4話 交錯②
「かなり、傷だらけみたいだけど、平気?」
薄紫の髪の少女は、意外にも大人びた口調で話す。
彼女はいつのまにか、青紫だった瞳の色を茶色に戻し、冷ややかに微笑んでくる。
ノアは奇妙に思う。
そして本来なら、助けが入ったことに喜び、感謝するところを、彼女は反対に激昂した。
「邪魔をするなっ!」
喉もとのナイフを下ろし、ノアは凄むように少女へ言った。
「あら? あなた、あの不気味な犬に追われて、何を思ったか、そのナイフで自害しようとしたんじゃ?」
少女は眉をひそめると、また冷ややかな笑みでノアを見返す。
「……まあいい」
ノアは少女を鼻であしらい、手に持ったナイフを腰に収めた。
すると茂みの奥から、板金鎧に、少女と同じ白のサーコートを纏う、「麗しい騎士」が駆けてやってきた。
「サジュ隊長!」
金色の流れる髪は長く、女とも見まがう風貌の騎士は、颯爽と下馬するや、ノアの目前にいる《《気取った》》少女をそう呼んだ。
「フフッ、ハッ……アハハハハッ!」
ノアは思わず笑ってしまった。
「〈どこの国〉の兵隊か知らないが、女が、それもこんな幼い少女が長を務める上、女男の騎士までいるとは、そんな貧弱な兵団があるのか? なぁ、嘘だろ? それとも、〈演劇ごっこ〉か何かか?」
「無礼な! 我が隊長を侮辱するばかりか、〈内海を司る大国〉まで愚弄するか?! 調子に乗るなよ!」
(〈内海を司る〉?……新しい統一王朝か?)
ノアは少し、思案した。
その一瞬をつくように女男の騎士は、ベルトに通した腰の鎧刺突剣を抜き、彼女に向かって突っかかろうとしてきた。
「待って、レイノン!」
「し、しかし……」
サジュは、「レイノン」と呼ばれた女男の騎士を手で制止すると、ノアに軽くわびを入れた。
しかしながら、サジュはにこりと笑い、
「まぁ。〈演劇ごっこ〉をする、そんな兵隊のいる国もあるってことよ? でも、あなただって、あんな重そうな武器を持つわりに線は細いし、あまり男のようには見えないけど? そもそも、何だか口数も多くて態度も男らしくないし……」
と、ノアの全身を隈なく見まわし、鋭い目つきであごを突き上げた。
その瞳は、またあの青紫色をしている。
それも奇妙なことに、黒い色のはずの瞳孔までもが、青紫へと変わっていた。
ノアは一瞬、戸惑った。
それは女と勘繰られたとか、相手が普通の人間かどうかというより、もっと自分の〈内側〉を見透かされたように感じたからだった。
だが、彼女はけして怯まなかった。
「くっ?! ケンカを売っているのか!」
拳を握り込み、飛びかかろうとした矢先、ノアの足もとに大槍が突き刺さった。
レイノンが投げ入れたのだった。
「私が相手をしてやろう? その身体に似あわない槍を、おまえがどうふりまわすのか、一度見てもみたいしな。それに丸腰でやりあうのは、〈フェア〉ではあるまい?」
レイノンが金色の髪を掻き上げ、きざったらしくものを言う。
ノアはついかっとなり、頭に血がのぼった。
「あぁ……かかってこい!――」
「はいはい! 私が悪かったわ。私が意地悪なことを言ったから」
サジュは、ノアとレイノンのあいだに無理に入り込み、まず、ノアのほうに目を向けた。
「それに、相手は傷だらけじゃないの……このまま果たし合いをするのは、『フェアではあるまい?』」
今度は「誰か」の口ぶりをまねて、サジュはレイノンのほうへ顔を向ける。
「からかうとは、あんまりです」
サジュが笑った。
レイノンは切れ長の目でノアをにらみ、チッ、と舌打ちをしてすぐに引き下がっていった。
(この男も、見た目がきれいというだけで、所詮はただの〈野蛮〉か……)
ノアはレイノンを汚らわしいと思った。
それにしてもサジュとやらは、わざわざ、女男の騎士を静止しておいて棘をふりまくとは、ずいぶん嫌味な性格をする。
おまけに、大人びた口調や振る舞いといい、少女のような見た目とは大きな乖離を感じる。
しばらくノアは、サジュのうしろ姿を険しい目でじっと見ていた。
それを察したか。
勘のいいサジュは、ノアに踵を返し、冷めた目つきでにこりとする。
挑むような彼女の目に、ノアは一度、顔を突きあわせて応戦しようと思ったが、すぐに目を逸らしてしまった。
性格も鼻につくが、ノアはどうもさっきから、この少女の目が苦手でしかたなかった。
視力がよく、神経も過敏すぎるせいか。
彼女にはサジュの瞳の色変化だけでなく、瞳孔のはっきりとした動きまでわかってしまうのも、おそらくその一因だった。
何とも、サジュの瞳孔の弛張する動きは精密すぎて、またあの青紫色の瞳にでもされたら、今度こそ心の中を、ぜんぶ明け透けに見られてしまいそうで嫌だった。
「そうだ?! これから私たち、『テューウォユージ』に向かうのだけれど、いっしょにどうかしら? 傷の手当も――」
「いや、結構だ」
ノアはためらいもなく即答した。
「そう、遠慮しなくていいわ。あの不気味な犬のことも聞きたいし、あなたのことも……」
そう言って、サジュはノアの腕を引こうとした。
「俺に触るな!」
とっさに身を引いて、ノアはサジュの腕をかわした。
ほんの少し触れただけのサジュの指先に、心臓を抉られたかのような悪感が、胸の中で渦巻いた。
ノアは他人に触れられるのを異常に嫌った。
むやみに他人に触れられると、自分が壊れてしまいそうになるだけでなく、相手をも壊してしまうのではないかと恐れているからだった。
現に彼女は、おそらく彼女は、たくさんのものを殺してきた。
できればもう、誰かが目の前で無残に壊れ、死んでいくのを、ノアは、《《ただ無力に眺めている》》のだけはごめんだった――
もちろん、ノアはこうした態度が、他に対してまずいことは嫌というほど知っている。
しかしながら、そうとは知っていても、彼女には、その心情を打ち明けても弁明のしようがない〈秘密〉がある。
その秘密を語っても信じてもらえもしなければ、たとえ、証明をして信じてもらえたところで、彼女の身体の中の《《アイツ》》がまたたく間に、相手の目も耳も、何もかもを奪っていってしまう……。
だからこういうとき、ノアは刺々しく応対してすぐにうしろを向く。
せめて相手のあの驚いたような、それでいて軽蔑するような顔をなるべく見ずに、その場を去らなければならないと思っていたのだ。
「悪いな……一人がいいんだ」
大槍を背中に収め、ノアは歩きだした。
少し膝が笑っているのはどういうわけか。
もう何日も走りつづけた疲労だろうか。
とつぜん胸糞悪い感情が、少しずつ吐き気を催すように込み上げてくる。
「ちょ、ちょっと!」
「隊長! 人の善意を無下にする奴など、放っておけばいいのです……」
少しずつ、遠くなる二人のやりとりが、きゅうに耳の中で子守唄のように聞こえた。
(ん?……何かおかしい……)
気がつけば、ノアは地面を見下ろしてうずくまっていた。
身体は熱を持ち、腹に不快感がある。
とつぜん後頭部が、ぴんと張り詰め、すべての髪の毛が逆立つような感覚を覚えた。
そして、じょじょに記憶にない、〈怒りと憎悪〉が込み上げてくる。
(……まずい!……)
「お、おいっ?! きゅうにうずくまるとは、クソッ!」
あの女男のきざな口調が、耳もとに飛び込んできた。
「……な……ろ……」
ノアは爪を立て、顔を掻きむしりはじめる。
「あアぁァあぁァァ!!……」
自分でも恐ろしいと思えるくらい、地の底に響くようなうめき声をあげた。
たちまち悪感と寒気が身体を襲い、胃の中を上に押し上げ、中身を吐き出そうとする。
だが、昨日今日と、水や野草以外にほとんど何も口にしていないノアは、痙攣するような胃の収縮の不快感に、生唾と緑色の胆汁を出すだけだった。
「なんだ? どうしたんだ?! こいつは!!」
驚いたレイノンは身体をのけぞる。
そのうしろから、サジュがあわてて身を乗り出した。
「そこをどいて! あなたは、今すぐ馬車を近くにつけて!」
サジュは、レイノンの肩に手をかけて言った。
「……了解しました!」
レイノンは急いで馬に乗って駆けだす。
サジュはノアを助けようと背後についたが、彼女にとっては迷惑なことだった。
「……なれ……ろ……! はな……れろぉオ!」
ところが、サジュは逃げようとしない。
それどころか、彼女はノアの背中に両手をあて、何かをつぶやきはじめた。
ノアには、サジュが呑気に〈おまじない〉でもしているとしか思えなかった。
(いったい、何をしている?!)
ノアは腹立たしく思った。
このままでは自分が制御できなくなる。
また、身に覚えもない激しい怒りと憎悪を呼び覚ます。
その感情も、あの漆黒に身体を奪われてしまえば、自分の「アイツ」に対する激情と無情とで塗り替えられていく。
また、あの緋い意識の闇に支配されていく……
やがて、ノアの胸部が盛り上がる。
大きな花びらのような固く黒い鱗が、彼女の肉を張り裂くように現れ、身体を取り込んでいく。
鎖骨の上や首下まわりの肉から、大きな獣の口がせり出し、鋭い牙を剝きはじめ、今にも彼女の頭を呑み込もうとした……
Ahhhhh......
(もう遅い……あぁ……恨むなよ――)
ノアはぼうっと緋く染まりだす意識の中で、最後に森の殺風景を眺めると、静かに目を閉じた――
交錯 end