『二人の少女』
名前を持たない街で少女―リンは生まれ育った。安定した秩序に基づき、人々は平穏で何の不自由もない暮らしを送っていた。緑も多く市場も栄え、安寧の地とされていた。
「お母さん、行ってくるね」
「気をつけてね」
リンはいつものようにバスケットを持って買い物に出た。足の不自由な母と二人暮らしで母を支えながら生きてきた彼女は素直で優しい子になっていった。今年で16歳になるが、学校へは行かず、子ども達に歌を教える仕事をしていた。リンの歌声はとても清廉で美しい。歌い始めると誰もが耳を澄ませて聴き惚れる。少ない稼ぎだったが、其でも暮らしに不自由など無かった。
「こんにちは、シャリおばちゃん」
「おや、こんにちは。いつも有難うねぇ」
毎日市場へ買い物に来ているリンはお店の人とも親しかった。愛らしい彼女に店の人達はいつもサービスをしてくれる。リンに「有難う」と微笑まれれば誰だってその笑みに惹かれて思いやりたくなってしまう。
「リンちゃん、今日も歌いに行くのかい?」
「うん。此れから広場で歌うの」
「そうかい。楽しみにしてるよ」
街の人達から声を掛けられながら買い物していく内にバスケットの中は溢れるくらいの食べ物が入っていた。
「リン!」
市場を抜けて広場へ向かう途中の道で後方から名を呼ばれ、彼女は振り返った。
「こんにちは」
リンを呼び止めたのはレイラとアスカだった。二人とは同い年で仲も良い。
「此からどちらへ?」
「広場へ行くんだよ」
「歌うのか」
「うん。二人も聴きにきてくれたら嬉しい」
そんな風に言われたら行かない訳にはいかない。二人は笑顔で頷いた。
「一緒に行きます」
お淑やかなレイラは風に靡く長い髪に触れながら言った。美人で大人しいレイラは大人受けも良く、丁寧な口調に誰も逆らえない。
「荷物持つよ。貸しな」
重そうなバスケットを見てアスカは声を掛けた。
「有難う」
気が利いて洞察力にも優れているアスカは信頼が厚く、いつも誰かの支えをしていた。
「そう言えば、ランカの話聞きました?」
歩き始めた時、レイラが話題を振った。
「ランカがどうかしたの?」
「フェンスの向こうに行こうとしたそうですよ。通り掛かったアランが止めたみたいですけど」
「態々あっち側に行くなんてバカだな」
「ランカはまだ12歳ですし、怖いですね…」
この街には境界線が引かれていた。街の外れにある森を抜けた先にはフェンスがあり、その向こうには収容所が設けられていた。何の為に造られたのか目的は不明で何をしているのかも解らない。街には「近寄ってはならない」と警鐘が鳴らされていた。リンも話でしか知らなかった。ただ、怖い所であるという事は理解していた。
「まぁ、オレ達には関係ねぇよ」
「そうですね」
リンも頷いてみせた。けれど、知りたくない訳ではなかった。興味というのか、気にかかって仕方ない。自分の目で確めたい。だが、この二人の前ではそんな事言える筈もなかった。
「今日も沢山の子どもがいますね」
広場が見えてくると小さな子ども達が楽しそうに遊んでいた。広場には遊具もありステージもついている。リンはいつものようにステージ上に立ち、大きく息を吸い込んだ。
「あ!リンお姉ちゃんだ!」
一人の子が気付くと他の子も注目し出し、椅子に座り始めていった。リンは準備が整うと一礼して歌を奏でた――。
「綺麗な歌だ…」
澄んだ歌声に耳を傾ける少女。フェンスの向こう側にこの歌を奏でている人がいる。ずっと聴いていたいと感じた。清廉な旋律は痛みさえも忘れさせてくれる。気持ちを豊かにしてくれる。
「会いたいな…」
少女は小さく呟いた。このフェンスを越えて今すぐ見に行きたい。気持ちが先行してフェンスに触れた途端、激しい痺れを感じた。全身に電流が走ったみたいに痛くて立っていられなかった。
「…痛いよ…」
倒れた少女は涙を流した。此処に容れられたが最後、出ていく事は許されない。手足に付けられた錠は囚人の証。中途半端にくっついてる鎖が寂しそうに音を鳴らした――。
リンが歌い終った時にはもう夕刻の時間だった。親に手を引かれて帰る子ども達。全ての客を見送った後、レイラとアスカと分かれ、リンも家路に着いた。彼女を出迎えてくれた母に買い物の品を渡す。母は嬉しそうに受け取り、夕食の支度に取りかかった。リンも少しの手伝いをした。
「ねぇ、ママ」
「なぁに?」
「…境界線の向こうにある収容所ってさ…」
「うん」
「……何してる所なのかな…」
「彼処には悪い人がいるのよ。いけない事をしてしまった人達が住んでいるの」
母は穏やかな声で答えた。
「怖いな…」
「そうね。リンは行っては駄目よ」
「うん…」
もっと詳しい事が聞けるかと思っていたリンにとって母の答えは一層興味を大きくした――。
夜。静まり返った収容所内に鞭の音が響き渡った。悲痛な悲鳴は空虚に消えていく。男の罵声が恐怖を煽った。少女は檻の中で身体を震わせながら必死に泣き声を押し殺した。今夜は一人だけ。余計な動きをすれば少女も罰を受ける事になってしまう。
「神流」
怖がる少女に一人の少年が静かに声を掛けた。
「彩弓…」
「何も怖がるな。俺がいる」
そう言って彼は少女を抱き締めた。彼の温もりに少女は安堵し、そのまま眠ってしまった。
「大丈夫?」
様子を見ていた愛理衣が心配そうに聞いた。
「あぁ。こいつにはまだ辛すぎる…」
「そうね…。遣る瀬ないよね…」
此処にいるのは、人とは異なった能力を持つ子ども達。何の罪もないのに幼い命が大人の都合で奪われていく。一つの檻に6人ずつ子どもが容れられていた。毎夜一人ずつ連れ出され、拷問を受ける。助けてはならない。そんな事をしたら罰が加算されてしまう。例え仲間であっても何も出来ない。子どもは無力だ…。
「―なぁ、愛理衣」
「何?」
「境界線の向こうには何があんのかな」
「…そうね。きっと楽園だと思うわ」
絶望だけが支配する世界。けれど希望を捨てた訳じゃない。「いつか」はきっと来る。そう信じなければ笑えなくなってしまうから…。
今日も歌を奏でた帰り道、リンは珍しい鳥を見つけた。白い翼を広げたその鳥は虹色の瞳をしていた。飛び立つ姿に見惚れたリンはそのまま導かれるように追いかけた。夕刻ではあったけれどまだ明るかったので気に止めなかった。景色も見ずに夢中で追い掛ける内に少女は街外れの森に足を踏み入れていた。
「あれ…?」
気付いた時にはもう森の奥深くまで来てしまっていた。鳥は空高く飛んでいき、リンは独りきりになってしまった。
「どうしよう…」
周りを見渡すが生い茂った木々が何本も連なっており同じ風景しかなかった。
「…まずいなぁ」
ずっと留まっている訳にはいかないので、とりあえず歩を進めた。歩いていけば何処かに出るはず。そう信じて前を向いた――。
神流は近付いてくる音に耳を澄ませた。フェンスの向こうから徐々に此方に向かってくる。今の時間、監守は仮眠や食事をしているので少女が外に出ていても気付かれない。
「早く来ないかな…」
高まる鼓動に期待を寄せて少女は静かに来客を待った――。
薄暗い森の中をなんとか無事に通り抜けたリンは境界線の向こう側に見える収容所を見つけた。
「あれが…」
フェンスの向こうに立つ白い建物はどこか冷たさを感じさせ、同時に恐怖をも漂わせていた。リンは身体が震えているのに気付いた。思わず両腕で自分を抱き締める。
「…帰らなきゃ…」
そっと踵を返そうと足を動かそうとした時、背後に気配を感じ振り返った。
「こんにちは」
フェンスの向こうには少女が一人立っていた。可愛らしい笑みを浮かべ、リンに挨拶してきた。
「…誰?」
リンは恐る恐る訊ねた。
「神流って言うの。あなたは?」
「あたしは…リン…」
「もっと此方に来て。ちょっと話そう?」
「えっ…」
「ダメかな?」
笑みを絶やさずに問う少女にリンは頷き、距離を縮めた。
「リンは楽園に住んでるの?」
「楽園?…街の事?」
「愛理衣がそう言ってた。いつも歌ってるのはあなた?綺麗な旋律が聴こえるんだよ」
「あたしの歌を聴いてくれてたんだ…。有難う」
「ねぇ、歌って?近くで聴きたいの」
いきなりリクエストされ、初めは動揺していたが屈託のない少女の笑みに恐怖は消え失せ、リンは優しく応じた。
「――うん。良い曲だね」
少女は目を閉じて耳を澄ませていた。リンはいつも通りに歌った。声が空に響いていた。
「とっても良い歌。大好き」
歌い終わると少女は感想を言った。その一言にリンは嬉しくなった。
「有難う」
「また、聴かせてくれる?」
「うん。明日も来る」
「ホント?待ってる」
その時、チャイムが鳴り響いた。少女は過剰に反応し、笑みが消えていた。
「戻らなきゃ…」
「ねぇ!」
少女が動こうとした時、リンは呼び止めた。
「なに…?」
「また、明日ね!」
そう言ってリンは手を振った。
「うん!」
少女は最初に見せた笑顔で嬉しそうに頷き、急いで中へと入っていった。
「リン!!」
彼女も帰ろうとした時、レイラとアスカが慌てた様子で森の中から掛けてきた。
「レイラ…アスカ。どうしたの?」
「お前、何してんだよ」
「何って…」
「あなたの帰りが遅いからと、御母様が心配して捜しているんですよ。街の人達も協力してあなたの捜索に当たっています」
「…そんな…」
「早く帰るぞ!」
アスカに手を引かれてリンは街へと戻った。暗い空の下、沢山の灯りが動いていた。街の人々が総出でリンを捜していたようだ。
「カナン!リンが見つかった!」
ハンカチで顔を覆っていたリンの母親はすぐに娘に駆け寄った。
「リン…!」
強く抱き締められ、リンは謝る事しか出来なかった。小さな好奇心から母を悲しませてしまった事に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ごめんなさい……」
その夜は母と一緒に眠った。もう心配はかけないと誓いながら――。
夜にいつも泣く筈の神流が今日は鼻歌を歌っていた。館内にはまた誰かの悲鳴が響いているというのに。
「どうしたの?良い事あった?」
気になって愛理衣が聞いた。
「うん。出逢ったんだ」
「出逢った?」
「そう。ずっと求めてたの」
神流は今日聴いた歌を思い出していた。いつか夢で視た理想。ずっと聴きたかった歌が現れた。
「良かったね」
「うん」
その日はぐっすり眠る事が出来た。嫌な事など全て忘れて目覚めれば幸せな世界があると願った―。