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ことだまカンパニー  作者: 今神栗八
第一章 万三郎
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第一章万三郎(11)

十一


 社長が言い終わる前に、三浦は自分の社章をスーツの襟に着け始めようとしている。が、このようなタイプのバッジは初めてらしく、要領を得ないようだ。

「藁手内くん、手伝ってやりなさい」

「はい」

 社長の指示を受けた藁手内……さんは、涼やかな表情ながら、ほんの少し、照れたように顔を赤らめ、三浦に近づいて言った。

「タックピン、初めてですか」

「はい。すみません、お願いします」

 ――そうか、これ、タックピンというのか。

 藁手内さんは三浦から社章を受け取り、彼のスーツの襟のフラワーホールに挿し、襟を裏返して、ピンの先をキャップのような留め金で留めようとした。

「つッ……」

 彼女は留めそこなって自分の指先を刺してしまったようで、留め金をポトリと落とした。

「あら、ごめんなさい」

 彼女は留め金をさっと拾い上げると、それからは流れるような手つきで社章をつけ終え、三浦のスーツの両襟の下の方を両手で持ってサッサッと下へ引っ張ってなじませた。

「オッケーです」

「ありがとうございます」

「いえ……」

 杏児のお礼に藁手内さんは、はにかんだ笑顔でちらりと彼を見上げて応えると、次に俺の方を見やった。藁手内さんはたぶん、手伝いましょうと申し出ようとして、その言葉を飲み込んだはずだ。俺は、自分の社章を握りしめたまま、最後の段階でためらっていたから。

 ――英語かあ。もう一度やるのかあ……。

 そんな俺を見ていた社長が、また、紐の一本を緩め、語りかけてくる。

「KCJで英語を学習するということは、英語との関わり方を変えるということを意味する。それは、中学、高校、大学と、今まで君が教科書で学んできた英語の世界とは、まったく違う」

 俺より少し背の低い古都田社長は、一歩歩み寄りながら、下から見上げるように見つめて、言葉を継いだ。

「今、君は、その世界の扉の前に立ちながら、扉を開けようか迷っている。扉を開けずにこのまま立ち去ることも、自由だ」

 社長はそう言うと、今度は一瞬、押し黙った。考える時間を与えたのかも知れない。三浦も手を止めて社長の言葉をじっと聴いていた。

 しばらくして、社長が再び俺の目を見て口を開く。

「『最高の学習は、学び方、すなわち自分が変わる方法を学ぶことにある(4)』という言葉がある。いずれ分かるだろうが、KCJで英語を学ぶことは、自分が変わることを学ぶということなんだ。中浜くん、君は若い。考えるよりやってみることだ。苦手だと思う自分を、変えることができるか、やってみればいい。扉があるなら、とにかく開けてみればいい。自分をより高きに導いてくれる『チャンス』の階段は、扉の向こうにしかないのだからな」

 俺は腹を決めた。

「社長、……扉を……開けてみようと、思います」

「うむ。良い判断だ」

 社長はそう言って一瞬、とても魅力的な笑顔を見せた。この人が本当の笑顔を見せた――つまり、がんじがらめの紐のすべてが緩んだ――その時、俺はどんなに安堵と安らぎを感じたことだろう。さっき、この人に初めて出会ったときには、黒い毒エネルギーを流し込まれたように感じたが、今はまるで、春の陽射しにキラキラ川面を輝かせるせせらぎの清水が心の隅々にまで染みわたっていくようだ。俺は一気にこの小柄な爺さんに親近感を抱くに至った。

 ミドリムシ並みと揶揄されるまでもなく、自分でもやはり劣等感を抱いていた英語の実力を、昔の他の教科と同じくらいに引き上げたい気持ちは、心のどこかにくすぶっていた。だから、考え方を変えれば、これはひょっとすると、チャンスなのかも知れない。

 そう思い至った俺を柔らかい眼差しで見つめる社長を認めると、つい苦笑いをして頭を掻いた。

 ――社長は、俺が社命を受け入れることなど、最初から見越していたんだ。思うに、あまたの部下を束ねてきたであろう社長からすれば、若い俺の向上心に火をつけることなど、訳ないのかも知れない。

 藁手内さんが俺を見上げて微笑む。俺は彼女に自分の社章を手渡した。

「お願いします」

 藁手内さんは今度はスムーズに俺の社章を取り付け終わり、古都田に報告する。

「はい、つけました」

「そうか、つけたか」

 ほとんどまばたきをしないこの社長がそうつぶやくと、一度、とてもゆっくりまばたきをして、それから、あらぬ方向を見てニヤリと笑った。

 そんな古都田社長を、俺は思わず二度見した。笑顔の種類が、違っている。先ほどの、お日さまのように優しく、温かなエネルギーは、この爺さんから、もはやみじんも流れてこなかった。

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