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知らない曲を弾いてるつもりですか

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/06

「もう君の耳は要らないよ」


 ヴァレンティンはそう言って、微笑んだ。

 午後の陽光が白い石造りの回廊に差し込んでいる。


「5年間ありがとう。君のおかげで僕の演奏会は成功した。でもこれからは、僕1人の耳でやっていけると思うんだ」


 5年間。60回の演奏会。指先のタコが6回できて6回消えた。

 その全てを私——カティア・ヴェーバーが調律した。

 ヴァレンティン・フォン・クラウゼは、一度も調律室に来たことがない。


「それは婚約の解消という意味でよろしいですか」


「うん。ごめんね、カティア。君は素晴らしい調律師だよ。でも僕には、もっと華やかな場所に立てる人が必要なんだ」


 中庭の噴水の水音が聞こえていた。

 気がつくと拍数を数えている。毎分72拍。動揺している時ほど、耳だけが正確に動く。やめたいのにやめられない。調律師の職業病だ。


 彼の声が半音下がった。嘘をつく時の癖だ。5年も聴いていれば分かる。

 本当の理由は別にある。おそらく、伯爵令嬢マリアンネだろう。先月の演奏会で、彼女がヴァレンティンの袖を掴んで離さなかったのを私は見ている。


「承知しました。では調律器具の引き渡しについてですが」


「あ、それは……もう処分していいよ。僕の新しい調律師が自分の道具を持ってくるから」


 ——新しい調律師。

 つまり私の代わりは、もう決まっていたのだ。引き渡しの前に。


「かしこまりました。あ、ヴァレンティン様」


「うん?」


「最後に1つだけ。今のお声、基準音から半音下がっていましたよ。練習不足ですね」


「……カティア、それは嫌味かい?」


「いいえ。音程の報告です。調律師の最後のお仕事ですから」


 ヴァレンティンの口が半開きのまま止まった。言い返す言葉を探して見つからない顔だ。5年間で60回見た顔である。


 私は一礼して、回廊を去った。

 噴水の水音だけが、正確に72拍を刻み続けていた。


   §


 宮廷調律師という仕事は、名前を覚えてもらえない。


 演奏会の前に楽器を整え、演奏会の後に楽器を戻す。

 観客が拍手するのは演奏者に対してであって、調律師に対してではない。花束が届くのは舞台の上の人間で、舞台の下で音叉を握っていた人間ではない。


 ヴァレンティンは5年間、「僕の絶対音感」という言葉で全てを説明してきた。


「素晴らしい音色ですね、ヴァレンティン様!」


「ありがとう。僕の耳は生まれつき敏感でね」


 ——違う。あの音を作ったのは私だ。


 だが調律師が「あれは私の調律です」と言ったところで、誰も信じない。

 音は目に見えない。証拠が残らない。弦の張り具合を0.01ミリ単位で合わせた指先の記憶は、演奏が終わった瞬間に消える。


 私の5年間は、ヴァレンティンの名声の裏側に、音もなく吸い込まれた。


   §


 翌朝、調律室の荷物をまとめていると、扉が叩かれた。


「宮廷調律師カティア・ヴェーバーか」


 低い声。短い。主語がない。

 扉を開けると、黒髪の男が立っていた。軍服に近い黒の上着。背が高い。表情がない。


「——辺境伯ディートリヒ・フォン・ヴェステンだ。調律師が要る」


「申し訳ございません。私は本日付で宮廷調律師を退任いたします」


「知っている。だから来た」


 ——知っている?


「辺境伯領には楽器が32台ある。全て狂っている。調律できる人間がいない」


「32台でしたら、宮廷に新しく着任される調律師にご依頼されるのがよろしいかと」


「聴いた。駄目だ」


「……お耳が肥えていらっしゃるのですね」


「耳は悪い」


 それだけ言った。

 矛盾している。調律の違いが分かるのに、耳が悪いと言う。問い詰めたかったが、この男の沈黙は壁に似ていた。押しても動かない類のものだ。


「条件を伺ってもよろしいですか」


「住居と食事と報酬。全て宮廷以上」


「調律室は」


「ある。窓は東向きだ」


 ——東向きの窓。


 宮廷の調律室は地下だった。窓がなかった。

 5年間、自然光の下で調律をしたことがない。なぜこの人は、東向きの窓を用意しているのだろう。


「……では、お引き受けいたします」


「明日、迎えを出す」


 それだけ言って、辺境伯は踵を返した。足音は正確に4拍子だった。軍人の歩調だ。


   §


 辺境伯領は、想像していたよりはるかに穏やかな土地だった。


 石造りの屋敷。手入れの行き届いた庭園。

 そして——2階の東側に用意された調律室。窓からは朝日が差し込み、木製の床に長い光の帯を引いていた。


 32台の楽器が、私を待っていた。


 チェンバロが2台。クラヴィコードが1台。ヴィオラ・ダ・ガンバが3台。リュートが6台。残りは小型の弦楽器と管楽器。どれも埃をかぶっていたが、楽器自体の質は良い。手入れさえすれば、十分に鳴る。


 最初のチェンバロに触れた。弦を1本弾いた。


 ——狂っている。全音半分ほど低い。100年以上前の古い楽器だ。


 私は外套を脱ぎ、袖をまくり、調律を始めた。


「カティア様、お茶をお持ちしました」


 メイド長のエーデルが、盆に紅茶と焼き菓子を載せて現れた。50代後半の痩せた女性で、腰に小さな手帳を挟んでいる。銀縁の眼鏡の奥の目は冷静だが、口調は穏やかだった。


「ありがとうございます、エーデルさん」


 紅茶を1口含んだ。反射的に音を聴いてしまう。カップと皿が触れる音。磁器の質が良い。響きが澄んでいる。


(……誰にも頼まれていないのに、食器の音まで聴いている。5年もやっていると、もう治らないのかもしれない)


「カティア様、お伺いしてもよろしいですか」


「はい、何でしょう」


「旦那様について、事前にお調べになりましたか」


「いいえ。昨日お会いしたばかりですので」


「さようですか」


 エーデルが腰の手帳を取り出し、頁を繰った。


「記録がございます。旦那様は5年前の秋、宮廷の演奏会にいらした後、32台の楽器を一度に発注されました。同年冬に全台が届きましたが、以来一度もお弾きになっておりません。チェンバロの蓋が開いた回数は、本日のカティア様の調律まで、0回でございます」


「……0回」


「はい。5年間、0回。記録しておりますので、間違いありません」


 5年前。宮廷の演奏会。

 ——5年前は、私が宮廷調律師に就任した年だ。


「偶然ですね」


「さようですか。では記録に『カティア様のご見解:偶然』と追記しておきます」


 エーデルは手帳に何かを書き込み、一礼して退室した。

 偶然を記録する人間がいるだろうか。


   §


 3日間で32台の調律を終えた。


 ディートリヒは1日1度、調律室に現れた。扉の外に立ち、数分間何も言わず、去っていく。


 4日目の朝、私は声をかけた。


「辺境伯様。調律は全て完了いたしました。どの楽器をお弾きになりますか?」


「弾かない」


「……弾かないのですか」


「弾けない」


「では、なぜ32台も」


「お前が要る」


 ——私が要る。楽器ではなく。


「調律師として、でしょうか」


「…………」


 答えなかった。沈黙が6拍続いた。いつもの呼吸2回分より3倍長い。


「辺境伯様。調律師は耳で生きる人間です。沈黙の中の嘘も聴こえます」


「嘘はない」


「でしたら、全部でもない」


「……鋭いな」


「耳だけは鋭いと言われます。それ以外は鈍いそうですが」


 ディートリヒの口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。確信は持てない。この男の表情は微分音のように繊細で、聴き慣れた耳でないと拾えない。


「帰らないでくれ」


 低い声。6文字。

 ディートリヒの声が、初めて基準音より上がった。


「帰るとは申しておりませんが」


「……そうか」


 そのまま廊下を歩いていった。足音がいつもの4拍子より速い。

 耳だけが赤かったことに、私は気づかないふりをした。


   §


 5日目。


 調律する楽器がないので、屋敷の中を歩いた。中庭に古い噴水がある。水音を聴いた。毎分68拍。宮廷の噴水より少し遅い。穏やかだ。


 エーデルが庭に現れた。


「カティア様。旦那様から伝言です。『庭のチェンバロを調律してくれ』と」


「庭にチェンバロがあるのですか?」


「昨晩、運ばせたようです。記録によりますと、午前2時に使用人3名を動員しております」


 午前2時。3名動員。

 ——3日で32台を終えてしまったから、仕事を作ったのだ。午前2時に。


 庭園の奥にあるガゼボに行くと、確かにチェンバロが置いてあった。屋根付きとはいえ屋外だ。湿気で弦が狂う。調律しても翌日には半音ずれる。


 つまり——毎日調律が必要になる。


(……不器用にもほどがある)


 私は音叉を取り出し、ガゼボのチェンバロに向かった。東向きの開口部から朝日が差し込み、鍵盤に光が落ちる。風が庭園の花の匂いを運んでくる。

 宮廷の地下室とは、何もかもが違った。


 調律を始めた。A音を合わせ、5度上のE音を確認し、弦を1本ずつ追い込んでいく。


 指が動き始めると、いつもの旋律がこぼれた。4小節だけの短い子守唄。母が歌っていた曲だ。音叉のA音から始まり、5度上がって、3度下がって、元に戻る。単純な旋律なのに、弦を合わせる指と同じ速さでしか歌えない。調律と鼻歌が一体になっている。切り離そうとしたことはあるが、指が止まった。もう身体の一部だ。


   §


 6日目の朝。ディートリヒが軍議を開いていた。


 私は隣室で弦楽器の弦を張り替えていたのだが、壁越しに声が聴こえてきた。軍議の内容には興味がない。だが——。


「——であるからして、西方国境の」


 副官の声だった。机を拳で叩いた。こつん、こつん、こつん。


 3拍。全て均等。問題ない。


「反論がございます!」


 別の声が机を叩いた。こつ、こつん、こつこつん。


 ——不均等。2拍目と3拍目の間隔が狭い。


 気にするな。関係ない。他人の軍議だ。


「では採決を——」


 こつこつこつこつこつこつ。


 全員が一斉に机を叩いた。拍子がばらばらだ。6人が全員違うテンポで叩いている。不協和音どころではない。拍子の暴動だ。


 ——我慢できなくなった。


 隣室の扉を開けた。


「失礼いたします。叩き方の拍子が狂っておりますので、修正してもよろしいでしょうか」


 6人の軍人が全員こちらを見た。


「……どなたですか」と副官。


「調律師です」


「調律師が、なぜ軍議に」


「拍子が気になりました。机を叩かれるなら、せめて均等に叩いていただけますか。壁越しでも分かるほど狂っています」


 沈黙。6人の軍人が石になった。


 ディートリヒが手で口元を覆った。この男が口元を覆うのを初めて見た。


「——下がっていい」


 声が震えている。


「失礼いたしました。拍子だけはどうしても我慢できない体質でして」


 扉を閉めた。廊下で自分の頬を両手で挟んだ。


(……何をしているんだ私は。軍議に乗り込む調律師がどこにいる)


 数秒後、隣室からディートリヒの声が聞こえた。


「——以上だ。次の議題に移る。机は叩くな」


   §


 9日目の夕方。


 ガゼボで弦を磨いていると、エーデルが来た。手帳を手にしている。


「カティア様。旦那様の宮廷ご訪問の記録について、精査が終わりました」


「訪問記録?」


「はい。過去5年間、旦那様は宮廷の演奏会に53回ご出席されております」


「53回……60回中ですか。随分お好きなのですね」


「ただし」


 エーデルが頁を繰った。


「演奏会の開演記録と、旦那様のお席の着席記録を照合いたしましたところ、53回全て、開演後15分から20分遅れてのご着席でした。毎回、同じ時間だけ遅れて、後半からお聴きになっております。前半のご所在は不明です。記録は以上です」


 エーデルは手帳を閉じ、一礼して去った。


 ——53回。前半の15分から20分。所在不明。


 私は音叉を握ったまま、動けなかった。


 開演15分前から20分。あの時間帯は——最終調律だ。

 演奏会の直前に、私が調律室で全楽器の最終確認をしていた時間。地下の調律室。窓がない。扉を閉めて、1人で弦を合わせる。


 5年間、調律に集中している時、たまに廊下の向こうに気配を感じたことがあった。人の呼吸。微かな衣擦れ。だが振り返ったことはない。調律中に耳を外に向ける余裕はなかった。


 あの気配が、この人だったのか。


 鼻歌。

 私は調律中、無意識に鼻歌を歌う。母が歌っていた子守唄。音叉のA音から始まる、あの4小節。調律と一体になった旋律。


 あの鼻歌を、廊下で聴いていたのか。53回。


 音叉が手の中で震えた。440Hz。A音。

 音叉が震えているのか、私の指が震えているのか、分からなかった。


   §


 その夜、調律室で荷物をまとめ始めた。


 音叉を布に包んだ。手が止まった。


 ——なぜ止まるのだ。


 道具として必要とされるのは、もう十分だ。「僕の耳」と呼ばれた5年間と、「お前が要る」と言われるこの場所に、どれほどの差がある。


 差はないはずだ。ないはずなのに、音叉を包む指が動かない。


 調律室の窓から月明かりが差し込んでいた。東向きの窓。朝になればここに光が落ちる。この光の中で荷物をまとめている自分が、おかしかった。


 ——行こう。この屋敷を出よう。


 指に力を入れ直した。工具を革袋に入れた。替えの弦を木箱にしまった。


 革袋の紐を締めかけた時、扉が叩かれた。


「カティア様。失礼いたします」


 エーデルが立っていた。手帳ではなく、1枚の紙を持っている。


「先ほどの記録に、補足がございます。古い従者の証言を確認いたしました」


「……今は少し」


「1分で終わります。旦那様が32台の楽器を発注された際の、付帯指示書です」


 エーデルが紙を差し出した。


 ディートリヒの筆跡だった。短い。


『楽器は何でもいい。調律室を東向きの部屋に。窓を大きく。光が入るように。彼女の手が見える場所に。』


 ——彼女の手が見える場所に。


 「耳」ではなかった。

 「技術」でもなかった。

 「手」だった。調律する時の、弦に触れる指先が見える場所に。


 革袋の紐を、ゆっくりと解いた。


「エーデルさん」


「はい」


「……この記録は、旦那様に見せましたか」


「旦那様は記録類に関心がおありになりません。見せておりません」


「そうですか」


「荷造りは、お続けになりますか」


「……いいえ。やめます」


「さようですか」


 エーデルは手帳を閉じた。何も書かなかった。


「この件は、記録には残しません。私が覚えておきます」


 一礼して去った。


   §


 翌朝、ガゼボでチェンバロに向かっていると、ディートリヒが来た。


 いつもの柱の陰ではなく、ガゼボの入口に立っていた。


「カティア」


「はい」


「昨夜、荷物をまとめていたか」


「……エーデルさんから聞きましたか」


「壁越しに聴こえた。革袋の音がした」


 壁越しの音。

 この人は確かに耳が悪い。だが、私の出す音だけは聴いている。


「まとめかけましたが、やめました」


「——なぜまとめた」


「道具として必要とされているのだと思いました」


「違う」


「はい。今は分かっています」


 ディートリヒの眉が動いた。


「何が分かった」


「発注書を読みました。『彼女の手が見える場所に』と」


 ディートリヒの耳が赤くなった。今日は耳だけではない。首筋まで赤い。


「……エーデルめ」


「感謝しています。あれがなければ今朝、この庭にはいませんでした」


 ディートリヒはしばらく黙った。いつもの呼吸2回分の沈黙。


「——弾いてくれ」


「私は弾けません。調律師ですから」


「では、歌ってくれ」


 私はチェンバロの前に座り、鼻歌を歌い始めた。4小節の子守唄。音叉のA音から始まる旋律。


 ディートリヒはガゼボの柱にもたれた。目を閉じた。

 5分間、私は歌い、彼は黙って聴いていた。


 5年間の廊下は、こういう時間だったのだろう。


   §


 宮廷から使者が来た。


「カティア・ヴェーバー殿。宮廷楽士ヴァレンティン・フォン・クラウゼ様より、至急のご依頼でございます。来月の王太子殿下御前演奏会に向け、大ホールの楽器70台の調律をお願いしたいと」


 ——70台。王太子御前。


「新しい調律師がいらっしゃるのでは」


「それが……ミューラー殿の調律では、弦楽器の音色が安定いたしませんで……ヴァレンティン様がお困りで……」


 つまり、代わりの調律師では駄目だったのだ。


 当然だろう。調律は「基準音に合わせる」だけの作業ではない。楽器の癖を読み、気温と湿度を計算し、演奏者の好みに合わせて微調整する。5年かけて全ての楽器を把握した私の耳を、新人が引き継げるわけがない。


「お断りいたします」


「し、しかし王太子殿下の——」


「私はもう宮廷調律師ではございません。辺境伯ディートリヒ様にお仕えしております」


「せめてご検討だけでも——」


「調律師は、信頼してくださる方の楽器を調律いたします。知らない曲を弾いているつもりの方の楽器は、調律いたしません」


 使者の顔が固まった。


「……それは、どういう」


「ヴァレンティン様にお伝えください。『知らない曲を弾いてるつもりですか』と。ご自分の耳で弾いてらっしゃるおつもりなら、ご自分の耳で調律なさったらよろしいのです」


 使者が去った。


 廊下の角から、エーデルが手帳を手に立っていた。


「記録いたします。使者到着14時23分。用件、調律依頼。カティア様のご回答、却下。所要時間、3分12秒。なお、旦那様は執務室の扉を開けて廊下にお出になり、使者のご退出を確認された後、お部屋にお戻りになりました」


「……旦那様は何と」


「何も仰いませんでした。ただ、カティア様のいらっしゃる方向を見ておいででした」


 一礼して去った。


   §


 1か月後。


 王太子御前演奏会の夜、ディートリヒの執務室に1通の手紙が届いた。


 宮廷の楽団長からの公式書簡だった。ディートリヒはそれを読み、何も言わず、私に差し出した。


『辺境伯ディートリヒ殿

 先日の御前演奏会について報告申し上げます。ヴァレンティン・フォン・クラウゼの演奏会は、第1楽章にて弦楽器6台の音程不良が発生し、王太子殿下より演奏中止の命が下されました。ヴァレンティンは「調律師の腕が悪い」と弁明いたしましたが、楽団長の私より「以前の調律師カティア・ヴェーバー殿を解雇したのはあなた自身である」と事実を報告いたしました。王太子殿下は「ではこれまでの演奏はカティア殿の調律によるものであったのか」と仰せになり、ヴァレンティンは回答できませんでした。

 なお、本書簡の写しをカティア・ヴェーバー殿にもお見せくださいますようお願い申し上げます。あの方の5年間の仕事は、もっと早く正しく評価されるべきでした。

                宮廷楽団長 ハインリヒ・ベッカー』


 手紙を読み終えた。


 ヴァレンティンの「絶対音感」の正体が、宮廷中に知れ渡ったのだ。


 私は何もしていない。調律を断っただけだ。

 音が真実を語った。調律された音と、調律されていない音の差が、5年間の嘘を暴いた。


 手紙をディートリヒに返した。


「お返しします」


「お前が持っておけ」


「私には不要です。音が証明してくれましたから」


 ディートリヒが手紙を机の引き出しにしまった。


   §


 その夜、ガゼボで楽器を磨いていると、ディートリヒが来た。


 ガゼボの中に入ってきた。柱の陰ではなく、チェンバロの前に座った。


「カティア」


「はい」


「聴いてくれ」


 ——弾いた。


 ぎこちない。指が硬い。テンポが不安定。左手と右手がずれている。

 だが、曲は知っている。


 あの子守唄だ。A音から始まり、5度上がって、3度下がって、元に戻る。私が調律中にこぼす、4小節の旋律。


「——この曲、どこで」


「お前が歌っていた。楽譜は読めない。耳で覚えた」


 53回聴いて、指で追って、1人で練習した。32台の楽器を一度も弾かなかったのに、この曲だけを。


「ディートリヒ様。半音高いです」


「……直せるか」


「お任せください。調律師ですから」


 私はディートリヒの隣に座った。彼の右手に私の手を添えて、鍵盤の位置を1つずらした。


「ここが変ロです」


「——近い」


「調律には、この距離が必要です」


「……いつもか」


「いつもです」


 ディートリヒの耳が赤かった。指が震えていた。鍵盤を正しい位置で押さえ直す。音が合った。


「もう一度、最初から弾いてくださいますか。アダージョで」


 ディートリヒが弾き直した。ゆっくりと。今度は音が合っている。4小節の旋律が、夜のガゼボに響いた。


 弾き終えた。

 最後の音が消えた。弦の振動が止まり、沈黙が降りた。

 ガゼボの柱に反響した残音が、遠くでもう一度、小さく鳴った。


「……カティア」


「はい」


「俺は——」


 いつもの沈黙より、ずっと長かった。呼吸が4回分、消えた。この人は感情が大きくなるほど言葉が短くなる。


「——お前の音が、要る」


 5文字。


 この5文字が鳴った瞬間、5年分の音が一度に聴こえた。

 廊下の足音。窓枠を削る大工の音。午前2時に床を引きずるチェンバロの音。——全部、この人の音だった。


 ——ああ、これは。

 調律師の耳では、聴き取れなかった音だ。


「……ディートリヒ様」


「何だ」


「あなたの音程は、合っています」


 声が震えた。自分の声がこんなに震えるのを、初めて聴いた。

 夜風がガゼボを抜けた。チェンバロの弦が微かに鳴った。調律したばかりの弦が、風に触れて、自分から鳴った。


 音叉を、もう握らなくてよかった。

 基準音は、隣にいた。


   §


 翌朝。


 ガゼボのチェンバロは半音ずれていた。屋外だから当然だ。

 私は音叉を取り出し、調律を始めた。鼻歌を歌いながら。


 柱の陰に、ディートリヒが立っていた。いつもと少しだけ位置が違う。ガゼボの開口部が作る反響が、ちょうどこちらに返ってくる場所。


 この人は、私の鼻歌が壁に当たって跳ね返る音を聴いているのだ。5年間、地下の廊下で、ずっとそうしていたのだろう。


 私は昨日より少しだけ声を大きくして、歌った。


 庭の噴水が聴こえていた。拍数は、もう数えていなかった。


 明日も調律する。明後日も。その先も。

 この音が届く限り、ずっと。


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