『不安の拠り所』
「研究室」という表札が掛かっている部屋の中で、神流は久住に抱かれていた。漏れる声は薄く、何度も唇を重ねる。
「神流…」
今にも泣き出しそうな表情で久住は少女の名を呼び続ける。神流は抵抗しない。黙って彼の想いを受け止めていた。
「…神流……ごめんな……」
これは悪意のある行為ではない。互いに了承済みの自然的な光景。同情ではないけれど、恐らく二人の行動は「傷のなめあい」。一度傷付いた心は治らない。ただ、忘れるだけ・・・。久住の過去を知っている神流は尚更、離れる事が出来なかった。
「…疲れた?」
「…いいえ」
「浮かない表情だね」
「…足音が一つ、遠ざかって行ったから…」
「足音…?誰のか解るか?」
「すみません…そこまでは…」
「――いい。確認してこよう」
久住は優しく神流の頭を撫でてからベッドから下り、素早く服を着た。
「神流は休んでいなさい。此処から出てはいけないよ?」
「…解りました」
少女が頷くと、彼は静かに部屋を出て鍵を閉めて行った。神流はこの部屋から出られない。ただ、久住と同じ時間を過ごすだけ。
「……彩弓」
想い人の名を口にして、少女は眠りについた。
麗夢は必死であの街へと向かっていた。黒服を着ている事で商店街を通っても気付かれずに済みそうだ。このまま、無事に辿り着ければいいのだが…。募る不安を隠しながら麗夢は先を急ぐ。
「――おい!なんだよこのガキ。生意気な真似してンじゃねーぞ!?」
賑わう商店街の中で一際大きな声が注目を集めた。麗夢も一瞬何事かと思い、足を止める。目を向けた先では、若い男達が店番をしている男の子に言いがかりをつけていた。
「だから、金払えって言ってんだ!無断で商品食ったクセに文句つけるなよ!」
「なんだと、このくそガキ…」
「払えよ!その商品の金払ってから消えろ!」
一歩も引かない男の子は麗夢より二つくらい年下で強気な態度を見せていた。
「礼儀がなってねーぞ、ガキ!年上には敬語使え。じゃねぇと、痛い目見るぜ」
若者の一人が男の子の襟首を掴んで軽々と持ち上げた。強い力に敵う筈もなく男の子は口をつぐむ。
「何処まで投げ飛ばして欲しい?二度と生意気な口が利けねぇように思いっきり叩きつけてやるよ」
男の子は怯えた表情を浮かべた。若者は本気で男の子を投げるつもりだ。
「商品一個パクったぐれぇでうるせぇんだよ。最初から見逃しとけば怖い思いしなくて済んだんだぜ?バカな奴」
若者は容赦なく男の子を放った。勢いよく投げられた男の子は覚悟を決める。麗夢が動こうとした時、不意に現れた影が男の子をキャッチした。状況を見ていた人々もひと安心。麗夢もほっと安堵する。男の子を受け止めたのは麗夢と同い年位の少年だった。
「大丈夫か?」
「…うん…。ありがとう…」
「どういたしまして」
少年は男の子を下ろし、若者達を睨み付ける。
「なんだよ、お前!邪魔すんな!」
「子どもが傷付く姿は見たくないんだよ」
「はっ!格好つけやがって!」
若者達は少年を囲んで道を塞いだ。
「おれを殺るのか?止めといた方がいいなぁ」
焦りさえ見せず少年は余裕を見せつける。
「気に入らねぇ。殺れ!」
一斉に若者達が襲い掛かった。一人に対して圧倒的に不利な状況。にも関わらず、少年は口元に笑みを浮かべながら次々と若者達を捩じ伏せていった。素早い動きで相手の急所を狙っている。相当、戦い慣れしている者の動きだった。
「すごい…」
眺めていた麗夢も思わず感心していた。少年はあっという間に若者達を倒してしまった。
「さて。残るは君だけだよ」
皆を率先していた若者は戦意をなくしていた。
「わ、悪かったよ…。謝るからさ…」
「どうしようかな」
少年が若者に意識を向けている隙に倒れていた仲間の一人がゆらりと立ち上がった。
カチャ――
「随分派手にやってくれたよなぁ」
少年は銃を後ろから突き付けられ、仕方なく両手を挙げる。
「死んで後悔しろ」
「…そういうの向けたからには覚悟出来てんだろーな?」
溜息混じりに少年が言うと、若者が握っていた銃が何かに取られたようにふわりと浮いた。
「なっ…」
宙に浮いた銃はそのまま少年の掌中に収まった。
「危ないだろ。こんな大層なモン向けたら」
「返せよ…!」
「えー?嫌だなぁ。また繰り返す気でしょ。これは貰っとくからさ」
「隙あり!」
――バチィッ
若者が投げたナイフは少年に当たる直前、何かに弾かれて的を外した。
「おいおい、不意打ちは卑怯だろー」
少年の反応が遅れた事に麗夢はいち早く気付き、援護した。
「げっ!黒服…!」
「さっさと立ち去れ!邪魔だ」
若者達は疑いさえ持たず、怯えたように走り去っていった。
「よぉ、黒服」
少年は先程取り上げた銃を麗夢に向けた。
「レイラを殺した事、忘れた訳じゃねーよな?」
「…レイラ?」
「惚けんな!お前らが殺した女だよ」
「悪いけど、俺は黒服じゃない。だから、それ下げてくれないか?」
「はぁ?何言ってんだ。つくならもっとマシな嘘にしろよ」
「じゃあ、これで信じてくれるか?」
麗夢はスッと服を上げて烙印の一部を見せた。少年は其がすぐに囚人の烙印だと解り、驚いていた。
「この服は借りモンだ。俺は仲間を助ける為に出てきたんだ」
サッと身形を整えながら麗夢は説明した。少年は麗夢の眼を見て嘘ではない事を確め、静かに銃を下ろした。
「囚人…なんだな?」
「あぁ」
「仲間を助けたいって…」
「まだ囚われてる仲間がいるんだ。でも、俺一人じゃ敵わない」
「何か考えでもあるのか?」
「力が欲しい。彼処を壊せるぐらいの力が…!」
麗夢は胸を抑えながら想いの内を明かした。悲痛な表情を浮かべる麗夢に少年はスッと手を差し伸べた。
「解った。おれも友達を捜してるんだ。一人じゃとても間に合わない。だから、君に協力する」
「えっ…」
「微力ながらも加勢するよ。おれはアスカ。暫くは君の仲間だ」
少年の優しさに触れて、麗夢は彼の手を取った。
「有難う。俺は麗夢だ」
互いに自己紹介し、二人は意思を共にした。
「アスカの友達って…」
「あぁ。〈リン〉っていう子なんだけど…。黒服の奴等に連れて行かれたんだ…。あの時、もっと早く能力を持ってたら助けられたのに…」
「…知ってる。その子、俺達を助けてくれた子だ!この街の手前まで案内してくれたんだ」
「本当か!?」
「あ、あぁ。また、あの街に戻って行ったけど」
「…すれ違ったか…」
アスカは残念そうに溜息をついた。
「どうする?あの街まで戻るか?」
麗夢はアスカに意見を求めた。
「いや。その前に腹拵えしないと」
全く見当外れな応えに麗夢は気が抜けてしまった。だが、彼にそう言われて自分も空腹であった事に気付く。
「あ、悪い…。俺、金持ってねぇ」
「いいよ、奢る。彼処のお店で休もう」
二人はお洒落な外見のカフェに入り、一息ついた――。
創葉の姿を見失わない様に、リンは足を動かしていた。森の中は歩きにくく、少し薄暗い。不気味に揺れる木々が二人を監視している様だった。
「リン」
創葉は振り向きながら立ち止まった。
「どうしたの?」
「街が見えた。ボクの側を離れないでね」
「うん」
森から出ると拓けた商店街があった。行き交う人々で賑わっている。沢山の店が建ち並び、その店の一つに麗夢とアスカのいるカフェもあった。
「この先をずっと行くと廃墟がある筈なんだ。多分、其処に久住もいると思う」
「…そう」
目的地が近付くに連れてリンは鼓動が高鳴るのを抑えた。怖い…。何が待ち受けているのか、想像する事すら鬱陶しくなる。
「リン…?」
「…大丈夫だよ」
リンは平然を装ってみせた。ここまできたら引き返せない。
「少し休もうか?」
「ううん。もう此所まできたんだもん。このまま進もう」
「そう?無理は禁物だよ」
「解ってる。ホントにヤバくなったら言うから」
創葉は少し心配していたが、リンは笑顔で誤魔化した。本心は見透かされているのだろうが今更気にしたって仕方ない。二人は再び足を動かした。リンはアスカ達のいるカフェの前を通りすぎていった。話に夢中になっているアスカ達もリンには気付いていなかった。
「すみません。この先に廃墟ってありますか?」
創葉は饅頭屋の店主に声をかけた。
「廃墟?…あぁ、廃墟ね。あるよ、ここをまっすぐ行くと着くはずさ」
髪で店主の顔は見えなかったが、その雰囲気は不気味としか言いようがなかった。
「ありがとうございます」
「あんた達、饅頭はいらないか?」
「美味しそうですね。じゃあ、2つ」
創葉はお金を支払い、饅頭を受け取った。店の前を過ぎる時、店主が何か囁いているのをリンは見逃さなかった。
「…創葉」
「ん?」
「あの人…おかしくなった?」
「――今は関係ないよ。廃墟までもうすぐだから。ね?」
「…うん」
リンの心配を他所に創葉は先を急いだ。




