3話 交錯①
「――クッ! 何度も、何度も!」
革靴の底裏から、擦れる鉄の音を空の蒼へと響かせる。
ノアは、年季の入った胸当ての銀を光らせ、岩場を蹴り上げた。
男装をしたその少女は、あどけない黒い瞳に強い意志を秘め、軽々と連なった小さな崖を飛び降りていく。
やがて彼女は、乱れるショートの髪――灰に少し金色のかかる透きとおった髪を風に流し、目前の森を駆けた。
胸当ての下の薄茶けた長袖のコットは、ところどころ破れ、白い肌を晒す。
すでに傷だらけの肌は、木々のあいだをくぐり抜けていくたび、赤く痛ましい枝先の跡をためらいもなく重ねつけた。
ノアは、谷川でマントを失くしたのを悔やんだ。
だが今は、そんなことにかまっている場合ではない。
追手たちの足は速く、このままでは捕まるのも時間の問題だった。
(片づけるしかないか……)
あいにく、ここには誰もいない。
ノアは背中の、傾斜して収めた太く長い大槍に手をかけ、戦えそうな場所を探した。
ちょうど運よく、森を突っ切る広い道が彼女の行く先に現れた。
あとは追手たちの出方を見て、うまく待ち受けるだけだった。
ところが――思いがけず遠方から、複数の馬蹄と馬車を引く車輪の音が聞こえてくる。
どこの国の所属かはわからなかったが、小規模の兵団が、ちょうど同じ森の道を通りかかっていた。
ノアは面倒に思った。
とはいえ、別にどの兵団と出くわしたところで、自分の身の上に不都合なことは何一つない。
しかし、〈今の彼女〉にとっては、最悪な状況に違いなかった。
「なんだ? あいつは?」
馬車から離れて先導する、一人の騎兵がノアに気づいた。
彼女はとっさに顔を隠し、反対の森へ入って身を隠した。
だが、かえって様子をあやしまれてしまった。
すかさず、その騎兵は、
「止まれ!! 止まれ!!」
と大声で旗をふり、後方の黒い大きな馬車をむりやり止めさせた。
遠くなるノアの背中のほうで、兵たちは状況確認をはじめ、変にあわただしくなっている。
しかしながら、どうやら彼女だけがその原因ではなかった。
ついさっき、彼女のあとを追う、ひときわ大きい「赤黒い犬」たちが、兵団の前を飛び出し、横切っていったのだった。
ノアは少し焦りつつ、なおも森を駆けた。
せわしく動く足下の革ゲートルは、黄色い陽に色褪せる。
できるだけ森の深く、追手から逃れるというよりも、今は兵団から離れることだけを考え……
(もっと深く、もっと深くへ……)
しかし、そこに待ち伏せていたのか。
同じ赤黒い犬たちの仲間が数匹、正面に見える木々の上で身構えていた。
まんまと挟まれた格好になったが、ノアは迷わず正面突破を選んだ。
すると、待ち受けていた犬たちが慌てて、樹上からいっせいに飛びかかろうとする。
Gawrrr!!!!
犬たちは、不快な赤黒い皮膚の色を光に散らし、喉をいかつく鳴らした。
「ヤァア――ッ!」
密集する木々の中、ノアも負けじと大槍を両手に持ち直し、大声で犬たちを威嚇した。
そして腰を低く落とし、いったん立ち止まると、やや窮屈に両手で持った槍を力強く頭上で横にまわした。
重く鋭く回旋する大槍に、一匹の間抜けな犬が身体をぶつけて怯む。
と、ノアはすかさずその喉を突き、後方へ払った。
喉を突かれた犬は、ヒュー、と笛のような鳴き声を放ち、うしろの木の幹に背中を打ちつけてぐったりとした。
ノアはふたたび駆けだし、ちらりとうしろを流し見る。
追手はもう、そこまで来ている。
すでに数匹は仕留めたはずだったが、あまり数は減っていないように思えた。
むしろ、その数は増えているとも見受けられ、赤黒い色とあいまっていっそう不気味に感じる。
ようやく、開けた場所に出た。
ノアは大槍を軽くまわし、右手に持ち替え、身体をうしろに捻って反転させる。
静止した犬たちは、彼女と距離をとり、向けられた槍の先を鋭く見返した。
飛び込むタイミングを計っているのだ。
「くるならこい!……雑魚ども!」
左手で手招きするよう、挑発したときだった。
とつぜん背後から、巨大な影がノアに飛びかかってきた。
間一髪、身をかわしたが、鋭い牙を持つ大きな口に大槍を持ってかれてしまった。
(ッ?! しまった!!)
迂闊にもほどがあった。
あまりに骨のない追手たちに、ノアは高をくくっていた。
だが、目前の「そいつ」は違う。
片目に傷を負った巨大な犬は、たんに図体ばかりではない。
ノアの使う大槍は通常より小型といえども、2メートルを越え、重さも5キログラムほどあり、軽々しく口で咥えて持っていける代物ではないのだ。
それも直前まで気配を消して……
(……こいつは別格だ……)
片目傷の犬は軽く顔をうしろにふって、咥えていた大槍を放り投げた。
この犬もまた、同じ赤黒い皮膚を不気味に光らせている。
ノアは汗をにじませる。
この不気味な赤黒い犬たちは、一週間ほど前から、ずっとノアをつけまわしていた。
一度は谷川に飛び込み、うまく撒いたと思っていたが、今もこうして追われている。
理由はまったくわからない。
何か恨みでも買ったか。
縄張りでも荒らしたか。
けれども、そんな覚えはない。
仮にそうだとしても、ここまで執拗に追いかけてくるものなのだろうか。
もう丸三日だ。
そもそも自分の身体は、そんなにてっとり早く餌になるようなものでもない。
にもかかわらず、この気に入られようには、ノアも疑問を感じずにいられなかった。
片目傷の犬が牙をむき、真っ向から対峙する。
ノアはだいぶ焦っていた。
だが、自分の心配ではない。
手前の犬たちのこともそうだが、とりわけ、付近にいる兵団を気にかけていた。
彼らの、その後の運命を気の毒に思っていたのだ。
(しかたない……どいつもこいつも運が悪かった……。そういうことだ)
ノアは腰につけたナイフを取り上げ、自分の喉もとに突きつけた。
選択肢はもうない。
ならばてっとり早く、自分の手で憎き「アイツ」を呼び覚ますほうがまだましだ。
と――
立てつづけに、数本の矢が片目傷の犬の足もとを鋭くかすめ、次々と地面に突き刺さっていった。
(ッ?! 木の上か?)
頭上を見やると、木々のあいだから一人の少女が……まるで太陽から現れた天女のように、ふわりと地に爪先をつけ、ゆっくり降り立った。
人が空から降ってくるとは、ノアには何とも理解しがたい光景だった。
おそらく二十には満たない、十代後半の少女か。
青紫の瞳に、薄紫の長い髪。
その長い髪は持ち上げて一つに束ね、白のサーコートを身に纏う。
そのサーコートの裾には紋章――紺縁の菱形の枠に、太陽の中の黄薔薇と丸底フラスコ――が、大きく刺繍されていた。
(太陽の紋……? 『イェンヌ教』の関係か?……)
くどくどと考えている間もなく、薄紫の髪の少女は、肩に背負った矢筒から数本の矢を手に取り、そのまま、下から斜め上に腕を軽く払うようにした。
矢はたちまち、宙に散らばって浮き、少女が手を前に差しだすとともに、鋭い勢いで犬たちの喉もとを狙った。
(矢が宙に浮いて、独りでに?!)
犬たちは寸でのところで身をかわすと、たじろいで委縮した。
少女は雑魚犬たちをあしらうと、また同じように矢を宙にばらまき、今度は片目傷の犬を鋭くにらみつけた。
(馬鹿が! さすがにそいつは、かなう相手じゃない!)
ところが、片目傷の犬は苦虫を潰したかのように悔しがると、あっけなく残党を引き連れて退散していった。
森には、拍子抜けたように静寂が戻った。
ノアは唖然とした。
相手は明らかに、しっぽを巻いて逃げる半端ものではなかったはずだ。
それだけに、とつじょ天から舞い降りた少女には、想像を超えた、並々ならぬ不思議な力でも宿っていたりするのだろうか……。