5話 2つの心魂①
(ここは……どこだ?)
光の届かない、まっ黒な空間。
まるで、遠い夜空の果てにでも来てしまったかのように、ノアは一人ぽつんとする。
そこは不思議なところで、灯りが一つもないというのに、一糸纏わぬ彼女の身体が、きちんと認識できていた。
すらっとした長身に、白く艶めかしい肌の手足。
大きな大槍を持つとは思えない長く繊細な指。
しなやかな筋肉を持ちながらも、なだらかな膨らみのあるラインは、健やかな「少女」の身体そのものだった。
(……やっと死ねたのか……それともついに、みんないなくなったのか……)
ノアは自分の身体をまじまじと見る。
手を伸ばし……足を伸ばし……。
別段、ノアは女の身体に不満などない。
もちろん男になりたいわけでも、装いたいわけでもなかった。
言ってしまえば、そんなことはどうでもよいのだ。
ただ、ただ平穏に生きたい……。
自分の居場所を見つけたい……。
たったそれだけなのに、どうしてこの身体はこんなにも呪われているのだろうか。
ノアはとっくに枯れ果てた涙を思い出す。
すると、暗闇の奥で一人の人間が、裸のまま背中を向けてうずくまっているのに気づいた。
泣いているようだった。
「……誰?」
思わずノアは声をかけた。
めそめそと泣きじゃくる声に、華奢で小さな背中は、彼女よりも幼い少女のようだった。
ノアは一歩、また一歩と彼女に近づこうとした。
助けてあげなければと、なぜか彼女の本能は語っていた。
栗色の髪の毛。
長さは肩につくくらいか。
ノアは近づくにつれ、うずくまる少女が、自分の記憶の像と重なっていくのがわかった。
「その首筋の痣? ルアーシャ……? まさか?! 生きていたのか?」
ノアはうれしくて、うずくまる少女の背中に飛びついた。
そして頭をしきりになで、ケガがないことを確認し、もう一度首筋の痣を見る。
首の右下に、蝶の形をした「赤い痣」。
たしかに「ルアーシャ」だった。
「ノ……ア……?」
泣きじゃくりながら、ルアーシャはノアの名を呼んだ。
「ああ! そうだ、ルアーシャ!」
そう言ってノアは強く抱きしめた。
ルアーシャは小刻みに震え、怯えてばかりいた。
きっとルアーシャは、ずっと一人ぼっちで寂しかったに違いない。
この何もない空間で、孤独に耐えていたのだ。
こんなにも小さな身体で……。
(俺にはわかる……ずっとそうだったから……)
ノアは、ルアーシャをうしろから抱きしめなおした。
彼女は、ルアーシャが安らぎを覚えるまで、ずっとそうしようと考えた。
ところが彼女は、ノアの期待とは、じょじょに様子を違えていった。
震えていたその肩は大きく揺れだし、やがて笑い声に乗っかっていく。
「フフッ……フフフフ!……アハハハ――ッ!!」
きゅうに笑いだしたルアーシャの異変に、ノアは寄り添っていた身体を少し離した。
戸惑いを見せるノアに、ゆっくりとふり返るルアーシャ。
彼女はその顔を見て驚いた。
ルアーシャの両目からは、深い緋色の涙が流れていた。
そしてまばたき一つせず、歯を剥き出しにし、狂気にかられた笑いをする。
ノアは怖くなってのけぞった。
すると、ルアーシャはすくっと立ち、彼女へにじり寄る。
足がもつれて、ノアは倒れ込んだ。
空気のように身に力が入らない。
ルアーシャはノアをのぞき込むように立つと、脱力したように腰を落とし、馬乗りになった。
久々に触れた細く軽い人の質感は、異様に冷たい。
そのうち彼女は頭を抱え、顔を掻きむしり、獣のような声をひねり出した。
Ooooo!!!!
頭をふり乱し、ルアーシャは錯乱する。
「……やめるんだ、ルアーシャ……どうしてしまったんだ?……」
ノアの問いかけはいっこうに届かない。
やがてルアーシャは、緋く染まった自分の手を見て、薄気味悪い笑みをもう一度浮かべた。
と、彼女は緋のついた指で、ノアの顔をなぞろうとしてくる。
その行為に、ノアは目を閉じることもできず、無抵抗のまま緋に染まった。
指は顔を過ぎると喉もとに触れ、自然と首に手をかけはじめる。
軌道が締めつけられ、呼吸ができなくなった。
ノアは声を失った。
もう、目前の出来事を受け止められなかった。
なぜ、ルアーシャは自分を殺そうとしているのか。
彼女はまた高らかに笑いだす。
(……どうして……)
視界が霞みだした。
暗闇の中で〈霞む〉のは、夢を見るときくらいか。
いや。
夢から覚めたことなんてなかった。
いつだって悪い夢を見ていた。
しだいに、ルアーシャの狂気じみた顔はぐにゃぐにゃに崩れ、異形の形をなす。
それは記憶のどこかで見た、黒く獣のような輪郭……口の中から二つの深緋の目を光らせる。
(――漆黒の狂戦士――)
ノアの身体から憎しみが込み上げた。
不思議と身体に力がみなぎる。
怒りだ。
彼女は首にかけられた手を力づくにはずし、馬乗りになった「アイツ」を押しのける。
ドシャリと鈍い音がした。
ノアの目の前には、漆黒の獣鎧に覆われた戦士が倒れていた。
彼女の首に手をかけていたのは、ルアーシャではなかった。
自分の人生を奪った寄生主……今度は大切な人の記憶までを支配しようというのか。
ノアはたまらず発狂した。
こめかみやら眼やら、顔じゅうを自分の爪で引っ掻いて緋い涙を流し、言い知れない怒りと憎悪が込み上げてくる。
彼女はついに感情を抑えきれず、倒れていた漆黒の狂戦士の上に乗りかかり、同じように首を絞めつけてやろうとした。
金属とも、皮膚ともいえない狂戦士の固い喉もとに、激しく爪を立てる。
ギリギリと爪音は、いっこうに狂戦士の首もとに食い込むことはなかった。
ただノアの爪が割れ、血だらけになり、新たな痛みだけをともなう。
肝心の狂戦士は、平然とこちらをうかがっている。
「ふざけるなァーッ!!……」
ノアは奥歯を噛み、憎悪を込めて言い放った。
ありったけの力をしぼると予想外にも、狂戦士の上体が持ち上がった。
手もとの首はパキパキとひびが入りはじめ、爪はおもしろいように食い込んでいった。
ノアは猟奇的な気分で満たされていく。
(……殺してやる!!……)
狂戦士の顔が緋く、どろどろに崩れた。
涙なのか、血なのか。
ノアの目はぐしゃぐしゃになった。
それでも手もとは緩めなかった。
すると、とつじょ漆黒の狂戦士の顔は柔和な表情へと変わっていく。
獣のようにせり出していた口は鳴りを潜め、闇のような黒が抜け、繊細な髪を散らし、少女の陰影を映し出す。
しかし、その陰影はまたぐにゃぐにゃと崩れるように連続変化し、なかなかその実体をつかめないでいた。
(……誰だ?……灰の髪? まさか俺……いや……)
ノアは神経を鋭敏にする。
しだいに、覚束なかった陰影がはっきりしだすと、彼女はひどく自分自身を恐れた。
(……ルアー……シャ?……)
いつのまにかノアは、やさしく微笑むルアーシャの首に手をかけていた。
気がつけば、ノアの腕は、足は、胴は……漆黒の大きな花弁の形をした鱗の鎧に覆われ、頭は獣口に半分呑まれている。
そして痛みとはまた違う、激しい苦しみを思い起こすと、すでに身動きはとれなかった。
鋭い牙の隙間から、ぼんやりと映る緋い意識の中、肩についた黒く鋭い刀のような大爪の武器――刀大爪――を手の甲へと突き出し、今にもルアーシャの喉笛を首ごと引きちぎろうとする――