第27章:記憶のない父親
【SIDE:井上翔太】
「……翔太、父親に対して興味がある?」
それはゴールデンウィークの初日の夜の事だった。
夜勤明けの母さんが起きてくるや、いきなりそんな事を言いだした。
その台詞を初めて来た時、俺は思わずドキッとする。
「ま、待て、誤解だ。母さん、俺と琴乃ちゃんはまだそこまで深い関係になっていないし、子供だって当然にできてません。俺はまだパパになってないし、孫はまだまだ先の話だ。そんなに急かされてもまだ学生の俺たちは困るぞ」
「……アンタ、バカ?そんなの分かってるわよ。付き合い初めて1ヶ月でそもそも、子供が出来たかどうかも分からないし、アンタにそんな度胸もないのは分かってる。ヘタレを絵にかいたような典型的なヘタレが恋人に手を出せるはずがない。童貞のくせによく言うわ」
「ものすごく最後は失礼な事を言った……!」
しかし、誤解されていないのなら最初の発言の意味は何だ?
「俺が父親になったと言う意味じゃないとどういう意味か分からないんだが?」
「バカ。ホントにバカ。アンタ、私の子じゃないと思いたい」
「子供にグサッとくる暴言を吐くのはやめてください。傷つくわ。で、何だよ?俺の実の父親についてようやく喋る気にでもなったのか?」
それは今の今まで母が避け続けてきた話題だ。
俺はありえないと内心思いつつも、食器洗いを続けながら母さんに尋ねる。
こちらはただいま油汚れとの戦いだ。
洗剤よ、何としてもしつこい油汚れに勝ってくれ。
「そうね。何も話さないってのは、悪かったわよ」
俺は泡だてた洗剤で食器を洗っている手を止める。
おいおい、あの母さんが俺に謝ったぞ!?
「――どうした、母さん!?何があった?悪いモノでも食べたのか!?」
「……アンタの来月の小遣い、2割削減してやる」
「じょ、冗談だってば。それくらいありえないと思ったんだ。こづかい減らすのはやめて」
「はぁ、翔太のバカさ加減にどうでもよくなってきたわ」
俺はさっさと洗い物を終えて、リビングの椅子に座る母に向き合う。
どうやら、片手間に聞くような話ではなく、真面目な話のようだ。
これは真剣に聞いた方がいいだろう。
「それで俺の父親はいるのか?」
「……死んだ。翔太が生まれる前に、事故で亡くなったわ」
「というのが今までの言い訳であって、本当は生きているんだろ?」
事故死と言う可能性もなくはないが、命日にどこかへ行ってる様子もない。
それにうちの母さんは両親とも仲が悪く、俺も数度くらいしか祖父さん達には会っていないからな。
何からしらの理由があるとみていいだろう。
「母さんが両親と仲が悪いのもそれが理由か……?」
「翔太の分際で色々と考えつくものね」
「まずは息子に対する過小評価を撤回してもらおうか」
「……そうね。バカは失礼だわ、アホにしておきました」
ましたって、過去形!?
どちらにしても侮辱的扱いだが、この態度は当たりと見るべきか。
長い付き合いだ、雰囲気だけでも何となく察する事ができる。
「ふーん。生きてるんだ。だけど、母さんとは結婚せずに、今は別の家族がいる、と」
「……アンタ、どこまで知ってるの?」
「うわっ、ちょっとよくあるドラマ風に言ったら当たったか?」
それには俺も驚き、母さんはやられたと言った顔をする。
この程度のカマかけに引っかかる彼女も珍しい。
相当動揺しているのか、慌てて今の態度を否定する。
「ち、違うわ、変なドラマみたいな事を言うから呆れただけよ」
「俺の父はどこかで生きていて、今は別の家族がいる。離婚しているわけでもないから、俺の親でもないわけだ?」
「……」
母さんは今度は黙り込んでしまった。
今から16年前くらい前と言えば、母さんの歳的に21、22歳くらいだろ?
まだ専門学校を出て新人ナースだったはずの母さんに何があったんだろう。
何やら考えていた彼女は、ようやく口を開いた。
「結婚してなくてもあの人はアンタの父親よ。血筋ではね」
「もしかして、もしかするとですが、俺って実は認知されてない?」
「……ごめんなさい」
母さんの謝罪に俺は自分の存在が極めて危うい事に気づいた。
今まで平凡に生きてきた俺にとっては衝撃的な事実。
いや、可能性としては存在していたので、考えてなかっただけだな。
「……あー、まぁ、何と言うか、ヘビーな空気ですな」
あまりにも重い話に軽い口調で俺は言うしかない。
この沈みきった母の態度に何とも言えなくなる。
「つまり、俺は俗世間で言う、隠し子という奴だったのか?」
無言で頷く母さんは今にも泣きそうな顔をする。
……ほ、ほぅ、俺がねぇ、ドラマみたいな隠し子設定があったとはびっくりだぜ。
胸にグサッとくるものはあるが、今さら感もあり、俺よりも母さんの方が辛そうだ。
「私が選んだのよ。あの人はまだアンタの存在にも気づいていなかった。16年間ずっと隠してきたから。私のエゴでアンタの人生を狂わせてきたのは謝罪しても謝罪しきれない。本当に悪かったと思っている」
「……わざわざ隠さなきゃならない相手が俺の父親ってわけだ?」
「そうね。今のあの人には迷惑をかけられない。翔太にはすごく悪い事をしていると思うわ。でも、貴方に父親は会わせられないの。責めるのなら、私を責めていい。それだけのことをアンタに私はしたの」
重い、空気が重いっ!?
俺はシリアスモードは嫌いだ、そういうのはやめてくれよ。
何とかこの場を和まそうと俺は考えながら雰囲気を変える。
「そっか。どんな事情であれ、母さんが話をしてくれた事はよかったよ。知っている事と知らない事、どちらがいいかは俺が決める事だと思うし。それに、今はこうして生活できているわけだろ?ちゃんと育ててもらってるのに文句何て言えるわけないし。うん、母さんは悪くないって」
この狭いマンションの一室にふたり暮らし。
ずっと働き続けてきた母さんには感謝こそしても、責める必要は微塵もない。
「……俺の事は良いからさ。その、父親なんて今さらだし、記憶すらもない相手の事をどうこう考えてもしょうがないじゃないか。俺よりも心配なのは母さんだ。そろそろ、再婚、というか、結婚も考えていいんじゃないのか?」
「私が……?」
「そりゃ、そうだろ。あと4、5年もすれば俺も当然、この家にはいないかもしれないし。そうなったら、どうする?まだ30代後半の今のうちに残りの人生を一緒にいられる相手を見つけるのが良いに決まってるじゃないか」
俺がそう言えるのは琴乃ちゃんのおかげでもある。
俺は人が人を愛する意味を知った、価値を実感している。
母さんには母さんの事情で、ひとりで俺を育て続ける道を選んだんだろう。
それもきっと彼女なりの相手に対する愛なんだと思う。
「年齢の事を言われるとムカつくわ。私はまだ若いわよ」
「……反応するのはそこなんだ」
「でも、翔太にそう言われるなんて思ってもみなかった。本当ならもっと楽な生き方をさせてあげられたかもしれない。片親で苦労をかけ続けきた、その罪悪感もあるわ」
人間には変えられるものと変えられないものがある。
人は自分の過去は変えられない。
過ぎ去った時の流れを変えるのは不可能だ、人生をやり直す事なんてできない。
けれど、人は自分の未来は変えることができる。
これか先の事を、どう考え、どう生きていくのか。
人生って短いようで長いのだとまだ子供の俺ですら感じているんだ。
「母さんは幸せになるべきだと、俺は思うよ。俺は琴乃ちゃんに出会って愛を知った。人ってさ、出会い一つで運命変わるって本気で思った。それまで何となくしか思わなかった愛情って言うものが実感した途端にすごい力があるって思えたんだ」
恋は生きるために必要なものなのかもしれない。
今の俺は満たされている。
この幸福感はそれまで体験した事のない物で、人と人が愛し合う事をやめられないのは当たり前の事なんだと思っている。
「何を親相手に惚気てるのよ」
「……それだけ、愛は素晴らしいと気づいたのだ。青春を絶賛謳歌中の俺は幸せなんですよ。だから、いつまでも過去を引きずってないで母さんにも幸せになって欲しいワケ。老後を寂しく老人ホームで過ごしてほしくはない――ぎゃふっ!?」
良い事を言ってるのになぜか顔面パンチ。
と言っても、全然、痛くもないけどな。
母さんの顔を見れば分かる、それはただの照れ隠し、何だか嬉しそうに見えた。
「……アンタは最後にいつも余計な一言を言うわね」
「痛い……。お、俺の言いたい事は理解してくれた?」
「それなりに。翔太がそう言ってくれるなら、私も考えてみるわ」
「うぃ。そうしてくれ」
母さんが抱え込んできた事情、それを俺は垣間見た気がした。
けれど、それは全てではないのだろう。
俺には言えない複雑な事情があるはずなんだ。
それにしても、隠し子として扱われると言う事は社会的にマズイというわけだ。
うーん、どう考えても浮気や不倫と言う悪い意味しか思い浮かばないのだが?
真っすぐな性格をしている母さんがそんな悪事に手を染めるはずもない。
となると、相手に立場があって結婚できなかった可能性が高い。
……つまり、俺の父親はそれなりのすごい人なのかもな。
だからと言って、母が隠そうとする以上は俺は実父に会う事はなさそうだが。
俺も深く探ろうとしてはいけないのだろう。
今は、長年、ひとりで抱え込んできた母さんの本音を聞けただけよかったとしよう。
翌日、俺は母は再び夜勤で、今日もひとりで夕食なので、コンビニに出かけようとしていた。
階段を下りてマンションの外へ出ようとした時に俺は声をかけられる。
「――やぁ、翔太君。久しぶりだね」
口髭の似合うおじさん、確か病院であった院長の佐々木さんだ。
彼が何でここに?
「どうしたんですか?こんなところで」
「……少し、キミに話があるんだ。よければ、これから夕食でも一緒にどうだい?」
「え?俺に話ですか?」
いきなり現れたこの人は何を考えているんだろう?
その時の俺はまだ、何も知らず、分からずにいた――。




