第12章:お兄ちゃん
【SIDE:井上翔太】
古びた教会、俺はそこに10年前に来たことがあると言う。
神父様の案内で俺達は中へと入ることにする。
「へぇ、中は綺麗なものだ」
外は手入れがされていなかったので心配したが内装は綺麗だ。
ステンドグラスに礼拝堂、教会ってこんな風になっているのか。
「今でも月に何度かミサをしたり、人が集まるからね」
なるほど、そりゃそうか。
教会内部を歩いていると、俺はどことなく懐かしい気持ちになる。
「……覚えていないけど、ここに来た気がする」
「先輩は礼拝堂に来たら前の席に座っていたんですよ」
「何のために?」
琴乃ちゃんの話によると俺がここに来たのは子供たちが集まった時だそうだ。
今でも近所の子供たちを集めて遊んだりするらしい。
「そう言えば、琴乃ちゃん以外にも俺は何人かの子に会ったような……」
うーむ、ホントに昔の記憶って覚えていないものだな。
何か自分の記憶力に普通にショックを受けるぞ。
「ここに座っていたのか」
俺は昔よく座っていたと言う椅子に座ってみる。
礼拝堂の真正面のステンドグラスがよく見える位置だ。
正面には祭壇っぽいもの、右側にはオルガンがある。
琴乃ちゃんと神父様が雑談をしているので、俺はそれを横目に昔を思い出そうとする。
『――お兄ちゃん』
俺は誰かに呼ばれた気がして振り返る。
今の幼い女の子の声は何だろうか?
辺りを見渡すも、琴乃ちゃんと神父様以外はいない。
「気のせいか?」
変に疲れているのだろう。
気のせいだと思い込み、俺が祭壇に触れた時、
『――翔お兄ちゃん』
聞こえた、今度は俺の耳に直接響いてきた。
「……なっ!?」
俺はびっくりして祭壇から手を離す。
「何だ、今のは……?」
幽霊か、変な怪奇現象なのか?
そんなことはない。
それは昔の記憶、俺の脳裏に蘇った記憶のひとつだった。
「お兄ちゃん、か」
間違いない、俺はここで誰かにそう呼ばれていた。
琴乃ちゃんは『翔ちゃん』と呼んでいたはずだから、多分違う子だ。
俺には心あたりがひとりだけある。
「あの写真の女の子……?」
俺を「お兄ちゃん」と呼んでいたなら年下だろう。
俺と彼女はここで会ったことがある。
「……違う、それだけじゃない」
俺は何かもっと大事なことを忘れている気がする。
「この場所で俺とその子は何かをしたのか」
記憶にないがここは俺にとって何か大事な思い出のある場所のようだ。
どうして、思い出せないんだろうな?
「誰なんだろう?」
琴乃ちゃんに出会ってからどうにも俺には違和感みたいなものがある。
思い出せそうで思い出せない。
いくら10年前とはいえ、あの夏休みは特別なものだったはずだ。
ひと夏の記憶を覚えていない事はないはずなのに。
「……どうかしたのかな?」
「いえ、どこか懐かしさを感じたので」
「そうか。いずれ思い出す時が来るかもしれない。井上君、また来なさい」
「えぇ、そうさせてもらいますよ」
お兄ちゃん、俺をそう呼んでいた相手が誰なのか。
神父様が俺の事を知っているのなら過去の事も知っているかもしれない。
琴乃ちゃんがいない時にでも聞いてみるとしよう。
「先輩、そろそろ行きますよ。それじゃ神父様。また来ますね」
俺達が外を出ると周囲は完全に夜になっていた。
綺麗な月明かりに照らされて俺達は再び自転車に乗ろうとする。
「あ、あのさ、琴乃ちゃん」
「はい?」
俺は直接本人から聞くのはやぶさかではないと思ったのだが、気になって尋ねていた。
「昔、俺を『お兄ちゃん』って呼んでいた子っていた?」
核心を突く質問に俺なりに緊張する。
琴乃ちゃんは軽く視線を俯かせて言う。
「……何で、そんなことを?」
「あの教会でそんな記憶を思い出したんだ。その、どうしても気になってさ」
「どんな事を思い出したんですか……?」
これまでと違い、悲痛な面持ちで俺を見つめる彼女。
俺は何か聞いてはいけない事を聞いているのか?
「具体的には全然、思い出せないんだけど……俺をお兄ちゃんって呼ぶ子がいた気がしたんだよ。気のせいかな?」
「……っ……」
彼女は沈黙して何か思案してから言った。
「いましたよ」
「え?本当に……?」
「ただ、先輩の記憶に誰がいるのか、は分かりませんけどね」
「それはどういう意味だ?」
俺の記憶に誰がいる?
その答えは簡単だった。
「だって、あの時は私の友達も何人か先輩と接していましたから。その中には何人か先輩の事を『お兄ちゃん』って呼んでいた子もいました。多分、ですけど先輩の記憶になるのはその子達じゃないでしょうか?」
「なるほど……特別な意味はないってことか」
言われてみればそうかもしれない。
俺が勝手に特別に思っていただけで、現実はそう特別な事などないのだ。
年下の子と遊んでいれば、そう呼ばれる事もあるだろう。
「琴乃ちゃんは昔、俺の事を『翔ちゃん』って呼んでいただろう?」
「……え、えぇ。そうでしたね。変な呼び方ですみません」
今になって「ちゃん」付けされているわけじゃないので構わない。
俺が気になるのは今の呼び名の方だった。
「昔は名前だったのに、今は井上って呼ぶじゃないか。最初に俺に会った時に言ったよね。名前で呼んでほしいって」
今は井上先輩って呼ばれるから、何か気になっていたんだよな。
「……そ、それは、だって……恥ずかしいですし」
「琴乃ちゃん。俺も恋人には名前で呼ばれたい」
俺の申し出に彼女は「……翔太先輩」と小さな声で名前を呼ぶ。
「あっ、今、琴乃ちゃんの気持ちが分かった気がする。やっぱり、名前で呼ばれると嬉しいな。親しい感じがするし。これからもそう呼んでくれたら俺も嬉しい。どうかな?」
俺の言葉に頷くゆっくり琴乃ちゃん。
彼女を家に送り届けるまでに何度か練習したりして、ようやく琴乃ちゃんから呼び名を変えてもらうことができた。
それよりも、俺を「お兄ちゃん」って呼んでいた子は誰なんだろ?
俺は新たな疑問を抱きつつ、自宅に帰るまで昔の事を思い出そうと悩んでいた。
……何一つ、思いだせなかったけどな。