかしく思うのが、この、「マサヨたん」だ。

 マスターにとって私は客であり、その客が不快感を覚えているのだけれど、マスターは私の、たぶん二回りも年上で、このこと以外には、彼の言動に不快なことがあるわけではないので、今まで黙っていた。でも今日の私は、酔いに任せてつい言ってしまった。

「ねえ、マスター、今、私の他にお客さんがいないから言うけど、その『マサヨたん』って呼び方、どうかしらね」

 マスターは、穏やかな顔に戻って瓶の栓を抜く。

「え、どうかしらねって?」

 全体のイメージがかなり良い人だから、まあ、不可解なことの一つくらいは……と今までそのことには触れずにいたのだけれど、今夜は、マスターのその白々しいとぼけ方が私の癇に障った。

「あのねマスター、人前ではその呼び方、どうかな。マスターももう、いい大人なんだし」

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