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シモン&ラリー

保護以上誘拐未満

作者: 瀬戸信繁
掲載日:2026/09/07

「さて、シモン。今回の依頼についてだが……」

 受話器から淡々と流れ出てくる声は、この国の統合参謀本部議長であり、私と依頼主との仲介人であるリー・アンクランシスのものである。

 私、シモン・リーフは、彼の下で働く特別捜査隊員だ。その能力と実績は、まずまず有能と言っていいだろう。だが、私はそれを誇りになど思っていない。

 特別捜査隊員などというのは、つまるところリー・アンクランシスの使い走りなのだ。散々こき使われて、捜査に要した経費までも自己負担させられるというとんでもない職務なのだ。これで報酬がまともに支払われなければ、いくら温厚な私でも求人情報に目を通していることは疑いない。

「聞いているのか、シモン。少しは返事をしたらどうだ」

「ああ、聞いているさ。問題ない」

 まったく、人の気持ちなど考えもしないのだから、始末におえないとはこのことだ。

「それならいい。相変わらず仕事熱心だな」

 …………。

「それでは頼むぞ。詳しい資料はすぐに送る。報酬は前金として二〇〇〇USドル。残りは成功報酬でもう二〇〇〇USドル。いつも通り、クライアンスのお前の口座に振り込んでおく」

 いつもならここで電話を切って、問題はなかった。だが、私はリーの言葉に耳を疑って問い返したのである。

「ちょっと待て、リー! 四〇〇〇ドルだと⁉️ 俺は慈善事業じゃないぞ。話を聞いた限りじゃ、とてもじゃないが四〇〇〇ドルで受けられるような仕事じゃない!」

 仕事に際して、私はそれほど金銭を優先させるということはない。だが、今回は黙っている訳にはいかなかった。こちらにもそれなりのプライドというものがある。

「シモン、お前の気持ちもわかる。だが、今回はこれで何とかしてくれ」

 リーはそのままこちらの応答を待たずに受話器を置いた。心なしか、常の厭味なまでの平静さに翳りが生じていたようだった。だが、私はその時、それに気づくほど落ち着いていられなかった。

「何なんだ、ふざけるなよ!」

 受話器を叩きつけるように戻すと、私はデスクから立ち上がってソファに腰を下ろした。

「どうしたの? そんなに大きな声出して」

 書斎のドアを開けて顔を覗かせたのは、私の有能な助手であるラリー・エヴィダンスだった。現在十九歳の我が助手は、私の怒った様子がよほど珍しかったのか、怪訝そうな表情で尋いてきた。薄い夕焼け色の髪を肩の上で綺麗に揃えたうら若き少女ー本人の表現によればーは、十人中九人は美人と認めるであろう容姿の持ち主である。繊細な顔立ちは、作り物のそれではない、生きた造形美の極致であり、澄んだヘイゼルの瞳は活力に満ちている。

 だが、今の私の気分は自然の生み出した芸術を楽しめるようなものでは、到底なかった。

「どうもこうもあるか。今度の仕事の報酬は四〇〇〇ドルだそうだ。リーは俺達をボランティアだと思ってるらしい」

 私は座ったばかりのソファから立ち上がると、ワインを並べてある書棚型のセラーに歩み寄った。そこから一本のボトルを取り出す。一九六四年ボルドー産のラベルが貼ってある。

「そんなことか。別にいいんじゃない? 何回か前は二〇〇〇ドルの仕事もしたし、なんなら報酬七〇〇ドルだったこともあるじゃない」

「その時は、その報酬に見合った仕事だったろうが。ただの見張りとか、下らん身辺調査とか」

「ふうん。で、今度の依頼は?」

 アイボリーホワイトのセーターにベージュのジーンズというラフな格好のラリーが、私の傍に近づいてきた。形のいい手が伸びて、いきなり私の手からボトルをもぎ取る。

「最近、お酒の量増えてるでしょ。悪いよ」

 言いながら、閉じたばかりのセラーの扉を開けてボトルを戻す。私は辟易して、小さく息をついた。喉奥まで出かけた抗議の言葉を呑み込んで、私は別の言葉を選んだ。

「ほう、心配してくれてるのか?」

「財布の中身をね。なんたって学費はそこから出るんだから」

 私はそれ以上言葉を重ねる気も失せてしまった。

 そうなのだ。ラリーはこの街の名門私立大学に通っており、私がその学費の入金を任されている。本来、ラリーの後見人はリーであり、学費負担自体はリーが負担している。だが、彼は何故かその入金や書類の送付などはすべて私に回してくるのだ。しかも、前回の仕事の折、とある事情で今期に限って学費の一部を私が負担しなければならなくなったのである。

それにしても……。

「前々から思ってたんだがな、もう少し言葉遣いを改めたらどうだ。せっかくの……」

 私は危ういところで踏み留まった。だが、多少遅かったようだ。ラリーは人の悪そうな表情で私の顔を覗き込んできた。

「ん? せっかくの、何?」

 くそっ。

 あと数ヶ月で二十歳となり、二桁目が私と並ぶラリーは、初対面で私が見惚れてしまった数少ない女性の一人だ。初めて出会ったのは、私が十九、ラリーが十五の時だった。当時から、ラリーは充分以上に女性としての美しさを備えていた、と私は思っている。あくまで外見においては、であるが。もう少し言葉遣いと性格が女性らしければ、とてもではないがこんな仕事の助手などさせていないだろう。

「そんなことより、依頼の件だがな……」

 強引に話の筋を変えて、私は依頼の説明を始めた。


「ふうん。確かに四〇〇〇ドルにしては、少しばかり大変そうだね」

 話を聞き終えたラリーの反応は、いささか冷めたものだった。

「お前なぁ、自分には関係ないように言うなよな。慈善事業じゃないんだぞ」

「そんなに言うことでもないんじゃないかなぁ。別にお金に困ってる訳でもないし、ま、議長にも都合があるってことでしょ。いつもよくしてもらってるんだし、たまにはいいじゃない」

 たまに……。たまに、か。

 私は今度は大きく息を吐き出した。

「冗談じゃないぞ、ラリー。いいか、この前だって結局経費はこっち持ちだったんだ。しかも初めてのことじゃない。これ以上、あの厭味な中年の小間使いなんぞやってられるか!」

 私がリーの文句を言うのはほとんど日常茶飯事だったが、さすがに今回はラリーも少し事情が違うことに気づいたようである。

「そこまでとはね。相当きてるんだ。ま、少し落ち着いてよ。ストレスばっかり溜め込んでも碌なことがないよ」

「そんなもん、好きで溜める奴がいるか!」

 ラリーは少々のことでは自分のペースを崩すことはない。私が本当に怒っていても、ラリーは冷静に私の感情の方向を調節しているようだった。私としては、複雑な心境である。五歳も年少にも関わらず、どうしてラリーには私のことがそれほどよくわかるのだろうか。私は、ラリーが何を考えているのか、往々にしてわからなくなるというのに。

「でもさぁ、議長がそういう仕事をあっさり持ってくるってのは、やっぱり何か特別な事情があるんじゃないかな」

 ラリーは不意に話を転じて、私の言葉を塞いでしまった。

「だってそうじゃない。シモンだってわかってるでしょ? 議長っていつも仕事の内容と報酬に関しては納得のいく説明をするってこと。今回みたいなことは初めてなんだし、やっぱり何か事情があるんだよ」

「仮にそうだとしてもだ……」

 私は自分の声が高くなるのを抑えるために、多少の努力を必要とした。

「実際に動くのはこっちだ。何の説明もないまま、働くだけ働けってのは虫が好過ぎるってもんだ。違うか?」

「そりゃあまぁ、ねぇ。言ってることはその通りだとは思うけど……」

 ラリーは形のいい眉をひそめて、言葉を詰まらせた。私はその顔を真っ直ぐ見返したが、ラリーは黙ったまま私の方を見つめるだけだった。

「…………」

 さらに続けようとして、私は逆に言葉を呑み込んだ。

 もう一度大きく息をついてから、私は観念せざるを得なかった。

「わかったよ。やるよ」

 途端にラリーの表情が一転した。

 弾けるような笑顔を見つめながら、私は深刻に考えざるを得なかった。まったく、なんでそんなにリーの肩を持つんだ? 直接尋いてやりたかったが、それ以上に言っておくことがあったので、私はそちらを優先させた。

「だが、ことが終わったらリーにはすべてを話してもらう。場合によっては、金輪際仕事は辞める。その時は止めても無駄だぞ。わかったな!」

 ラリーの表情がまた少し暗くなったようだが、私は本気だった。

 仕事はこなす。全力でできる限りのことを。だが、それが最後の仕事になる可能性は、今回、極めて大きかった。

 その仕事というのが、はっきり言えば「誘拐」である。正確には「保護」らしかったが、ともかくことの発端は十年前に遡る。


 とある資産家の次期当主である少年が、実はその資産家とはまったく血の繋がらない他人だというのである。依頼主はその子の本当の血縁者ということだった。早い話が、その子を本来の血縁者の元へ連れ戻してくれ、という訳だ。

 十年前、ある私立高等学校の教師の家に一人の男の子が産まれた。病弱だった母親は、その子を産み落とすと同時に息を引き取ったらしい。そして、父親はその子を跡取りのいなかった資産家に養子にやったのである。どのような事情があったにせよ、生後三ヶ月で、その子は父親の手によって他人の家に売られたのだ。

 その時の事情の詳細はリーにもわかっていないらしいが、依頼主の正当性は確かということだった。リーにその辺りの手抜かりがないことは、私も認めている。もっとも、今回ばかりはそれすらも少々おぼつかなかったのだが。

 大まかには、金に困った父親が息子を売ったというところだが、どうやらその金が支払われなかったか、あるいは契約より極めて少額であったらしい。何にせよ、それまで泣き寝入りしていた血縁者とやらが、私の、と言うよりリーの裏の顔である非公式かつ非合法の仕事の存在を知って依頼してきたという次第である。

「それじゃあ、四〇〇〇ドルっていうのも頷けるんじゃない? お金に困って我が子を売るぐらいだし」

 ラリーの意見は当然だった。だが、状況は少しばかり違うようなのだ。

「それがな、依頼主ってのは父親じゃないんだ。どうもその父親は三年前に他界してるらしい。病気だそうだ。五年前から入院していたらしいんだが、お前の言う通り相当金に困ってたようだから、あまりまともな治療は受けられなかったようだ」

「じゃあ、依頼主って誰?」

「さぁ」

 私はラリーの疑問にさらりと答えた。リーは血縁者としか言わなかったのだから、仕方ない。ラリーの表情が微妙に変化した。

「どうした? 妙な表情して」

「やっぱり、何かあるんだよ。だって、議長がそんな曖昧な依頼を持ってきたことなんかないじゃない。絶対、おかしいよ」

 そんなことは私にもわかっている。電話口で言葉を探して沈黙したり、たまに言い淀んだりするリーなど、これまでで初めてのことである。その違和感は初めから私にもあった。しかし、仕事をする以上、確かな裏付けを取ってすべてを話してもらわなくては、現場が納得しないのは当然ではないか。

「とにかく、そういうことなんだから仕方ないだろうよ。事情は後で聞くとしても、取り敢えずはリーの言葉を信じて臨むしかない」

 その時、来訪者を告げるベルがけたたましく私たちの鼓膜を叩いた。

「はいはい。出ます、出ます」

 ラリーがそそくさと部屋を出ていったので、私は再びソファに座り直した。

「ボス、ボス! ねぇ、ボスったら!」

 途端にラリーの叫ぶ声が私の聴覚器官を先のベル以上の勢いで引っ叩いた。

「何だ、うるさい! 家の中で叫ぶんじゃない! それからその呼び方はやめろっていつも……」

 私は怒鳴る寸前の声を出したが、部屋に駆け込んできたラリーの姿に呆然とせざるを得なかった。ラリーは私から取り上げたワインを持ったままだったのだが、それを振り回しながら部屋に駆け込んできたのだ。

 不意に我に返り、私の声は期せずして上ずった。

「こ、こら! ワインを振り回すんじゃない! そんなことも知らないのか!?」

 そのワインは最高級とまではいかないがそこそこ当たり年にあたるヴィンテージのボルドーだった。慌てる私に対するラリーの反応は……。

「そんなこといいから、これ見てよ! ねぇ、ボスったら!」

 そんなこと? そんなことだと? 一体、こいつがどれくらいしたと思ってるんだ? いや、金額だけの問題じゃない。私の数少ない愛好品であるワインに対して、なんたる暴言か。

 私の抗議は、実際に声となることはなかった。ボトルを乱暴にテーブルに置いたラリーが機関銃のようにまくし立ててきたので、言葉を発せられなかったのだ。

「ほら、これ見てよ! こないだよりもっとすごいよ! ねぇったら!」

 私が未練がましくワインのボトルを見つめていたので、ラリーは私の頭を鷲掴みにして、無理やり自分の方に向かせた。その上で、さらにこう言い放ったのである。

「そんなワインなんかどうだっていいじゃない。飲めなくなった訳じゃあるまいし。もし飲めなくなったんなら健康上いいことだし、気にしない、気にしない!」

 そんなワインだと? さすがに私はこれには反論した。

「お前、こいつがいくらしたか知ってるのか? そもそもワインは俺の数少ない楽しみだ。知ってるだろうが。お前だって自分が大切にしてるものを雑に扱われたら……」

 だが、ラリーは私の主張などまったく無視して、左手に掴んだものを突きつけてきた。そこで初めて、私はラリーの驚愕を共有した。

 ラリーの手にあったのは、大型の封筒一枚と三枚の便箋、それと写真が四枚に……札束。

 いつものようにリーから依頼に関する資料が送られてきたことは確かだが、それにしても……。私は慎重にならざるを得なかった。

 前回は、こうして送られてきた二万USドルが経費ではなくラリーの学費だったのだ。リーに請求していたことを失念していた私にも落ち度はあったとは言え、そもそも仕事の資料とラリーの学費を一緒に送ってくる方がどうかしている。それを経費と思ったばかりに、私がラリーの学費の一部を負担することになったのである。

 しかし……。

「ねぇ、今度は何だと思う? シモンの思い当たるとこで何かないの?」

 さすがのラリーも、今回はリーをそのまま信用することはできなかったようだ。

「さて、どういうつもりか……」

 取り敢えず手紙に目を通した私は、我が目を疑うことになった。その手紙には依頼についての詳細な資料が書き連ねられており、最後にこう書き添えられていたのだ。

「さて、シモン。前々回と前回の経費の支払いと共に、今回の経費を同封しておく。必要なだけ使ってくれていい。充分な額を用意したつもりだが、もし不足が生じた場合は、事後、まとめて請求してもらいたい。それでは、よろしく頼む。   リー・アンクランシス」

 私が声に出してその件を読み上げると、ラリーは納得したように声を上げた。

「なんか調子狂っちゃったね。でも、よかったじゃない。これで、シモンが気にしてたこともあらかた解決したんじゃない?」

 ラリーは無邪気そうに言ったが、私の方は気楽な助手ほどには楽観的になれなかった。その雰囲気に気づいたのだろう、ラリーが不審そうに付け加えた。

「どうしたの? 何か気にいらないことでもあるの?」

「ああ、気にいらないな」

 私の声は無愛想にならざるを得なかった。

「何で? そりゃいきなりこんなことされたらおかしいとは思うけどさ。でも、悪いことじゃないでしょ」

 私はそれには答えなかった。手にした札束をひとつ指で弾いてラリーに手渡し、手紙と写真を手にしてデスクに向かう。その間、私はずっと眉間に皺を寄せていた、らしい。後でラリーに聞いたことだが。

 とにかく、私はデスクについてからもう一度手紙に目を通した。時々、四枚の写真の方に視線を移して、頭の中で状況を整理する。

 写真は、一枚はまだあどけなさを残す少年、一枚は四十代半ばの紳士風の男性、残りの二枚がどこかの豪邸を別の角度からそれぞれ写したものだった。

 リーからの手紙によると、最初の少年が依頼の保護対象で、名はアルフレッド・ヴァイアンズ。幼いがその線の細さは秀麗さを感じさせるものがある。そして、紳士風の男性が少年の現在の法的保護者であるヴァイス・F・ヴァイアンズ。豊かな銀髪と形のいい眉目の持ち主で、貴族的とすら思える容姿である。ひとつ気になったのは、両目に鋭い眼光が備わっていることだった。顔立ちだけで見れば、この二人が実の父子と言われてもさして違和感はないが、私はどうもその目つきが気にいらなかった。後の二枚が、ヴァイアンズ氏の邸宅という訳だ。

 手紙と写真をラリーに手渡しながら、私はどうにも腑に落ちない点を頭の中で整理していた。

「この子は自分の立場をわかってるのかな?」

 手紙にひと通り目を通してから、ラリーが尋いてきた。

「うん?」

 自分の思考に没入していた私の返答は、何やら間の抜けたものになってしまった。

「だから、この子は自分が養子だってこと、知ってるのかなってこと。もし知らなかったら、連れ出すのは簡単じゃないでしょ。それに、知ってても今の生活に満足してたらついて来てくれないかも知れないじゃない。資産家の息子とお金もない教師の親戚の息子とじゃ、ねぇ」

 確かにラリーの意見は重要だった。その点に関して、電話と手紙でリーから提供された情報にはまったく触れられていなかった。こんなことは珍しかった、と言うより初めてだった。どうしてもわからない点はやむを得ないというのがいつものやり方ではあるのだが、その場合はその旨を伝えてくるのが常である。

 だが、今回ばかりは事情が違う。もしラリーの言う通り、この子が今の生活を選ぶのであれば、こちらは本当の誘拐犯である。

 私は再びリーに連絡を取ろうかと考えた。依頼について一度の電話連絡とリーから送られてくる資料だけで実際の行動に移るのが常だったが、二度目の連絡が皆無という訳ではなかった。珍しいことではあるが、こちらからリーに連絡を入れる場合もあるのだ。その際、私はリーとの間に自分専用の回線を持っているのだが、今回、それを使う必要はなかった。

 私が連絡しようとした刹那、狙ったように先方から電話がかかってきたのである。

「何だ、リー、珍しいな。今、こっちから連絡しようと思ったところだ」

「そうだろうな。大事な点を忘れていた。資料は届いたか?」

「ああ。今、ラリーと検討してるところだ」

「ほう、さすがに早いな。結構、結構」

 何が結構だ。こっちの気も知らないで。私は必要以上の会話をする気分ではなかったので、不機嫌さを隠そうともせずにリーに先を促した。

「いいから、その大事な点とやらを早く言え。この子の気持ちだろうが」

「ふむ、やはりわかっていたか。まあ、当然だな」

 こんな調子で五分ほど問答した後で、電話はリーの方から切られた。

 受話器を置く私の後ろで、ラリーが好奇心を満面にたたえて待っていた。

「で、何だって?」

「ああ、心配する必要はないそうだ。その子はすべての事情を知った上で、自分の血縁者に会いたがっている。法的には事後に裁判で争うことになるらしいが、取り敢えず連れ出すことに支障はないらしい。もっとも、相手はこの子が事情を知っているとは思っていないし、連れ出すのは気づかれないように、だがな」

 ラリーは黙ったまま何か考え事を始めたようだった。

「どうした」

「その血縁者ってのが、実際にその子の面倒を見るつもりなんでしょ? だったら、変じゃない」

「何が」

「だって、その子が養子にやられたのはお金のためなんだよ。依頼主が裁判なり何なりできるんだったら、その子の父親にいくらかでも工面できたんじゃないのかなぁ」

 ラリーの考えたことは、私も思わないではなかった。だが、さほど重要ではないとも思われた。

「依頼主が今も昔も同じ生活状況だったとは限らないさ。当時は血族全員貧困にあえいでいたのかも知れない。ようやく金銭の見通しが立って行動に出たとすれば、報酬を抑えたことにも筋が通る。裁判の資金も必要だからな」

 私の予測は奇をてらったものではないが、だからこそ可能性としては充分にあり得るだろう。

 ラリーは再び黙り込んだ。少年の写真を手にとって食い入るように見つめていたが、不意にそのままの姿勢で呟いた。

「ふうん、それから?」

「それだけさ。他に何かあったか?」

 私の言葉に、ラリーは呆気にとられたようだった。こちらへ向けた視線にそれがありありと表れている。

「呆れた。せっかくまたかかってきたんだから、依頼主のこととかこのお金のこととか尋けばよかったのに」

 私はただ口元を少し緩めただけで、何も答えなかった。この時、私はラリーの言うようにすべてを質そうとも考えたのだが、思い直して敢えてそれをやらなかったのだ。この段階ではおそらくリーが何も答えないであろうということもあったし、それ以上に今はリーと長々と会話を交わす気になれなかったのだ。ラリーにそのことを告げようかとも思ったが、その後に来るであろう反応を想像して、結局私は話を誤魔化した。

「まぁ、それはことが終わった後で改めて尋けばいいさ。それよりも計画の打ち合わせだ。行動は早いに越したことはないらしい」

「何で?」

「さぁな、依頼主がなるべく早い方がいいと言ってるらしいから仕方ないだろう」

 まったく、今回の仕事は気に食わないことばかりだ。リーの態度もその手際も、そして何よりその内容も。初めてのことばかりで、いざことが片付いた後にどこから追求してやろうかと迷うほどである。いずれにしても、リーにはすべてをきっちり説明してもらうことになるだろう。それでもなお話をはぐらかそうとするのであれば、私の決意を実行に移すだけのことだ。

 私たちは手早く手順をまとめて、下見として現場に赴くことにした。すでに正午を回っていたので、軽い食事を済ませてから、いくつかの道具をバッグに詰め込んで、出かけたのは午後一時過ぎだった。

 私とラリーは車を飛ばして、市街地と郊外のほぼ中央付近にある住宅街へ向かった。そこはいわゆる富裕層が集まる地区だった。豪邸が建ち並ぶ中に、蔦が絡まった煉瓦造りの塀の屋敷を見つけるのは、難しいことではなかった。周囲一帯が整然と格子状に区画整理されているので、近くの小高い丘の上から見渡せば大体の家をほぼ見通すことができるのだ。

 高性能の双眼鏡を覗きながら目的の屋敷を見つけると、私たちは徒歩で目的地へ向かう。住宅街が近づくにつれて、私たちの口からは自然と溜め息が漏れた。

 資本主義社会の矛盾、と言うと語弊があるだろうか。自由と平等を謳いながら、決してなくなることのない格差に塗れた社会。仕事柄、かどうか、私たちはその象徴であるかのような豪邸と呼ばれる建築物に侵入することも多い。無論、不法にであるが、私たちの仕事の対象となる相手は、何かしら法的犯罪を犯しながら、権力や金銭の力で極めて大きくした法の網の目をくぐり抜けているといった連中である。その辺りの選別は、リーが冷徹に見定めている。したがって、私たちは大して罪悪感を感じる必要もなかった。

「さて、敷地内を見渡せるような場所はないか」

「あの坂の上からならある程度は見えそうかなぁ」

 私たちは怪しまれることがないように注意を払いながら、目標であるヴァイアンズ邸をひと通り確認した。警備システムの種類や数、設置場所を可能な限り把握し、侵入と脱出の経路を何パターンかイメージする。資料の中に図面などがあれば現地での下調べは省略することもあるのだが、今回はその種の資料はなかった。リーの力をもってすれば、大抵の場合は入手は困難ではない。それがない時は、ほとんどが時間的余裕がない場合だ。今回も間違いなくそのパターンであろう。

 現地で大まかな打ち合わせをして、自宅のコンドミニアムへと戻ったのは午後七時を半ば回った頃だった。私たちはその夜のうちに行動するつもりだった。準備を終えてラリーと最後の確認をしていると、私たちの耳に唸るような風音が響いた。顔を見合わせて二人で並んで窓際に立つと、その視線の先では強風と大雨が吹き荒れていた。

 不法侵入を実行するにあたっては、晴れているよりも雨天の方が都合がいいはずなのだが、私たちは揃って雨に濡れる方を避けたいというのが共通の認識だった。常であれば、あっさりと計画実行を延期していただろう。その辺り、私と助手は極めて近い感覚の持ち主だった。だが、今回は自分たちの都合を優先させる訳にはいかなかった。

 依頼主が急いでいるということと、普通の少年を連れて脱出しなければならないということもあり、私たちは突然の風雨を奇貨として早速行動を開始した。

 日が変わる直前に、私たちは昼間訪れたヴァイアンズ邸に戻っていた。

 あらかじめ決めてあった潜入ポイントは、屋敷の東側だった。

「どうだ、中の様子は?」

 低声で私はラリーに尋いた。ラリーは黙ったまま壁を見つめている。しばらくして、ラリーが私の方に向き直って片目を瞑ってみせた。

「大丈夫、誰もいないよ」

 私はそれを聞いて塀に歩み寄り、そっと手を添えた。雨に濡れた塀の一点に意識を集中する。二十秒ほどが経過した時、手に触れる塀の感覚が突然失われた。私の手の先の塀に生じた穴は一秒ごとにその範囲を拡大しながら、ついには人一人が余裕で通過できるような通路が煉瓦造りの塀の一角に完成したのである。

 私とラリーは素早くその通路を通って敷地内への侵入を果たした。私たちが通過してしばらくすると、不自然極まりない状態で作られた通路は音もなく閉じ、以前とまったく変わらぬ様子に戻っていた。

 私たちがリーの下で特別捜査隊員などという職務に携わっている最大の理由。それが、私たちが持つ超常的な能力である。

 超能力、あるいはESP。呼び方は近年のマス・メディアによって様々に広められているが、当の本人たちからすれば、そんなものはどうでもいいことである。ただ、自分がどのような能力を有し、それをどのように使用し得るのか、経験によってそれさえわかれば充分だった。

 私たちは、あるいは人間という存在ですらないのかも知れない。だが、この能力を知ったリーが言ったように、「人体実験などよりよほど有効な使い途がある」のだ。私たちは現に生きており、人間としての意識も持っている。その時に限り、私は純粋にリー・アンクランシスという人格を尊敬した。あくまでその時に限って、のことであるが。

 敷地内に侵入すると、そこにはこれまで度々見てきた豪邸とさして変わらない庭園が広がっていた。

 何故、もっと独創性に富んだ工夫を凝らさないのだろう。私がそう思ったのは、庭の造りに対してではなく、そこに張り巡らされた赤外線に代表される警備システムについて、である。

 経験上、これまで侵入した屋敷で使用されていた警備システムは、ほとんどが眼前に展開しているような赤外線システムによる厳重なセンサー網か、あるいは機械的なものを排して生物による警備体制を至るところに配置しているか、であった。後者の場合では、それが屈強な人間から獰猛な犬や猛獣の類いに至るまで実にヴァリエーションに富んでいる。

 だが、機械による警備であろうと生物による警備であろうと、私とラリーの能力を持ってすれば極めて容易に突破が可能なのだ。

 今回もその例に漏れることはなかった。

 赤外線暗視ゴーグルを通して縦横に張り巡らされた赤外線センサーの一を確かめ、さらにそれ以外のシステムが配備されていないかを確認する。樹上や草陰に複数の熱センサー式監視カメラが備え付けられている。確認できるだけでも相当数にのぼることがわかった。この屋敷の主人には、よほど後ろ暗いことがあるのだろう。

「やれやれ、また無駄なものをずらずらと並べてるな」

 私は嫌気が差して呟いたが、それを聞き咎めたラリーが小さく反論してきた。

「無駄じゃないでしょ。少なくとも普通なら」

 私は肩を竦めた。確かにそうだ。普通の人間にとっては、過剰とも言える眼前の警備システムなど厳重以外の何物でもないはずである。それが「無駄」となるのは、少なくとも一般的な事態ではなかった。

 ラリーと軽口を叩き合っているのも時間の浪費なので、私はすぐにことにあたった。

 私たちはあらかじめ塀と建物との距離が最短となる場所を確認してあった。現在地から屋敷の壁まではおよそ二十メートルといったところだ。

 私の「物質透過」あるいは「一時的消失」と言った方がいいかも知れないが、その能力は固体に限ったことではない。意識の集中によって、手の先の空間自体が透過するのだ。空気は存在しているので、あらゆる物質が完全に消失するというものでもないようだが。

 したがって、いかに赤外線を張り巡らせようとも、空間そのものが消えてしまえば何の役にも立たないのは当然である。ただひとつ注意を要するのは、私の透過の能力は一・七メートルに限られているということだ。その距離を誤ると、とんでもないことになる可能性がある。

 進み過ぎて赤外線に接触するという心配は、さほど気にしなくていい。暗視ゴーグルをつけている限り、赤外線が存在していれば確認できる。怖いのは、一・七メートルを進まなかった時である。私が透過した空間は約三十秒ほどで自然に閉じてしまう。それを調整することは私にはできない。もし閉じる時に透過した空間内にいればどうなるか。想像の域でしかないが、そうなれば少しどころかとてつもなく恐ろしい状況が待ち構えているはずだった。

 距離に関する注意さえ誤らなければ、私にとっては赤外線センサーを突破するのは極めて容易なものとなる。

 そして今回はもうひとつ、各所に設置された熱センサー式監視カメラの対処だが、こちらは少々厄介だった。

 赤外線センサーは結局のところ、相手は機械に過ぎない。つまるところ、機械を騙しさえすればいいのだ。しかし、監視カメラはそうはいかない。相手はカメラから送られる映像を眺めている人間である。モニターの前でむっつりと黙り込んでいる相手を騙すのは容易ではない。どんなに機械が発達しても、現段階ではいまだ人間には及ばないのだ。

 これを処理するのは、いかに我々の能力でもどうしようもない。普通の人間同様、死角を探って進むしかないのである。熱センサーに関しては、私たちの着用している特殊コーティングされたボディスーツによって無効化できる。あとはカメラの視野内に入らなければよいのである。

 だが、それも困難を極めると言うほどではない。リーから提供された探知機に加えて、ラリーの透視能力がある限り、監視カメラの位置など白昼の雪原で原色のウェアを着たスキーヤーを探すようなものである。

 赤外線センサーと監視カメラは、それぞれが補足し合っている場所が必ず存在する。一方だけですべてを補うことは不可能なのだ。監視カメラの死角を見つけさえすれば、あとは私の能力でセンサー網をいいだけのことだ。多少時間はかかるが、発見されることなく確実に潜入できるのである。

 私たちは細心の注意を払いながら、ラリーの透視能力と私の透過能力を交互に使って建物に接近した。昼間の調査で確認していたのだが、私たちが目標としている壁際には人間二人が辛うじて身を隠せるほどの茂みがあった。侵入から十五分後には、私たちはその茂みにまで辿り着いていた。

 ラリーに内部を透視してもらい、誰もいないことを確認する。ラリーが頷くのを見てから、私は壁に手を添えた。音もなく通路が開き、庭園と室内がひと続きになる。素早く室内に侵入して、中の様子を伺う。

 壁に沿って大きな書棚がふたつ並べられ、反対側には暖炉が配されている。部屋の中央には、十五平方メートルほどのローテーブルとその周りにソファが置かれていた。二十四インチサイズのテレビもあって、一般的な家庭の団欒を思わせる部屋だった。ただひとつ一般的でないのは、調度類がすべて極上の高級品であるということだ。私も仕事柄、その程度のことはひと目でわかる。

 さて、次にどうするか。不法に侵入している以上、時間的余裕はそれほどない。とは言え、安全な方法はひとつだった。ラリーに片っ端から部屋を透視してもらい、目標の少年を発見するのだ。

 だが、廊下に出た私たちは、そこで思わぬ事態に出くわした。

 私たちが廊下に出るのと、右手の角を曲がって二人の男が現れるのがほぼ同時だった。まったくの偶発事であり、どちらが先に気づいたのかやや判然としないが、時差はほんの半瞬のことであった。

 ヴァイアンズ家の護衛兼警備員であろう男たちは、侵入者の姿を見て驚愕とそれ以上の怒気を発して呼びかけてきた。

「何者だ、そこで何をしている!」

 声に含まれる敵意は何らの糊塗もされていなかったが、私はそれを無視して駆け出していた。敵に向かって。

 男たちとの距離は十メートル弱で、私はすぐに相手の懐に跳び込んでいた。右手には用意していた特殊警棒を握っている。

 男たちは、さすがに専門家であったようで、突然の攻撃に対してもさほど動じた様子はなかった。互いに距離を取って、一対一で相手を迎え撃てるように体勢を整えている。

 だが、ラリーは私と同じように駆け出しておらず、その場に立ち尽くすだけだった。男たちは相手が一人と悟ると、途端に無造作とも言えるほど大胆に行動に移った。

 私が特殊警棒をかざして一人と対峙すると、もう一人が反対側に廻り込んで挟撃しようとする。二人の男たちの目は残忍な光を宿していたと私には見えたが、これは随分と勝手な意見であったかも知れない。何と言っても、不法侵入者は私たちの方なのだ。ともかく、その眼光は私に何の恐怖も感じさせることはなかった。

 男たちが主導権を握っていたのはそこまでだった。突然、小さく息を詰まらせたような声を発して、一人が床に崩れ落ちた。

 優位に立っていたはずが、いきなり理解不能の状況に襲われて、残った方の男は困惑の表情を浮かべて立ち尽くした。隙ができたのはほんの一瞬のことでしかなかったが、私にはそれで充分だった。

 一気に跳躍して相手の懐に跳び込み、特殊警棒でフェイントをかけておいてから左手を伸ばして男の右腕を掴む。間髪を入れず警棒を握ったままの右拳を鳩尾に叩き込む。くぐもった呻き声を漏らして、男は意識を失って床に崩れ落ちた。

 二人が完全に気を失っていることを確かめてから、私はひとつ息をついて振り返った。ラリーが軽く右手を上げて、片目を瞑ってみせる。

 そう、最初の男を倒したのも、ラリーの能力のひとつだった。

 筋力の瞬間的な爆発。彼女の筋力は、その意識によって巨漢のレスラー以上の力を発するのだ。その威力はラリーの感情の状態で大きく変わるのだが、普通の状態でも、手刀の一撃で屈強な男であろうが気絶は免れないほどである。

 ラリーのこの能力は腕力だけでなく、脚力にも応用が効き、その瞬発力を使えば十メートルの距離を一瞬で縮めることも可能なのだ。

 ラリーのこの能力によって相手の注意を逸らすことができれば、その隙をついて、私は自力で大抵の相手は撃ち倒すことが可能である。形としてはラリーの能力に頼っているのだが、極めて効率的な分担であろう。

 私は以前からカラテの修練を積んでいる。いまだ幼く荒れていた頃に、新鋭の若手選手に出会ったのをきっかけに、道場へ通うようになった。リーと出会ってからは、その援助で正式に入門して稽古を重ねている。同時に、軍隊式格闘術の訓練にも参加する機会を与えられ、修練を積んでいるのだ。師範や教官が言うには、私には才能があったようで、対外試合や大会への参加を幾度も薦められている。だが、さすがに顔が知られ過ぎるとまずいかとも思い、断り続けているのだ。

 ともかく、そのような経緯で私の格闘術はなかなかのもので、ラリーと組んでいる限り、私たちが後れを取ることはまずないのである。

 私たちが有する能力だけでも充分に仕事はこなせるのかも知れないが、やはり超常的な能力にのみ頼っていては、危険を招くこともあるのではないか。その怖さが、私に日々の訓練を怠らせなかった。

 気絶した二人を後ろ手に縛り、両足首を拘束した上で猿轡を噛ませてから先刻侵入した部屋に押し込め、私たちは改めて捜索に取りかかった。気の毒な御二方には申し訳ないが、たとえ目が醒めてもアラミド繊維製のロープは少々のことで切断することはできないだろう。

 急がねばならなかった。疑う余地もなく、二人は邸内を巡回中だったのであろう。そして、警備に当たっているのが行動を共にしている二人だけということはあり得ない。あの二人が予定通りに戻らなければ、当然ながら異常事態の発生が知れ渡るだろう。こちらが目標を確保する前に知られれば、目的達成は困難になることは明白だった。

 私たちは半ば駆け足になりながら、各部屋を見回り始めた。

 探し始めて五つ目の部屋で、私たちは目指す少年の部屋を発見した。ラリーが透視したところでは、三メートルはあるベッドにアルフレッド・ヴァイアンズらしい小柄な人物が横になっているということだった。

 ドアには鍵は掛かっていなかったので、私はそのままそっと室内に滑り込んだ。カーテンを閉め切った暗闇の中で、微かな寝息が聞こえる。赤外線暗視スコープを覗くと、ベッドは部屋の奥に置かれているのがわかる。ゆっくりと近づき、ゴーグルを外してベッドに横たわっている人物の顔を覗き込む。その間にラリーがポータブルライトを点けて、室内を仄暗く照らし出した。

 薄暗い光に照らされて、写真で見た通りの線の細さを感じさせる少年の寝顔が浮かび上がる。静かに寝息を立てている少年の口許にそっと手を添え、低く名を呼ぶ。

「アルフレッド」

 反応はない。

 口調を少しだけ強くして、もう一度声をかける。

「アルフレッド」

 数瞬後に、アルフレッドの瞼は眠りの神の手から解放されて、ゆっくりと碧い瞳を露わにした。

 瞬時に事態を飲み込めない人間が発する独特の静寂感が室内に満ちる一歩手前で、アルフレッドは見知らぬ人間の存在を認知したようだった。眠気など一瞬で吹き飛ばし、大きく目を見開いて跳び起きようとする。

 その反応に併せて、私は口許に添えた手に少しだけ力を加えて小さな身体をベッドに固定した。口と一緒に鼻まで塞がないように最低限の注意を払うぐらいのことは、さすがに忘れない。

 身動きすることを封じられたアルフレッド少年は、不安と焦慮を滲ませた視線を私に向けた。ラリーが近づいたことによりその瞳はより明るく照らされ、美しい碧眼が煌めいた。陽の下で見れば、晴れ渡った澄んだ空の色を思わせる色彩を放つのだろう。その美しさもさることながら、一点の曇りもない透き通った眼差しに思わず惹き込まれそうになる。私はその場に踏み留まることに、多少の努力を要した。

 口調を整え、できるだけ穏やかにと努めながら無害な少年に語りかけた。

「アルフレッド、君の本当の身内の人に頼まれて、君を連れに来た。わかるかい」

 話しかけている途中で、アルフレッド少年の視線が幾度か私から外れた。ラリーが私の後ろに立って、少年の顔を覗き込んでいるのだ。

 こういう時、ラリーの存在は非常にありがたい。ラリーに優しい微笑を向けられるだけで、誰であろうと安心してしまうと私は思っている。もし私がアルフレッドの立場で自分を取り押さえているのが身も知らぬ男だけであれば、とてもではないがすぐにはその言葉を信じられないだろう。

 少年は綺麗な目を数度瞬かせてから、落ち着いた表情で小さく頷いた。私はゆっくりと手を放し、アルフレッド少年を拘束から解き放った。身体の自由を取り戻した少年は、そのままの姿勢で大きく息を飲むと、また何度か瞬きをしてから小さな声を絞り出した。

「伯父さんから頼まれた人? でも、どうやってここまで……」

 少年の疑問は当然だったが、今は悠長にそれを説明している暇はなかった。私は口の前に指を立てて、アルフレッド少年を制しておいてから、低声で短く言った。

「そうだ。一緒に来てくれるね?」

 依頼人がこの少年の「伯父さん」であるとは知らなかったが、それを追求するのもまずはここを出てからの話だった。

 アルフレッド少年は私の言葉に頷くと、勢いよくベッドから起き上がった。

「ちょっと待って。すぐ用意するから」

 アルフレッド少年は、女性であるラリーに気を遣うでもなく、さっさとパジャマを脱ぎ捨てると動きやすいジーンズジャケットに着替えた。大きな机に跳びついて何かを漁っていたかと思うと、床に放り出してあったショルダーバッグを引っ掴んで取り出したものを詰め込む。おそらくは血縁者からの話を受けて、いつでもいいように準備していたのだろう。聡明な子である。

 その手際の良さを感心して眺めていた私の前に、五分後、完全に用意を整えたアルフレッド少年が立っていた。

「もういいのかい? 忘れ物はないか?」

「うん!」

 明快極まる返答を受けて、私たちはアルフレッド少年を連れてヴァイアンズ邸を脱出すべく行動に移った。

 アルフレッド少年の部屋は一階の南東の角に位置しており、逃走ルートは侵入した経路を逆に辿る途、つまりヴァイアンズ邸の東の端に向かうものだった。

 物音を立てないように気を配りながら、できる限りの速度で廊下を突っ切る。

 目指す部屋に辿り着いた時、私は胃壁に冷たい氷水が伝うのを感じた。縛り上げて放り込んでおいた二人の姿が消えていたのだ。床には切断されたロープと猿轡に使っていた布が放り出されている。

「くそっ、逃げられた」

 舌打ちして、私は床に投げ捨てられたロープを取り上げた。硬度なアラミド繊維製のロープが鋭利な刃物で断ち切られている。特殊な工具を使わなければできない芸当だ。二人が意識を取り戻したというより、おそらくは別の巡回者によって発見されたのであろう。

「急ごう、シモン」

 緊張をはらんだラリーの声が低く響く。言われるまでもなく、そのつもりだった。とは言え、不自然極まる壁抜けなどをアルフレッド少年の前で披露する訳にはいかない。私は窓に跳びついて鍵を開け、一気に庭へ跳び出した。

 あの二人が発見された以上、今さら警備システムに注意を払っても無意味である。私が無造作に窓を開け放った瞬間、警備室では異常事態の発生を告げるアラームが鳴り響いていることだろう。

 そんなことを気にする間もなく、窓から跳び下りたアルフレッド少年の身体を受け止め、地面に下ろしてやる。次いでアルフレッド少年のバッグを抱えたラリーが、軽やかな身のこなしで傍らに着地する。

 ラリーからバッグを受け取ると、私たち三人は脱兎のごとく駆け出した。侵入する時には細心の注意を払った赤外線センサーや監視カメラにまったく留意することなく、まっすぐ塀にまで辿り着く。

 私は塀の直前で立ち止まった。アルフレッド少年が出口は向こうだと指差したが、私はそれを制して傍らに下がらせた。

 少し距離を開けて最後尾を走っていたラリーが、そのまま助走をつけて一気に跳躍した。三メートルはある塀の上に身軽に跳び乗ったラリーが、そのままバランスを保ってこちらに向き直る。その姿を見て、アルフレッド少年が歓声を上げた。

「すごい、サーカスみたい!」

 私はそれには答えず、無邪気に喜ぶアルフレッド少年の身体を抱き上げて言った。

「早くしろ、見つかるぞ。手を伸ばせ、アルフレッド」

 アルフレッド少年は言われた通り、手を伸ばして塀の上から差し伸べられたラリーの手を掴んだ。ラリーは一気に少年の体を塀の上まで引き上げる。彼がもう少し年長であったら、ラリーの筋力に驚いたことだろう。だが、今、アルフレッド少年は私とラリーの連携プレーを邪気のない興味の籠もった視線で見つめるだけだった。

 常人を遥かに上回る筋力を発揮することで、ラリーは今のような芸当も容易くこなしてしまう。仕事上、ラリーのこの能力は極めて有効である。場合によっては、透視以上に役に立つものであるかも知れない。

「いくぞ、ラリー」

 アルフレッド少年が塀の上で体勢を整えるのを確かめて、私はラリーにバッグを投げ渡した。両手でそれを受け止めたラリーは、そのまま反対側へと跳び下りる。少年はそれに続こうとはせず、振り返って言った。

「お兄ちゃんは?」

 私は目を丸くした。続く言葉がすぐには見いだせなかった。私の二十四年の人生で、少なくとも「お兄ちゃん」などと呼ばれたのはこの時が初めてだった。

 その言葉に答えたのは、すでに塀を越えたラリーである。

「シモンなら大丈夫だよ。簡単には死なないから。せいぜい怪我するぐらいかな。早くおいで、アルフレッド。大丈夫、私が受け止めてあげるから」

 まったくフォローになっていないラリーの言葉に、アルフレッド少年は戸惑う表情を見せた。塀の上で、ラリーと私を交互に見比べている。私からはラリーの姿は見えなかったが、どんな顔をしているのか、私はあまり考えたくなかった。ラリーの方では能力を使って私を見ているのだろうか。

「早く行け、アルフレッド。ラリーに任せておけば安心だから」

 私はアルフレッド少年に呼びかけた。不安そうな色を滲ませた碧い瞳に真っ向から見据えられ、私は口許に笑みを浮かべて付け加えた。

「俺なら大丈夫だ、すぐに追いつくから」

 アルフレッド少年はさらに一瞬躊躇した様子を見せたが、時間の貴重さを理解したようだった。こくんと頷くと、身を翻して塀の向こう側に姿を消す。ラリーがアルフレッド少年の身体を受け止める音が聞こえた。切迫している状況とは言え、いまだ十歳の少年が迷いもなく私たちを信用している証拠に他ならなかった。でなければ、三メートルの高さから迷いもなく跳び下りることなどできないだろう。

 次いで、ラリーの声が聴覚神経に流れ込んできた。

「それじゃあ、先に行ってるからね。シモンも気をつけて、なるべく早く帰ってくるんだよ」

 私は耳を疑ったが、確かに聞き間違いではなかった。ラリーの言葉には、さらに続きがあったのだ。

「夜食が冷めちゃうからね」

「さっさと行け!」

 叫んだ直後、私は背後に気配を感じて振り返った。同時にそれを感じ取ったのだろう、ラリーが抑えた声で尋いてきた。

「どうしたの?」

 それを無視して、私は鋭くラリー以上の低声で命じた。

「逃げろ、急げ!」

 ラリーからの返答はなかった。駆け去る足音が雨音に掻き消されるのを確認して、ひとまず二人がこの場を離れたことはわかった。

 改めて自分の置かれた状況を確認しようと周囲を見回すと、視線の先にはさながら紳士服店のショーウィンドウかと思える光景が広がっていた。黒、茶、紺、青、濃緑、黄土、多彩な彩りのスーツに身を包んだ男たちが、ダース単位で私を取り囲むように近づいてくる。

 いまだ距離があることと降りつける雨によって互いの顔までは確認できなかったが、私は素早く暗視ゴーグルをつけて顔を隠した。ボディスーツのフードを被る余裕はさすがになかった。

「ドブ鼠め、何が目的で忍び込んだ」

 私はその言葉に一瞬安堵した。彼らはいまだアルフレッドのことには気づいていないようだ。監視カメラには私たちの姿がすべて映っているだろうから、いずればれるまでさほどの時間はかからないであろう。だが、当面の時間を稼ぐためにはその方が都合がいい。

 私は沈黙したまま、そっと暗視ゴーグルのモードを調整した。視界が明瞭になり、近づいてくる各人の顔まで識別できるようになる。暗視モードのままではとてもではないが格闘などできようはずもなかった。それでも、視界は大幅に制限されており、格闘する上では足枷以外の何物でもない。それでも、ゴーグルを外す訳にはいかなかった。なるべくなら素顔は晒したくない。

 私は沈黙したまま、この場を切り抜ける策を練った。と、そこで私の心臓に冷水を浴びせる発言があった。

「もう一人はどうした?」

 私は舌打ちする寸前でとどまり、声の方向を見やった。一人の男が一歩進み出て、さらに声を大きくした。

「仲間をどこへやったと聞いているんだ!」

 暗闇と雨に遮られた挙げ句にゴーグル越しということもあり、その顔ははっきりと確認はできなかったが、おそらくは私とラリーがのした二人のうちの一人だろう。まずいことになった、と私は内心で毒づいた。ラリーの姿がこの場にない以上、捜索の手は屋敷の外へ向けられる。そうなれば無力な少年を連れたラリーが発見される率が跳ね上がることは目に見えている。

 とは言え、私はラリーを信じて少しでもこの場で時間を稼ぐことを、この場での自分の役目とせざるを得なかった。

「何を勘違いしている? 俺は一人だぜ」

「誤魔化そうとしても無駄だ! この目で見たんだからな!」

「まぁ、こんな時間だからな。夢でも見てたんじゃないのか」

 男の発した怒気が、見えない圧力を私の方へ吹きつけてきた。昼間であれば、怒りに顔を紅潮させて歩み寄る男の姿を確認できただろう。

 と、突然周囲の闇を切り裂いて、周囲が明るく照らし出された。大型のハンドライトを持った男たちが、左右から私に向けて照明を当ててきたのだ。先方は私を確実に仕留めるために用意したのであろうが、おかげで私は相手の状況を正確に掴むことができた。

 予想通り、顔を紅くしている男が大股に近づいてくる。

「いつまでもそうしていられると思うなよ」

 言うなり、男は問答無用で跳びかかってきた。私はバックステップで男に空を掴ませ、一瞬後には男の懐に入り込んでいた。

 男は何か言葉を発しようと口を開いたが、そこから発せられたのは鼓膜をつんざく悲鳴だった。私は相手の突進の反動を利用して膝蓋骨を蹴り砕いたのだ。

 男の悲鳴が消える前に、複数の怒声がそれを掻き消した。一人がハンティングナイフを振りかざして襲いかかってくる。反対側にはさらに凶悪な印象を与えるファイティングナイフを構えた男が立ち塞がる。

 私は横っ跳びでハンティングナイフの男の方に跳躍ざま、腰に差していた特殊警棒を引き抜いていた。それを相手の眉間めがけて思い切り投げつける。ナイフが跳ね上がって空中で警棒と激突した。弾かれた警棒が地面に落ちた時には、男の身体も濡れた大地を叩いて水飛沫を上げていた。

 私の渾身の正拳突きを鳩尾に受けて、倒れなかった相手はそういない。だが、その威力はあくまで普通の人間の域を出るものではない。今さらながら、ラリーの能力の効率の良さを羨ましく思うばかりだ。

 一人を倒して、私は警棒を拾い上げる間もなく背後から襲いくるもう一人に対峙した。立て続けに二人の仲間を倒された男は、怒りの唸り声を上げながらファイティングナイフを振りかざして襲いかかってきた。

 縦横に振るわれる凶刃を躱しながら、私は男の懐に跳び込む隙を窺った。だが、さすがに相手も暴力の専門家である。仲間を倒された激昂ともあいまって、とても隙を衝けるような生易しい攻撃ではなかった。ナイフの刃が私の頭髪やボディスーツを掠め、さらに勢いを増しつつある。私の視界が極端に狭まっていることも、要因のひとつであろう。

 初めての流血が私の左腕から弾けるまで、それほどの時間は要しなかった。さして深い傷ではなかったが、男の残虐性を刺激するには充分だったようだ。

 口許に残忍な笑みを閃かせて、男はファイティングナイフを突き出した。正確に私の胸の中心を狙って。

 鋭い刃が私の心臓を貫き、深紅の鮮血が夜の闇に吸い込まれるように噴き上がる。断末魔を発する間もなく絶息した私の身体が、雨に濡れて半ば泥濘とかしている大地に倒れて紅の水溜りを作っていく。

 そんな光景を思い浮かべたであろう殺戮者は、次の瞬間には己の浅はかさを思い知ることになった。

 心臓を狙ってくるとわかっている以上、それを迎え撃つのはさほど難しいことではない。

 鋭い一閃を上体を捻って紙一重で躱し、私は左の手刀で相手のナイフを叩き落とした。同時に右腕で相手の頸を抱え、いわゆる頸投げの要領でその巨体を一転させて大地に叩きつける。そのまま左の手刀を頸筋に叩き込むと、男は悲鳴も上げずに動かなくなった。

 呼吸を整えつつ立ち上がりながら、私は改めて生命を奪わずに相手を制することの難しさを実感していた。頸投げなど、下手をすれば脛骨骨折を引き起こしかねない危険な技である。今回は上手く決まったが、いつでもそれを実践できると思えるほど私は自分自身の技量に信を置いてはいない。

 たった一人を相手に三人を倒された追撃者たちは、怒りを数倍に膨張させて迫ってきた。もはや口先だけの脅しを使おうともしない。殺気を隠そうともせず、じりじりと間合いを詰めてくる。怒りに任せて殺到しないのは、三人のうち後半の二人を倒した私の力を警戒しているのだろう。

 客観的に見て、私はそれほど体格に恵まれているとは見えない。にも関わらず、二人はナイフを持ちながら私にほとんどダメージを与えることもできずに地面に這いつくばっている。警戒するのも道理だった。

 さて、どうやってここを切り抜けるか。

 その時、周囲を見回して包囲の最も薄い部分を探す私の鼓膜を、堂々たるテノールが打った。

「なかなかの腕だ。ただのこそ泥ではないな」

 多彩なスーツの男たちの間を割って、捕虜に対する君主よろしく登場したのは、リーから送られてきた写真に写っていた紳士だった。貴族的とすら思える豊かな銀髪と端正な顔立ち、そして鋭い眼光。長身を高価なスーツに隙なく包み、優雅ささえ感じさせる足取りで近づいてくる。雨に濡れることも一切厭う様子はなかった。

「君の目的が息子にあったことはわかっている。すでに人をやって仲間の後を追わせている。時間の問題だろう」

 私は全身から汗が噴き出すのを自覚した。それと悟られないように泰然と構えようと努めたが、ヴァイス・F・ヴァイアンズはそんなことには構わず続けた。

「その無粋なものを外して素顔を見せたらどうかね。もう少し付き合ってもらうのだからな。機械と話しているようで、あまりいい気はせんな」

 私は立ち尽くしたまま、ヴァイアンズ氏の言葉を無視した。少壮の資産家は、表面的には気を悪くした風もなく冷静さを保っている。微笑とともに、言葉を続ける。

「どうも人見知りが激しいようだな。まあ、よかろう。どうだ、君も我が随員の一角に加わらんかね」

 私はその言葉の意味を咄嗟に理解できなかった。数瞬の間をおいてヴァイアンズ氏の言葉を脳内で反復して、私は呆然とし、にわかに口を開けなかった。

「どうだね」

 私が答えないので、ヴァイアンズ氏はもう一度尋いてきた。

「我が随員に加われば、君の能力は高く買わせてもらおう。これほどの手練、我が随員にもそうはいない。ただし条件として、情報は提供してもらうがね。悪い話ではあるまい」

 要するに、仲間を売れ、そうすれば高く雇ってやる、ということである。私はようやくひと言だけ吐き捨てるように言った。

「夜中に叩き起こされたからって寝ぼけるなよ」

 途端に、周囲を取り巻く屈強な男たちから凶悪な圧迫感が押し寄せてきた。わずかに努力を要してその場に踏み留まると、私はさらに付け加えた。

「そう興奮しなさんな、血圧上がるぜ。雁首並べて医者を儲けさせることもない」

 今度の反応には実力がともなった。

 サイレンサーごしの銃声が二発、白銀のナイフの煌めきがひとつ。合計して二種類、三方からの攻撃が私を襲った。それぞれの時差はほんの半瞬もなかったであろう。銃弾は一発が私の右足のすぐ傍に、もう一発が顔の左を吹き抜けて背後の樹木に着弾した。やや遅れて飛来したナイフは、左大腿部を掠めて地面に突き立った。

 見事な威嚇であったろう。だが、私は何ら感動しなかった。現在の状況とこちらの反応で、次にどういう事態が発生するか、私はこれまでの経験則から予測していた。わかっている事態が現実化したからといって、いちいち驚いてなどいられない。

 連中から見れば、私など分をわきまえない青二才に映るのだろうが、これでも私は実際の修羅場をいくつもくぐり抜けてきたのだ。

 ナイフが地面に突き立った次の瞬間には、私は黙ったまま足元に弾丸を撃ち込んできた男の方に跳躍していた。こちらが萎縮するとでも思っていたのだろうが、男たちは逆に反撃を受けてたじろいだ。男の懐に跳び込んだ私は、拳銃を握る右手に手刀を叩き込み、膝蹴りを鳩尾に突き込んだ。

 怒声が沸き起こり、拳銃やナイフを構える者もいる。だが、怒鳴り声などこの場では何の効果も持っていなかった。男が崩れ落ちるのを尻目に、横っ跳びでもう一人の銃を持つ男の懐に潜り込むと、同時に右手を振り上げて特殊警棒を顎の下に叩き込む。男の身体は後方へ弾け飛んで、仲間たちと同じように地面を打った。

 五人目の攻撃力を奪った瞬間、私の右腕に灼熱をともなった衝撃が弾けた。至近から発射された弾丸が右上腕のボディスーツを裂き、その下の皮膚を削ぎ取ってほんの小範囲に赤い霧を散らせた。

 これまでで唯一、私の行動に対して有効な反応を実行した男は、ヴァイアンズ氏の隣りに立っていた。

「迂闊な行動を取るべきではないな。口にも気をつけた方がいい。どれほど自信があるのかは知らんが、この状況を打破することなどできるものではないぞ」

 ヴァイアンズ氏が、勝ち誇るように口許に笑みを浮かべた。爬虫類を思わせる眼光が美丈夫とも評せる眉目に浮き出て、形容し難い印象を与えた。これだ。私は直感した。初めて写真を見た時、この男の眼光の鋭さに感じた不快感。それを今、眼前に見ながら、とてもあの澄んだ瞳のアルフレッド少年とは相容れぬものを私は実感していた。

 先刻から感じてはいたが、ヴァイアンズ氏には単なる資産家としてではないもうひとつの顔があるのではないか。過剰とも言える警備システムも多数の屈強な男たちも、それを裏付けているのであろう。その裏の顔が前面に出ているのではないかと私には思われた。

「どうあっても意を通すつもりらしいな。それもよかろう。間違いに気づくには、地獄では遅過ぎると思うがな」

 あくまで平静なヴァイアンズ氏が左隣りに立つ男の方を見やって、小さく頷いた。

 それにしたがい、男はゆっくりと歩を進めた。無言のまま、右上腕を押さえる私の正面に立つ。どうやらここにいる男たちの筆頭にいるのだろう。ヴァイアンズ氏の懐刀というところか。間近に見ると、威圧感で押し潰されるかと思うほどだった。

「その男は私のお気に入りでな。もし、君が勝つことができれば、この場は見逃してやってもいい」

 ヴァイアンズ氏はゲームを楽しむという感で、悦に入った声を出した。自分の「お気に入り」とやらが負けるとは露ほども思っていないのだろう。

 ヴァイアンズ氏には悪いが、実のところ、私はこの展開を「しめた」と思っていたのだ。今、男は拳銃をしまい、先程の男同様にファイティングナイフを握っている。格闘戦である限り、一対一なら相手がどれほどの手練であろうとも、私の能力でまず勝てる。

 空間の固形化。

 半径一・三メートルの空間を、私は固形化させることができる。それによってその空間内の相手の動きを封じることが可能なのだ。相手は理由もわからないまま、いわば金縛りにあうのである。当然、そこには動揺が生じる。その上で金縛りを解いたとしても、その瞬間、必ず大きな隙を生じる。その隙に私の攻撃を受ければ、まず無事ではすまない。

 果たして私がこの男をのした後でヴァイアンズ氏が自分の言葉を守るかと言えば、私はそれほど楽観主義ではない。それでも自分たちの筆頭格が倒されれば、男たちは怯まざるを得ないだろう。全体に動揺が広がれば、逃げの一手に徹すれば逃亡はさほど難しくはないものである。

 私は眼前に迫る殺気に身を晒しながら、相手の周囲の空間に意識を集中した。男の表情は残忍さを滲ませる笑みだったが、それが困惑から恐怖に移行する光景を私は思い描いた。

 だが、私の想像は現実のものとなる以前に打ち砕かれた。現実の轟音とともに。

 背後で突然鼓膜を引き裂く轟音が起こり、同時に大地が振動する。驚いて振り返った私の目に、オレンジ色の光芒が飛び込んできた。オレンジの光は次の瞬間には赤く燃え立ち、さらに黄色く変色した。さらに一瞬ごとに煌めく光芒が溢れ、決闘の場は真夜中のディスコさながらに虹色の色彩で彩られた。

「ボス! どこにいるの、ボス!」

 忘れようもないほどに聞き慣れた声が、この時は空耳のように思えた。だが、それもほんの一瞬で、塀を突き崩して現れた中型のトレーラーを見て、私はすべてを察した。

「ここだ! それ以上来るな! バックしろ!」

 私はあらん限りの声を振り絞って叫んだ。その声が届いたのか、トレーラーは土煙とともに粉砕された煉瓦の破片を巻き上げながら急停止した。

 バンパーは潰れてライトは砕け散り、フロントガラスは蜘蛛の巣状の亀裂で真っ白に漂白されたようだった。

 ヴァイアンズ氏たちは、突然の事態に右往左往している。各所で何か叫んでいる声が聞こえるが、到底、会話ができる状態ではなかった。さらにそこへ、割れたライトが上向きに照射され、トレーラーの馬鹿でかいクラクションが鳴り響く。トレーラーが突っ込んだ時の衝撃で幹に大きな亀裂が入った楡の大木が悲鳴を上げながら倒れたことが、事態に油を注いだ。

「なんてこった、ラリーめ、もっと自然を大事にできんのか」

 ラリーの乱暴極まる特攻に、私は悪態をついた。それに答えるかのように、運転席側のドアが開き、薄い夕焼け色の髪が現れる。

「早く! ボス!」

 ここで文句を重ねるほど、さすがの私も図太くはない。言われるままに駆け出したのだが、狙いすましたように第三者の妨害が立ち塞がった。あの筆頭格の男である。

「お前さんもしつこいな。あれが、それほど忠誠心を刺激する相手かよ」

 私は横目でヴァイアンズ氏の行方を捜したが、巻き上がる土煙と駆け回る人間の群れのために発見できなかった。おそらくは、身の安全を確保するためにさっさと屋敷に避難しているのだろう。

 だが、男は私の言葉に耳も貸そうとしなかった。相変わらず沈黙を守ったまま、一歩一歩近づいてくる。

「そんな奴放っといて、早くおいでよ!」

 ラリーが苛立った声を上げたが、私だってできればそうしたいのだ。だが、ここで背中を見せれば、電光のような早撃ちを実際に体験することになるのは明白だった。それも的として、である。そんなことは御免こうむりたい。だが、脱出を果たすためにこの好機を逃すこともできない。

 ここで私が取った選択は、後日、本当に正しかったのかと思案することになるのだが、この時はそこまで考えている余裕はなかった。

 私はじっと立ち尽くしたまま、男を凝視した。正確に言うと、男の周囲の空間を、である。ラリーはもう一度叫んだが、叫んだ直後に異変を察知したようだった。

 男は歩みを止め、目を見開いてこちらを睨んでいる。その目に狼狽の光が宿っていることを私は正確に見て取った。額には汗が噴き出している。決して爆発による気温の上昇のためではない。男は動けないのだ。まさに胸元から拳銃を引き抜こうとする姿勢のまま、男は彫像のように立ち尽くしている。その口から唸り声とも呻き声ともつかない低い声が漏れ、額や手の甲に血管が青く浮かび上がった。その間も私は男を凝視し続け、微動だにしなかった。

 そこへ男の背後にひとつの影が駆け寄り、廻り込んで男の正面に立つ。すかさず私は能力を解いた。間髪入れずに、自由を回復した男の顔面に特殊警棒の一撃が叩き込まれる。息が詰まったような悲鳴とともに鼻と口から血を撒き散らせながら、男は後方へ吹き飛んでしたたかに地面に背中を打ちつけた。

 こんな凶暴な行動を取る人物は、この場では唯一人しかいなかった。敬愛すべき我が助手、ラリー・エヴィダンスである。

「お前、少しは手加減しろよ」

 男を金縛りにかけていた私は、思わず憎まれ口を叩いた。それに対するラリーの返答は明快だった。

「随分してるよ!」

 この時、私は改めて決してラリーを怒らせまいと心に誓ったのだった。

 それにしても、金縛りにあっていた状態のところに筋力を増幅させたラリーの一撃を受けたのだ。いかに屈強を誇っていようと無事で済むはずがない。これで動けるようなら、とてもじゃないが人間ではないだろう。見ると、男は濡れた地面に手足を伸ばして転がっており、微動だにする気配もなかった。

 さすがに気の毒になったが、そんな義理もないので、私は人道的ではない方の選択肢を選んだ。すなわち、ラリーと並んでトレーラーに向かって駆け出したのだ。

 トレーラーまではもはや何の障害もなかった。ヴァイアンズ氏の用心棒たちは、いまだ混乱から脱していなかったのである。

 土煙の中を走り回る男たちを尻目に、私は運転席に跳び込むとエンジンがかかっていることを確かめた。同時に、助手席のドアが開いてラリーが乗り込む。その姿にちらりと視線を送ったところで、私は硬直した。私の視線が晴れ渡った空色のそれにぶつかったのだ。

 私はすんでのところで溜め息を呑み込んだ。アルフレッド少年もラリーに付き合って暴走族の真似事をしたという訳だ。

 取り敢えず何も言わず、ボディスーツの上着を脱いでアルフレッド少年の小さな身体に頭から被せると、私は肘打ちで亀裂の入ったフロントガラスを叩き割った。視界を確保してから、ギアをバックに入れて一気にアクセルを踏み込む。

 急発進の極致だったであろう。中型トレーラーは、ラリーが破壊した塀の破損部をさらに大きく砕いて、夜の道路に飛び出した。道路へ出た瞬間に、再び前方で爆発が起こる。最初に塀を破壊したのと同じ小型手榴弾を、ラリーが投げつけたのだ。リーから支給されている手榴弾で、破裂と同時に通常のものよりも激しく光を発する特殊仕様のものだった。殺傷能力は相当抑えているものの、それでもやはりそれなりの破壊力を有している。

 深夜だというのに、道路にはすでに野次馬連中が集まりつつあった。私は舌打ちしたが、これは致し方なかったであろう。真夜中に耳をつんざく凄まじい爆音とトレーラーが塀に激突する音が響き渡ったのだ。飛び出してこない方がどうかしているというものだ。

 私は野次馬を避けてトレーラーを疾走させた。あざといやり方ではあったが、その際、クラクションをけたたましく鳴り響かせた。それによってさらに数を増すであろう野次馬たちが、追手の動きを制限すると見越してのことである。

 かくして私たちは、多少の手違いはあったものの、無事にアルフレッド・ヴァイアンズを「保護」することに成功したのだった。

 だが、まだ私には片付けないといけない仕事が残っていた。今、ハンドルを握っているトレーラーは、ラリーが逃亡の最中に見つけたものを無断で拝借したものであり、そのまま帰宅するなどできようはずもなかった。

 ひとまず近くの丘に隠しておいた愛車の元へ戻って二人を先に帰らせた後、私は一人でトレーラーの処理をしなければならなかった。所有者には申し訳ないが、帰路とは反対方向にしばらく走ったところで、私はトレーラーを放置した。上手く所有者がみつけてくれるよう願いながらサンバイザーに多少の金銭を入れた封筒を差し込んだのは、謝意と言うより少しでも罪悪感を薄めるための自己弁護に過ぎないであろう。

 ともかく、それから私は徒歩とヒッチハイクで、翌日の午後には何とか帰還を果たしたのだった。


「リー伯父さん!」

 あらかじめ連絡を取って待ち合わせてあった郊外のホテルでその言葉を聞いた時、私とラリーは白昼夢を見た直後のような自失状態で、呆然と立ち尽くした。

「無事だったようだな、アル」

「うん、すっごく面白かったよ。映画みたいだった!」

 アルフレッド少年の言葉に、リーは言葉を詰まらせて数度瞬きした後、形のいい眉の間に皺を作って私たちを見据えた。

「お前たち、この子に変なことを教えなかっただろうな」

「え⁉️ いや、別に何も……ねぇ、アル?」

 ラリーが珍しく辟易した様子で愛称を呼ぶと、アルフレッド少年は元気よく頷いた。私が帰宅するまでの間に、どうやら二人は随分と信頼関係を築いたようである。アルフレッド少年、いや、アルフレッドはラリーのことを「ラリーお姉ちゃん」と呼ぶようになっており、ラリーは愛称で呼ぶようになっていた。それは好ましいことなのだが、今はそんなことよりも確認しなければならないことがあった。

 私はふと我を取り戻し、リーに向かって叫ぶように尋いた。

「おい、待て、リー。伯父さんってどういうことだ⁉️ まさか、依頼人ってのは……」

「うん? ああ。まぁ、そういうことだな」

 忌々しいほどの冷静さで、リーは私の推測を肯定した。

「何がそういうことだ! 事情を説明しろ、事情を!」

「うむ、そう焦るな。きちんと説明してやる。それはそれとして、ラリー、すまないがアルを寝室に連れて行ってやってくれないか」

「あ、うん、そうだね。おいで、アル」

 アルフレッドは渋い顔をした。

「僕、まだ眠くないよ」

「駄目だ、アル。子どもは大人よりたくさん夢を見る必要があるんだよ」

「どうして?」

「どうしてもさ。お寝み、アル」

 リーは片手を優しくアルフレッドの頭に置き、微笑みながら諭した。私はそんなリーの表情を初めて見た。子どもの相手をするリー・アンクランシスなんて、これまではとてもじゃないが想像するのは難しかった。それがどうだ、この甘い顔は。アルフレッドがラリーに連れられて出ていくと、私は思わず皮肉を言ってみたくなった。

「随分と甘いんだな。実の息子のようだぜ」

 リーの反応は、だが、私の予想に反するものだった。

「そう言われると弱いな」

 リーは改めてソファに深々と座り直し、鋭角的な顎をそっと撫でた。その表情には柔らかい微笑が浮かんでいる。私はどう続けていいか迷ったが、ストレートに核心を衝くことにした。

「で、お前とアルはどういう関係なんだ。本当に伯父と甥なのか?」

「いや、アルは私の遠縁に当たる。正確には母方の祖父の従兄弟がアルの母親の曽祖父になるのだったかな」

 私は頭の中に家系図を描こうとしてやめた。

「それで? 説明してもらおうじゃないか」

 理解の難しいことは置いて、私は質すべきことを質した。

「うむ、実を言うとな、シモン。正直なところ、私はアルの存在自体を半年前まで知りもしなかったのだ」

 それからリーの話は、アルフレッドの出生からその父親とヴァイス・F・ヴァイアンズとの交渉、父親の病死を経て、それらの事情を知ったリーの今回の行動に至った。話自体は十五分程度のものだったが、その内容を理解しようと思えば小一時間かけても容易ではなさそうだった。

 要するに、アルフレッドの父親が入院した時にはすでに近い親族一同はおらず、リーはそのことを知る状況になかった訳である。半年ほど前、リーの一族が一堂に会する機会があり、そこでリーはレイモンド・マンスフィールドなる人物の存在を初めて知ることになる。アルフレッドの父親である。母方の親族の一人が、思い出したようにその名を出したのだ。

 その親族もさほど深く状況を把握していた訳ではなく、レイモンドが亡くなる直前に一度だけ病院を訪ねて、かつて我が子を養子に出したことを打ち明けられたのだと言う。レイモンドは自分の行動を後悔していたようだが、もはやどうすることもできなかった。その親族はレイモンドを慰めることしかできなかったと言う。そもそも見舞いに訪れるだけでも温情深いと言えるほどの関わりしかなかった相手である。その後、レイモンドは誰にも看取られることなく亡くなったのだ。

 少し話を聞いた限りでは、リーとしては納得いかないものを感じたらしく、自分の手でことの詳細を確かめようと考えたのだ。そして、調査の結果、自分の手でアルフレッドをヴァイアンズの手から保護しようと判断したのだ。その調査に要した日数が、ほぼ半年であった訳だ。

 ヴァイアンズは、アルフレッドを正式な後継者として迎えた訳ではなく、単に敵対者に弱みを見せないための道具と見做していたらしい。不自由な暮らしをさせるという訳ではなく、むしろ裕福な環境を与えられてはいたようだが、情愛などひと欠片も存在していないと複数の証言を得られたという。

 リー・アンクランシスと言えば、この国の統合参謀本部議長として他国政府からも一目置かれる存在である。しかも、歴代に冠絶するとも評される切れ者だ。リーの名が出るだけで、ヴァイアンズもアルフレッドの親権を譲ることは疑いないであろう。相当の金額を要求してくるぐらいのことはするであろうが。

 が、ここでリーは問題に直面することになる。

 折しも中近東の情勢が緊張感を増し、公的な職務が極めて多忙になったのだ。私的な問題の解決に乗り出せる状況では、到底なかった。さらに昨今の政治関係者のスキャンダルも問題化していた。そこには前回の私たちの仕事が大きく関与しているのだが、問題は政権内部にまで拡大しており、迂闊な行動に出ればアルフレッドの親権を確保するどころか、自分の足場が転覆する可能性すらあるのだった。リーにとっては、いささかうんざりする状況ではあるが、現政権による政治改革が確立するまでは第一線を退く訳にはいかなかったのだ。

 そこでリーの目に止まったのが、手足のごとく忠実な我々特別捜査隊員という訳だ。リーの私的要員を使っての接近には、どうしてもある程度の掣肘がつき纏う。事実、一旦はアルフレッドに接触してその本心を聞き出すことに成功しながら、実際に保護するまでには至っていないのだ。

 やむなく我々が動員されることとなり、秘密裏のうちにアルフレッドをヴァイアンズの屋敷から連れ出すという手段を選択せざるを得なかったという訳だ。

 連れ帰った後で、アルフレッドの正式な後見人としてリー・アンクランシスの名を出し、ヴァイアンズとの交渉に臨む。交渉は公にならない方が望ましいが、場合によっては法廷に出ることもやむを得ないだろう。法廷で闘うとなれば証拠も必要になってくるが、それはリーの仕事だ。その点、心配は無用のはずである。だからこそ、事前調査に半年もの時間がかかったのであろうから。

 今回、問題は別にある。完全に秘密裏であればまだしも、不本意ながら我々は極めて派手に脱出行を敢行することになってしまった。不法侵入に始まり、傷害、誘拐、器物破損などなど、悪くしなくても充分こちらが犯罪者である。だがまぁ、そこはリー・アンクランシスの腕の見せどころであろう。

 別に我々は正義の権化という訳ではない。アルフレッドに対する正当な親権が確立され、あの純粋な少年の未来が幸福なものになる可能性が上がるのであれば、欺瞞や詐術を使うことも当然あるのだ。

 大体の事情はわかった。だが、リーにとって今回の件は、あまりに危険な冒険ではないのだろうか。私はふと聞いてみたくなった。

「今の段階でお前の名を出せば、お前だけに限らず、現政権に不満のある連中に少なからずいい口実を与えることになるんじゃないか。いいのか?」

「確かにな。だが、おそらくそうはなるまいよ」

 リーは口許に人の悪い笑みを浮かべ、私の方を見やった。これだ。この笑いが出ると、碌なことがないのだ。まぁ、今回はこの笑みが向けられる対象は私ではないので、一向に構わないのだが。さすがに準備に半年もかけただけのことはある。私たちの乱暴な脱出劇など問題にならない程度の対策は用意した上での行動開始だったのであろう。

「今回、そうはなるまいが、実のところそうであっても一向に差し支えない。別に私には統合参謀本部議長などという肩書は必要じゃないのでな」

「ほう。ならば今の席を追われても構わないって言うのか」

「そうだな。どうせなら、早く退きたいものだ。改革の方針さえ固まり、動き出せばな」

 なるほど、と私は頷いた。この言葉は紛れもない本心であろう。少なくとも、リー・アンクランシスがそこらの利権漁りの連中とは一線を画していることは疑いようのない事実だった。説得力もあるというものだ。

「ま、政治屋どもがどうしようと知ったことじゃないがね。それより、まだ聞いておかなきゃならんことがある」

 私は真剣な表情でリーの端正な顔を見つめた。リーの方では私の問いを予測していたのであろう、肩を竦めて私の言葉を受け止めた。

「どうして初めからすべて話さなかった? それにお前が依頼人なら、報酬四〇〇〇ドルというのはどういう訳だ」

 私は真っ向からリーの黒い瞳を見据えた。ことに取り掛かる前に、リーは極めて消極的に事前処理を行った。依頼と称したにも関わらず、依頼人の名も過去の経緯も明らかにしなかった。そして報酬に関しても、少なくともリーの資産から考えれば、内容に応じた正当な額を提示できたはずだ。ましてやアルフレッドの保護という目的を考えればなおのことである。充分な説明をしてもらわなければならなかった。

「なに、報酬は少なめに言った方がお前たちの同情を買えると思ったのでな。その分、経費の方で補っただろう」

「……それだけの理由で?」

「それだけだ」

 あまりに平然と言い放つリーに、私はふざけるなと怒鳴りつけてやりたかったが、実際にはもうひとつの疑問を繰り返した。

「なら、どうして初めから話さなかったんだ」

 私としては、むしろこちらの方がより充分な説明をしてもらわねばならなかった。だが、リーは短く直截的ではない答え方をしただけだった。

「いや、何、私は独り身で子どももいないからな」

 ……要するに、照れくさくて追求されるのが嫌だったという訳である。

 唖然とする私を無視してわざとらしく髪を掻き上げるリーが、ダークブラウンの髪とスラックスの下に黒い角と尻尾を隠しているに違いないと思えた。

「リー、この際、言っておくがな……」

 しかし、私の抗議は部屋に戻ってきたラリーのために中断させられてしまった。それに便乗して、リーは私の追求を躱した。

「すまなかった、ラリー。アルは寝たかい」

「うん。やっぱり疲れてたみたいだね。ちょっと話してたらすぐ寝ちゃったよ。可愛い寝顔でね。それで、話は終わったの?」

「ああ、ちょうど終わったところだ。お前たちももう寝んでくれていいぞ」

 そそくさと立ち上がって部屋を出ていこうとするリーの背中に向けて、私はひと言だけぶつけてやった。

「リー、お前、独り身であの子をちゃんと育てられるのか」

 部屋を出ていくリーの肩が瞬間的に揺れるのを、私とラリーは見逃さなかった。


「あぁ、もう、金が足りんじゃないか」

 私は金銭の出納を記した帳面をデスクに放り出して、傍らに置いたグラスを取り上げた。独特の松ヤニ風味を持つギリシヤ産の白ワインを一気に飲み干したところに、ラリーがドアから顔だけ出して口を挟んだ。

「文句言うなら、あんなことしなきゃよかったのに」

 ……確かにそれはそうかも知れないが、しかし……。

「何、そんなにお金要るの? バイトでもしようか?」

「別に困ってはないが、まあそうだな、次の仕事が入るまで、俺も何か探すとするか」

 今回の仕事で要した経費はおよそ八五〇〇ドル。さらに先日、それとは別の出費が二万七〇〇〇ドル少々。リーから送られてきた経費にさらにいくらか加算しなければ、すべてが賄えなかった。こんなことになったのは、実のところ私自身の選択に原因があったのだが、仕方ないではないか。

 その時、訪問を告げるベルが私の意識を現実に引き戻した。はて、来客の予定などあっただろうかと考える私の耳に、子どもの闊達な声が心地よい微風となって届いてきた。

「こんにちは、ラリーお姉ちゃん! お兄ちゃんは?」

 私は呼ばれるまでもなくデスクを立った。書斎の入り口で、ラリーに聞いたのだろう、アルフレッドと鉢合わせて危うくぶつかりそうになった。

「こんにちは、シモンお兄ちゃん!」

「こんにちは。よく来たな、アル。まさか一人か?」

「ううん、リー伯父さんと一緒だよ」

 私は直接には何も言わなかったが、アルフレッドの言葉に間違いなく妙な顔をしてしまったようだ。続いてアルフレッドが怪訝な表情で言ったのである。

「お兄ちゃん、伯父さんと仲悪いの? 僕、二人とも大好きだから、仲良くしてもらいたいな」

「ん? ああ、そうだな」

 私は言葉を誤魔化したが、本心はとてもアルフレッドに聞かせる訳にはいかない。

「それで、リーはどこにいるんだ?」

「外。車の中で待ってるよ。時間ないんだって」

「何だ、今日は何かあるのか?」

「リー伯父さんの用事だって。僕にも関係あるみたいなんだ」

 私はまたリーが何か企んでいるのかと思ったが、それについては詮索せずに時間のないアルを見送った。

 アルフレッドが出ていってからしばらくして、またラリーが顔だけをドアから覗かせた。

「わざわざお兄ちゃんに会いに寄ってくれたんでしょ。良かったね、嫌われてなくて」

「どうして俺が嫌われなきゃならないんだ」

「さぁ」

 それ以上の追求を避けて、私は話題を転じた。

「それで、今日はどうしたんだ。リーも一緒だったんだろう」

「うん、妙に急いでたみたいだし、何かあったのかな」

 アルフレッドも内容は知らないようだったが、自分に関係あるということはあるいは訴訟の件だろうか。まあ、近くに来たからここに立ち寄る程度の余裕があるのであれば、切迫した問題ではないだろう。

「ところでな、ラリー」

 私はアルフレッドに言えなかった本心をつい尋いてみたくなった。

「アルはリーのことが大好きなんだと。ちょっと趣味嗜好を教えてやった方がいいんじゃないか? 将来のことを考えても……」

「そうだねぇ。シモンのことも大好きだって言ってたもんねぇ、少し心配かな。でも、小さい時から特殊な環境に慣れておくのもいいんじゃないの」

 どういう意味だ、と言いたかったが、これまでの経験が私にそれを断念させた。代わって先刻から気になっていたことを尋ねる。

「何でさっきから顔しか出さないんだ。気になるじゃないか。まさか人に見せられないような格好をしている訳でもないだろうに」

 ラリーは何も答えず意味深げな微笑を残して姿を消してしまった。後を追おうとして立ち上がりかけたところを思い直して再び腰を下ろしたのは、これも経験が教えてくれた教訓に基づいてである。まこと経験は成長するために必要かつ重要なものである。

 そんな私の思いは、次の瞬間には霧散してしまっていた。ラリーがいきなり書斎に駆け込んできたのだ。その姿に、私は大きな衝撃を覚えた。あるいは、アルフレッドとリーの関係を知った時よりも大きなものであったかも知れない。

 白いTシャツに薄いピンクのジャンパースカートという、まさに女の子そのものという出で立ちのラリーがそこにいたのである。

「どうしたんだ、お前、その格好⁉️」

 私は素直に自分の気持ちを口にしたのだが、ラリーの反応はいささか噛み合わないものだった。

「え? ああ、シモンも気づいた? これ、仕立てが合ってなくてさぁ。ちょっとぎこちないんだよね」

 ひらひらとスカートを揺らしながら、ラリーは私が突っ込みたいこととまるで違う点を答えた。

 呆然とする私に構わず、ラリーは一枚のカードを私の鼻先に突きつけた。

「そんなことより、これ!」

 まだ頭の中がはっきりしないまま、私はカードを手に取って目を通した。それは結婚式の招待状だった。カードの最後に記された署名を見て、頭をハンマーで強烈に殴られたような衝撃を、再び私は受けることになった。

 そしてその翌日、北の郊外の小さな教会で、リー・アンクランシスとマリア・シュヴァルスという女性の結婚式が執り行われたのだった。

 参列者には政府要人もいたがごく少数で、教会の規模といい、各国政府に英名を持って知られる統合参謀本部議長の挙式としてはささやかに過ぎた。それがリーと、そしておそらくは花嫁との為人りを示しているのだろうと、私やラリーは感じていた。

「まさか俺の言葉が引き金になった訳じゃないよな」

 式が終わってから、私は新郎に話しかけた。リーはひと言「さて」とだけ答えて口許をわずかに緩ませた。常の冷静さが彼の表情を隠していたが、やはり嬉しさというものは滲み出るようだった。

 隠しきれない笑みを口許に刻むリーに、ラリーが当然の疑問をぶつけた。

「で、アルはやっぱり議長が引き取るの?」

「ああ、マリアも承知してくれたし、正式に養子として迎えることになる」

 この時、初めて聞いたのだが、ヴァイアンズを相手取った訴訟はすでに片がついているとのことだった。アルフレッドの親権は法廷において正式にリー・アンクランシスが有することが認められ、ヴァイアンズはアルフレッドから手を引いたのだった。その際、公言はしていないが、ある程度の金銭がヴァイアンズに手渡されたことは事実であろう。一国の役人として要にいるリーとしては、そのような裏の取り引きが現実にあることも充分に承知している。

 そして、リーの言葉によれば今後もヴァイアンズに対しては警戒を続けるということだった。対面してみて、リーも私と同様、あの爬虫類のような笑いを持つ壮年の男に危険なものを感じたようであった。あるいは、再び見えることがあるかも知れない。できればそのような事態は避けたいものだが……。

 だが、ちょっと待て。

 私は状況を整理して、とんでもないことに気がついた。驚愕はそのまま言葉の奔流となって私の口を衝いて出た。

「おい、リー! そうなると、これからのアルはお前と一緒に暮らすのか? 施設に入る訳じゃなく?」

「そうだが」

 落ち着き払ったリーの声と対照的に、私の声は大きくなった。

「じゃあ、アルの養育費はすべてお前が負担するのか?」

「当たり前だろう。親権を持つというのはそういうことだ」

「俺はてっきりお前一人じゃとてもじゃないが子どもを育てるなんてできないから、施設に預けるもんだと思ってたんだ! お前確か、いくつかの孤児院とかに援助してただろう!」

「それとこれと何の関係があるんだ。何故、我が子としたアルをわざわざ預ける必要がある」

「いや、それは……」

 確かにその通りなのだが、リーの職務を考えれば子育てなどしている余裕がないのは明白だった。加えて、ヴァイアンズ家で愛情を与えられることなく育ったアルフレッドをハウスキーパーに任せて放置するなどということをリーが考えるはずがない。その点、施設であれば友達もできるであろうし、激務の合間を縫ってリーが顔を出せば愛情を伝えることは充分にできるだろう。リーの性格を考えれば、そういう選択をするものだと私は思い込んでいたのだ。

 もしそうであれば、いかに後見人とは言え、リーの立場でアルフレッドだけを特別扱いするような援助の仕方はしないだろう。それもリーの性格を思えばわかりきったことだ。そう考えたからこそ……。

「じゃあ、いざという時のためにアルに金銭をやる必要はなかったってことか⁉️」

 そう。私は何かあった時のために自由に使える蓄えがあった方がいいと考えて、こっそりとアルの口座に二万七〇〇〇ドル余りを入金したのだ。私の判断はそこまでおかしなものではなかったはずだ。ただ一点、リー・アンクランシスがこのタイミングで結婚するという可能性が完全に抜け落ちており、その一点によってすべてが覆ったのだ。それも仕方ないであろう。これまでリーの色恋の話など聞いたこともなく、そんな気配すら感じることはなかったのだ。

 リーはしばらく沈黙していたが、数度瞬きしてから突然破顔した。

「そうか、なるほど。アルの口座に振り込まれてあったあの金銭はお前か。落ち着いてから調べようと思っていたんだが、手間が省けた。そうかそうか」

 目を丸くしている私を尻目に、リーは笑いながら立ち去ってしまった。そして、花嫁と愛息が待つ車に向かう途中で振り返って、付け加えたのだった。

「アルに話してやると喜ぶぞ。お前が自分のことを大切に思ってくれているとわかるとな」

 その言葉に少し離れた位置に停車しているフォーマルリムジンに目をやると、ちょうどアルフレッドが窓を開けてこちらに向かって元気に手を振るところだった。晴れ渡った空色の瞳と目が合うと、私の反論する気力も完全に萎えてしまった。

 新たな家族となった三人を乗せた車が視界から見えなくなってから、ラリーが屈託のない笑顔を向けてきた。

「毎度のことだけどさぁ、シモンって間抜けだね」

 放っといてくれ、と私は思いながらも、アルフレッドの笑顔を思い出すとよかったのかとも思うのだった。

「幸せになってもらいたいね、三人とも」

「……そうだな」

 この時は、私もリーの笑顔を純粋に祝福する気分だった。それが、多分にあの純真なアルと美しい花嫁の影響であったとしても。

 空は、初めて本当の家族を得たアルフレッドの瞳と同じく、碧く澄んでいた。高く、広く、それは少年の未来の可能性を示しているように、私には感じられた。


                                      END


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