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婚約者から蔑ろにされていると思ってたけど……これは、なにか、違う。

作者: 猫の玉三郎
掲載日:2026/01/24

あらすじ未読の方へ念のため。

コメディ要素ゼロのサイコパスヒーロー執着ちょい怖監禁エンドです。ご注意ください。

 最近まことしやかにささやかれる噂に、ロゼアは堪忍袋の緒が切れかけていた。いわく、婚約者であるレオニスは、最近社交界に現れたひとりの少女と大変仲睦まじいのだとか。


(今日こそは絶対に現場を押さえてやるんだから……)


 ドレスの裾を持ち上げ、ヒールをこつりと鳴らしながらロゼアは休憩室へ続く廊下を歩く。


 レオニス・ローレンシアは優しげでキレイな顔立ちの男だ。垂れ気味の目尻には小さなほくろがひとつ。スタイルも良ければ立ち振る舞いも柔和で、年齢問わず多くの女性たちのハートを掴んでいた。


 だというのに、昔からロゼアにべたべたくっつき、好きだなんだと甘ったるい言葉を浴びせる変な男だった。


 ロゼアだって最初は騙されていると思った。

 だって好かれる理由がない。

 見た目はそこそこ。どちらかと言えば美人の類いではあるが、世の男たちを虜にするような美貌は持ち合わせていない。愛嬌はあんまりないし、何かに秀でているわけでもない。他人から言われずともロゼア自信がよく理解している。


『ロゼアが一緒にいてくれたら、僕はそれだけで幸せだよ』


 頭の中のレオニスが優しげな顔でにこりと笑いかけてくる。それをロゼアはぶんぶんと首を振って追い出した。


 はじめはレオニスからの好意を信じられなかった。けど、来る日も来る日も口説かれればロゼアだって気持ちが揺らぐ。たくさんくれた花束や手紙やプレゼントは、本当に気持ちがこもってるんじゃないかと思えた。両親は彼を早々に気に入り、他に申し込みがないのもあってレオニスとの婚約はあっという間に整った。どのみち一緒に暮らすようになるからと今は侯爵家のタウンハウスに居を移している。


 でも。

 いつからだろう。

 レオニスはロゼアを誘わなくなった。外は危ないからと言って、屋敷に置いてけぼりにされることが増えた。


 そして入れ替わるかのようにレオニスのそばに現れたのがエミリアだ。彼女はとある貴族の秘されたご令嬢で、かつては市井で暮らしていたが今は男爵家に身を寄せているそう。そのとある貴族というのがかなりの大物らしく、男爵家へ莫大な援助をしているのだとか。


 可憐な容姿のエミリアはレオニスにとてもお似合い、らしい。明るい栗色の髪に翡翠のような瞳を持つ愛くるしい少女。その姿をロゼアは直接見たことがない。しかし仲睦まじいふたりを見かけたという話をそこかしこから聞いた。どういうことかとレオニスに問い詰めても「ロゼアが気にすることはないよ」といつもの甘い声音で言うだけ。後ろめたい気持ちはあるのか、屋敷の中はご機嫌伺いのプレゼントであふれている。


 レオニスはロゼアを決して外へは連れていかない。


 だんだんレオニスと顔を合わせる機会も減っていき、代わりに聞こえてくる外での様子。夜会でふたり寄りそっていただの、何度もダンスをしていただの、友人たちがわざわざ手紙で教えてくれた。レオニスにそれを言うと、なぜかロゼア宛の手紙はすべて検閲されるようになった。封を開けられ他人が内容を確認した手紙は、ロゼアの背筋をうっすらと冷やす。そうするうちに手紙の内容がかみ合わなくなり、だんだんと手元に届く手紙の数が減っていった。


 友人とのお茶会にも参加させてもらえないようになり、ならば使用人たちに話し相手になってもらおうとしても彼女たちは怯えた様子で「ご容赦ください」と目の前から去っていく。


 あれがほしい。これがやりたい。そんな要望にも彼女たちはビクビクし、「レオニス様に確認します」と言って最低限で話を終わらせようとする。


 嫌われているんだろうか。

 ロゼアはそう思わずにはいられない。

 屋敷ではなんとも言えない居心地の悪さを感じるようになっていった。




 レオニスはのらりくらりと言葉を交わす。


『外は危ないからね』


 ロゼアを連れて歩くのが恥ずかしいのだろうか。


『最近、死体が蘇るって話があるんだよ、怖いね。ロゼアは魅力的だからそいつらから狙われちゃうかも。僕のためにも屋敷の中にいてほしい』


 そんな子供だましみたいな話をして、けむに巻いて。




 だから、どうしても自分の目で確かめたかった。

 エミリアとかいう少女の方がいいのならその子と一緒にいればいい。レオニスから求められての婚約だと思っていたけれど、当の本人がロゼアを蔑ろにするんだったら茶番に付き合う義理はない。別にロゼアが望んだ婚約じゃないのだから。


 密かに連絡をとっていた幼なじみに協力してもらって屋敷を抜け出すと、そのまま彼のパートナーとして会場へ入る。主催への挨拶もそこそこに、ロゼアは会場を探し回った。しかしレオニスの姿はない。目立つ人なのに。


「レオニス様なら具合が悪いというエミリア嬢を介抱しに休憩室へ行かれたようだけど」


 誰とも知らない人のひと言がロゼアの心にどすんと重しを落とす。


 やっぱり、そうだったんだ。

 あまり男女の仲について色々言えるほどロゼアに知識はないけれど、レオニスとエミリアの関係はふつうじゃないと確信する。介抱するなら同性の友人や家族でいいだろうに、どうしてわざわざレオニスが付き合うのか。特別な関係と言われて当然だ。


 その上で本人に聞きたい。

 なぜそんなことをするのか。エミリアとどういう関係なのか。ロゼアへの耳障りのいい言葉は本当なのか、ウソなのか。


 悔しさと虚しさに包まれるロゼアに、幼なじみのニールが耳元でささやく。


「顔色が悪いよ。帰りの馬車を用意させようか」

「……あの人に文句を言ってから」


 まだなにか言っているニールを置いて、ロゼアは会場を飛び出て休憩室へ向かった。もし不貞の現場をこの目で確認できたのなら、すぐにでも婚約破棄を突き付けてやると息巻いて。


 こつこつ、こつこつ。ヒールの音が廊下に響く。




 静まり返った廊下にひとつ、少しだけ開いた扉があった。

 人の気配がしたのでロゼアは息をひそめて中を覗く。とたんにむわりと鼻につく生臭さ。


(……なに、この匂い)


 嗅ぎ慣れない濃い臭気に、気分が悪くなる。

 それでも部屋から視線を逸らさずにいると、部屋の中に男がひとり立っているのが見えた。そして男の足元に転がっている白い腕は、華奢な女性のもので。


「あっ――」


 思わず声が出てしまう。倒れている女性の周りには赤黒い液体。脳が視界からの情報を拒否して、動悸が激しくなっていった。


 部屋の中心にいる男性はレオニスだった。

 その後ろ姿をロゼアが見間違えるはずがない。絶対にレオニスだ。けれど脳が理解を強く拒む。レオニスの両腕が血塗れになっている理由も、床に女の人が倒れている理由も、わかりたくない。わかるわけがない。


 レオニスがゆっくりと振り返った。当然のようにロゼアを見とめると目を細めてにこりと微笑む。


「ダメじゃないかロゼア。どうやって屋敷を抜け出したの」


 優しい声。けれど、有無をいわせない迫力があった。

 静かな恐怖と混乱がロゼアを襲い、鼓動が早まる。息がうまく吸えない。目の前にいる男は本当に婚約者のレオニス・ローレンなのか。そっくりの化け物だと言われた方がまだ納得できそうだ。


 レオニスがゆっくりと近づいてくる。


「や、やめて、こないで」


 ロゼアの怯える表情に彼は小さく首をかしげた。


「……ああ、ごめんね。汚いのがついたままだった」


 そう言って困ったように笑う。

 ちがう、そうじゃないとロゼアは内心叫ぶが伝わらない。どうしてそんな涼しい顔ができるのか。だってそこにあるのは、女の人の、死体だ。栗色の髪が床に広がっていて、勘違いでなければ、それはエミリアで。


 ロゼアは反射的にその場から逃げ出した。

 絡まりそうになる足をなんとか動かして休憩室から離れる。普段からの運動不足がたたってすぐに息が切れるし、なにより重いドレスと靴は動きづらい。そして咄嗟のことで方向を間違ったのか、会場に戻るつもりが明かりの少ない庭園へ出てしまった。


 こつ、こつ。

 背後から足音が聞こえてくる。追ってきた。

 ロゼアは辺りを見回し、すがるような思いで低木に身を隠した。本当は息が乱れていて苦しいけれど、息を殺して必死に祈る。どうか見つかりませんようにと。


「ロゼア、どうして僕から逃げるの?」


 レオニスの声に心臓が口から飛びでそうになる。


「もしかしてエミリア嬢とのことが心配でここまで来たの? それだったら本当になんにもないからさ。彼女はあの通りだし、もう大丈夫だよ」


 声はまだ少し遠い。レオニスとはまだ距離がある。いちかばちか、今飛び出せば捕まらずにすむかもしれない。でもその先はどうする。会場まで行けたとして、どこへ逃げられるというのか。両親のいる生家は田舎の領地にあり、住まいも移してしまったロゼアには他に帰る場所がない。


 いったい、どこへ行けばいい。

 彼から逃げられるのか。

 本当に逃げたいと思っているのか。


「こっちだ」


 急に腕を掴まれ引っ張られた。

 驚いて顔を上げると相手はニールだった。このパーティーへ連れて来てくれた幼なじみ。ここから離れられることに安堵する反面、不安もこみ上げる。強い力で引かれるがまま走り出すが、やはり気になってレオニスの方へ目をやった。


 彼は逃げるロゼアたちの姿をとても冷たい表情で見ていた。いつもの穏やかで優し気な雰囲気など全くなく、底冷えするような恐怖がロゼアを襲う。


 そして次の瞬間、信じられないような光景が目に入った。血まみれの女性が、レオニスの背後に立っていたのだ。栗色の髪に翡翠のような瞳。次の瞬間にはその細い腕をレオニスの体に巻き付けていた。目を疑ったけれど、走り出したニールに引っ張られて再び見ることは叶わなかった。


「待ってニール!」

「いいから走って」


 会場を走り抜けるロゼアたちを何事かと見ている人々。事前に用意していたのか、ニールはちょうど待機していた馬車へロゼアを押し込むと自らも横に乗り込んだ。


「このまま俺の屋敷に行こう。あれじゃ侯爵家に戻れないだろ」

「……どう、しよう」


 ロゼアの返事を待たず動きだした馬車。正直どうすればいいのかわからない。レオニスと離れたくはあったけれど、ニールと一緒にいるのは違う気がする。妙な誤解をされたくない。そこまで考えてふと我に返った。


(……私はレオニスに誤解されたくないのかしら)


 そもそも蔑ろにされて悔しいのも、一緒にいられなくて寂しいのも、レオニスのことが好きだからそう思うのか。いいや違うとロゼアは首を振る。だってそれじゃあまりに憐れすぎる。簡単に絆された挙句、その相手が平気で人に手をかける男だったなんて信じたくない。


「しかし、エミリア嬢も悪魔憑きだったか」

「え?」


 ニールのつぶやきに引き戻された。

 そうだ、エミリアだ。彼女は死んでいたと思っていたのに、なにかがおかしい。生き返っていたようにも見えたし、そもそもどうしてレオニスは彼女に手をかけたのか。あの状況はいったい。それニールが言った悪魔憑きという言葉。


「それってなに? さっき、エミリアさんがレオニスの後ろにいた気がするけど、その事と関係があるの?」

「あれ。レオニスから聞いていなかったの」

「なにも知らない」


 ニールは肩をすくめて見せた。


「死体が蘇るんだよ。魂の抜けた空っぽの体の中に悪魔が入って、まるで生きてるように振る舞うんだ」

「それってただの子ども騙しのウワサなんじゃ……」

「本当なんだから仕方ない」


 みんな大っぴらには言わないけれど、とニールはまた肩をすくめる。


「おそらくだけど、エミリア嬢が社交界入りするときはすでに悪魔だったんじゃないかな。だって彼女突然現れたし、不自然な事が多い」


 わからない。理解できない。


「……悪魔はなんのためにそんなことをするの」

「さあね。案外なにかやりたいのは悪魔じゃなくて人間かもしれないよ。だって悪魔にそんな大それた目的なんてないし。でも条件付きで人間に協力する悪魔はいるかもしれない」


 そこまで言うと突然、ニールが顔を寄せてきた。

 目の前でにこりと笑って見せるがあまりの近さにのけぞってしまう。狭い馬車の中は逃げ場がほとんどなく、戸惑っているうちに腰を引き寄せられた。まるで恋人同士のような密着具合。とっさに抵抗するも、力の差なのかニールはぴくりとも動かない。


「ねえやめてよ、離して」

「……はあ、本当にいい匂いだ」

「ニール?」


 ロゼアの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んでいる。はっきり言って気持ち悪い。いくら幼なじみとはいえこれはあんまりだ。


「やめてってば、離してよ!」

「知ってるかロゼア。人間の中には稀に、とってもいい匂いがする個体がいるんだ。一度知れば求めずにはいられない。『惑いの乙女』って言うらしい」


 それが今なんの関係があるというのか。


「ああ、かわいそうになあニール。生きていた頃にこうしたかっただろうに」


 ちろりと肌を舐められる感触。全身が総毛立った。嫌悪感で頭がぐらぐら揺れるがしかし、ニールの言動のおかしさを無視できない。自分のことをさも他人事みたいに言うのはナゼ。そもそも、ニールがこんなことするはずない。そっくりな他人が成りすましているのかもしれない。腕の中に捕らわれたままロゼアは恐怖で貼りついた舌をなんとか動かした。


「あ、あなた、誰なの」

「もちろんニールだよ。ただちょっと中身はね。体にもともとあった記憶も使えるから、ロゼアから見てもニールそのものだったと思うけど」


 死体を乗っ取る異形の存在。まさか、それを語って聞かせた本人が悪魔だったというのか。


「俺らからしたらね、ロゼア。おまえの匂いはたまらなくいいんだ」


 大きな手が無遠慮にロゼアの体をまさぐっていく。怖いのと同時に怒りが湧きあがった。レオニスにも許してないのに、どうして悪魔に好き勝手されないといけないのか。


「もう、我慢しなくてもいいよな? 行きの馬車はさあ、健気なニールの記憶に免じて堪えてたけど、もう無理だよ。ロゼアの臓物は瓶に保管してやるしそのきれいな目玉だって特別大事にするよ。髪は味わって一本ずつ食べるし、血だってできるだけこぼさないようにするからさ」

「やだ! 離してよ!」


 ニールの両眼、黒い瞳孔の部分に赤い五芒星が見えた。ふつうの人間ではありえないそれ。まさかこれが悪魔の証かと考えがよぎる。


「指! そうだ、指くれよ! それなら死ぬほどじゃないし。いいだろ、なあいいだろう?」

「いや……ッ!!」


 その時、走行する馬車の扉が勢いよく開いた。いったいどういうことか、状況を理解をするよりも早く、鼓膜を破くような発砲音が周囲に響いた。同時に濃い白煙がせまい馬車内に蔓延する。硝煙の匂いも。


「……く、そ」


 ニールの小さな嘆きが耳をかすめたあと、その体がぐらりと傾く。馬車はしだいにスピードを緩め、茫然としたロゼアの頭がようやく回り始めたころにその歩みを止めた。


「幼なじみってだけで図々しい」


 聞き覚えのある声が不機嫌そうにそうつぶやく。声の主はニールを引きずりおろし、ロゼアをそっと抱き寄せるとそのまま馬車の外へと連れ出した。


「怪我はない? ごめんね、遅くなっちゃった」

「レオニス……」


 助けられた、のかもしれない。

 けれど疑惑や恐怖心がなくなったわけもなく、婚約者の腕のなかでかたかたと小さく震えた。レオニスは近くの大きな樹の根本にロゼアをおろすと頭をぽんぽんと撫でる。


「もう少しだけ大人しくしててね」


 そう言ってくるりと背を向けた。

 次の瞬間、木陰や草むらからゆらりと何かが姿を現した。それは人であったり小さな獣であったり。数は多い。口から意味のない呻き声を漏らしながらレオニスやロゼアに向かって襲い掛かって来た。


「思ったより数が多いな」


 またけたたましい発砲音が聞こえた。そしてもう弾切れらしい銃を放ると、レオニスは懐から大きなナイフを取り出す。ぎらりとした刃が暗がりに鈍く光った。


 あっという間だった。相手は多数であるものの動きは遅く、レオニスは次々とナイフで仕留めていく。まるで心得があるかのように無駄なく的確に。命を刈ることになんの躊躇もないようだ。今までの優しく甘い態度しか知らなかったえゆえに、レオニスこそが悪魔と叫んでしまいそうだった。


 気付けばこの場で立っているのはレオニスだけとなった。月明かりに照らされた血塗れの姿は壮絶だ。彼は息ひとつ乱さず「おまたせ」と言って小さくほほ笑む。


 ロゼアは腰が抜けていて動けそうにない。


「そ、その人たちは……?」

「死体にとりついた低位悪魔だね。知能はだいぶ低いし、まだ相手しやすい。ロゼアの匂いつられて寄って来たみたいだ」


 わからない。

 婚約者のことが、この状況が、本当にわからない。


「悪魔を完全に無力化する方法はまだわからない。やつらバラバラにしたって動くみたいだし、どう手を打ったものか」


 月明りに反射したナイフが目にとまる。


「わ、わたしのことも殺すの……?」

「まさか! 僕はロゼアの味方だしロゼアを害そうするやつらは全員殺すつもりだよ。大丈夫、ロゼアは僕が守るからね。不安に思うことはなにもないよ」


 わからない。怖い。レオニスは守ってくれると言ったけれど、信じていいのだろうか。

 その時、視界の端でなにかが動いた気がした。


 見ると、地べたに転がっているニールの体がひくひく痙攣している。ロゼアは慌てて這い寄ろうとした。頭を撃たれて死んだと思っていたけど、もしかしたらまだ息があるのかも。しかしそれはレオニスにすぐ止められる。


「中身は悪魔だ。近寄ってはだめ」


 悪魔という言葉に我に返る。

 そうだ、馬車の中で襲ってきたのは紛れもなくこの男だった。それを助けてくれたのはレオニスで。


「高位悪魔が他にいるとは思わなかった。油断した」

「ニール……」


 ロゼアの心はぐらぐらと揺れている。誰を、何を信じていいのか分からない。ただ悪魔は本当にいて、死体を乗っ取るということ。本人のふりをして周囲に溶け込んでいるということは、事実のように思えた。


「ほ、本当のニールは、もう死んでいたの?」

「うん」

「……そんな」


 心痛の表情を隠せていなかったのかもしれない。いつもの柔和な態度はどこへ行ったのか、レオニスは眉間にしわを寄せて険しい表情をする。


「やっぱり幼なじみの分際で図々しい」


 おもしろくなさそうに吐き捨てた。

 これ以上ニールについて言及するのはよくない気がして、ロゼアは他に話題を探す。そして先ほどから頭に引っかかっていることを口にしてみた。


「ねえ。私が、なんとかの乙女だって」

「……惑いの乙女だね。怖がらせるかと思って言えなかったけれど、今は後悔してる。ちゃんと伝えておけばよかった」

「本当に私がそれなの? なにかの間違いじゃ――」

「残念ながら本当だよ」


 レオニスがいまだ動けないロゼアを抱き上げた。

 彼に恐怖心はまだ拭えていないけれど、ここにずっといる方が怖いので黙ってされるがままになる。


「誰が悪魔に乗っ取られているかわからない状況でロゼアを外に出したくなかった。ごめんね」


 噂の令嬢、エミリアの中身は悪魔。その目的を調べるため、さらには被害を最小限にするため上層部からの命令によりレオニスが一身で引き受けていたらしい。しかし今夜はあまりにも彼女の態度がひどく、つい殺してしまったという。人外とは言え「つい」で手をかけるその精神面はどうなんだと思うが、今は置いておく。


 ロゼアは庭で血まみれで立っていたエミリアの姿を見た。エミリアは倒しても死なない悪魔で、つまり、レオニスの言っていることは本当なのだ。だからロゼアを守りたいと言った言葉もきっと本当で――


「レオニス、ごめんなさい。わたし、あなたを疑ってて、それで」


「ううん。僕の配慮が足りなかった。心配しないで、ロゼアが不安になることなんてひとつもないよ。僕はきみがいちばん大事なんだ。だからと言っていつまでも屋敷の中に閉じ込めておくのはよくなかった。窮屈な思いをさせた上にそこを狙われたら本末転倒だ。僕が迂闊なばかりに怖い思いをさせて本当にごめんね。……他の男に付け入る隙を与えるなんて本当に最悪だ」


 最後の方はひとり言に近く、ロゼアにはあまりよく聞こえなかった。

 レオニスのことは信じる。

 エミリアとは噂で言われているような仲ではなかった。屋敷で感じる疎外感も手紙の検閲も、なにか理由があってのことかもしれない。


 そう考えた上で、これまで通り婚約者として一緒にいることができるか。正直今のロゼアには迷いがあった。何かしら理由があったとしても当時感じていた不安は本物だ。


「……ねえレオニス、あなたとの婚約を考えなおしたい。こんな状態だし。少なくともわたしは両親のところに帰った方が」

「ロゼアは僕が守るから。だからずっと一緒にいて」


 レオニスの片目に一瞬、白い五芒星が浮かんだ気がした。見間違いだったかもしれない。それよりもレオニスの顔色がみるみる悪くなっていく方が気になった。ロゼアを抱きしめる力は強くなるけれど、その両手は震えているようだった。


「離れるなんて言わないで」


 いつもの穏やかで完璧なレオニスではない。弱々しく動揺した姿を隠そうともしない。


「そばにいて、それだけでいいから」


 悲痛な懇願に何も言えなくなってしまった。

 そもそも悪魔とはどんな存在なのか。なぜレオニスが悪魔の対応をやっていたのか。聞きたいことはたくさんある。けれど、今は彼の不安定さに目が離せない。ロゼアが否と言えばこの場で死んでしまうんじゃないか。そんな気さえする。


「おねがい僕と一緒にいて」


 今にも泣きそうな顔で訴えられて、ロゼアは嫌と言えなかった。小さな頃の、互いを守るように身を寄せあって泣いたあの時の記憶が薄れない限り、ロゼアはレオニスを振り払えない。


「……うん。わかった」

「ありがとう!」


 苦しくなるくらいぎゅうっと抱きしめられ、彼の胸で頬がつぶれる。大好きだよ、とか。絶対守るからね、とか。そんな言葉を耳元でずっと吐き続ける婚約者。まるで遅効性の毒を含ませた蜜のよう。どろどろに甘い声音が脳を浸食していく。


 レオニスが今、どんな表情をしているのか。

 ロゼアにはわからない。





 ある日突然、動く死体が街にあふれて人々を襲った。


 あちこちで暴動が起き、たくさんの建物から火が上がる。国王をはじめ高位貴族らがことの収集にあたるが、どうも内部に裏切り者がいる模様。誰が味方で誰が敵か、疑心暗鬼が心を蝕む。


 恐れ逃げ惑う人間。

 それを見て笑う悪魔。

 そんな悪魔を屠っていくなにか。

 ――そのなにかを、人は「天使」と呼んだ。

 瞳に浮かぶ白い五芒星を、救いの印だと信じたかったのかもしれない。


「悪魔が地に満ちる時、主はひとりの人の子を選び、その手によって穢れを払うだろう」


 これは聖書の一説だ。




 けれどもロゼアは柔らかな檻の中。

 何も知らずに今日もレオニスの帰りを待つ。

 薬を飲まされぼんやりした頭で、細く長い鎖で繋がれた体で、ただただ彼の訪れを待つ。


 何かがおかしい。


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