表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
覚醒と変身

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/22

第9話 紫煙の診療所

 新宿・歌舞伎町の最深部。

 ラブホテルと風俗店がひしめく路地裏は、昼間だというのに薄暗く、腐った生ゴミと安っぽい香水の匂いが漂っていた。


 井上健太郎は、コートの襟を立て、サングラスで顔を隠して歩いていた。

 右顔面の感覚がない。

 今朝起きた時には、顔の右半分が完全に麻痺していた。術後の後遺症か、拒絶反応か。

 数日後に迫ったパーティー。このままでは出席はおろか、人前に出ることさえできない。

 毒島に紹介された「裏の医者」の元へ急ぐ足取りは重かった。


「……ミャア」


 不意に、ゴミ集積所の陰から弱々しい声が聞こえた。

 井上は足を止めた。

 無視して通り過ぎようとしたが、その声は雨に濡れたアスファルトに染み入るように、あまりにも寂しげだった。


 段ボール箱の中を覗き込むと、そこには泥にまみれた小さな毛玉がいた。

 折れ曲がった耳。丸い顔。

 スコティッシュフォールドだ。それも、血統書付きと思われる美しいシルバータビーの毛並み。

 だが今は、ガリガリに痩せ細り、片目が目ヤニで塞がっている。

 

(……お前も、捨てられたのか)


 ペットショップで売れ残ったのか、飼い主に飽きられたのか。


 「価値がない」と判断され、ゴミのように廃棄された命。


 それは、かつて西園寺家で「不要品」として扱われた自分自身と重なった。


「……ついてこい」


 井上は衝動的に、その小さな体を拾い上げた。

 コートの懐に入れると、驚くほど軽く、そして微かに温かかった。


 雑居ビルの4階。


 『診察中』と手書きされたボロボロの札が下がるドアをノックする。


「……鍵、開いてるわよ」


 中から聞こえたのは、やる気のない、けだるげな女の声だった。

 ドアを開けると、そこは濃密な紫煙の世界だった。


 6畳ほどの狭い部屋。壁一面に怪しげな薬品の瓶や人体模型が並んでいる。

 中央の診察台には書類や漫画雑誌が散乱し、その奥の回転椅子に、一人の女が沈み込んでいた。


 山崎桃子。29歳。

 無造作に束ねたブロンドの髪。ヨレヨレのタンクトップの上に、薄汚れた白衣を羽織っている。

 その唇には煙草がくわえられ、アンニュイな瞳が煙の向こうから井上を見上げていた。


「……アンタが、毒島の言ってた『顔のいい金蔓』?」


 桃子は煙を天井に吐き出すと、面倒くさそうに立ち上がった。

 足元は踵を踏み潰したスニーカーだ。


「……井上だ」

「知ってる。……で、症状は?」


 井上は無言でサングラスを外した。

 桃子の目が、僅かに見開かれた。

 彼女は煙草を灰皿に押し付けると、井上の顔に近づき、冷たい指先で頬に触れた。


「……綺麗」


 それは、患者を心配する医者の声ではなかった。

 美しい美術品、あるいは精巧な死体を見つけた愛好家のような、湿り気を帯びた声だった。


「凄いバランスね。骨格から弄ってる。……これ、執刀医はシュタイン? あの偏屈ジジイの最高傑作じゃない」

「……分かるのか?」

「分かるわよ。あいつの作る顔には『死の匂い』がするから。……で、神経がいかれて麻痺が出たってわけね」


 桃子は手際よく井上の顎を掴み、左右に動かした。


「右顔面神経の圧迫ね。術後の浮腫みが神経に触れてる。……放っておけば一生動かなくなるわよ」

「治せるか?」

「治せるけど……痛いわよ?」


 桃子はニヤリと笑うと、棚から注射器と怪しげな色の薬液を取り出した。

 消毒もせず、いきなり頬に針を突き立てる。

 ズブリ、という鈍い感触と共に、焼けるような熱さが注入される。


「ぐっ……!」


 井上は呻き声を上げたが、桃子は顔色一つ変えずに薬液を押し切った。

 針が抜かれる。数秒後、顔の中で暴れていた痛みが嘘のように引いていった。


「……動かしてみなさい」


 言われるままに口角を上げてみる。動く。引き攣りもなく、スムーズに。


「……助かった」

「お礼は毒島に請求しとくわ。……それより」


 桃子は再び煙草に火をつけると、興味深そうに井上の懐を見た。

 コートの隙間から、灰色の小さな耳が覗いている。


「そのバッグの中身、何?」

「……来る途中で拾った」


 井上が仔猫を取り出すと、桃子は「ふーん」と鼻を鳴らし、乱暴に猫の首根っこを掴んで持ち上げた。


「スコティッシュフォールドね。遺伝子疾患が出やすい品種よ。……こいつもアンタと同じ、人間のエゴで作られた『作り物』ってわけか」

「……生きてるか?」

「ギリギリね。栄養失調と結膜炎。……ついでだわ、診てあげる」


 桃子はテキパキと仔猫に点滴を打ち、目薬をさした。

 口は悪いが、その手つきは驚くほど優しく、的確だった。


「……よし。これで死にはしないわ。……ねえ、アンタ」


 桃子は唐突に白衣を脱ぎ捨てた。

 下のタンクトップ姿があらわになり、白く華奢な鎖骨が覗く。


「今から暇?」

「は?」

「治療は終わったけど、経過観察が必要なのよ。アンタの顔と、その猫の様子を見るため。……だから、私とデートしなさい」


 こうして、井上健太郎と山崎桃子の奇妙なデートが始まった。

 場所は、西麻布の隠れ家的なフレンチレストラン。

 井上の完璧なスーツ姿と、桃子のちぐはぐな格好のカップルは、店内で異様な存在感を放っていた。足元には、キャリーバッグに入った仔猫が眠っている。


「……おい、もっとマシな服はなかったのか」

「私のワードローブにドレスなんてないわよ。文句あるなら帰るけど?」


 桃子は悪びれもせず、高級な赤ワインをグラス並々と注ぎ、水のように煽った。


「……で、経過観察というのは、これのことか?」

「そうよ。咀嚼。物を噛む動作は、顔の筋肉を一番使うの。……ほら、肉食べてみて」


 桃子は自分の皿の肉を切り分け、フォークで井上の口元に差し出した。

 井上は渋々口を開き、肉を噛んだ。違和感はない。


「うん、いい動きね。……でも、笑い方がダメ」

「笑い方?」

「作り笑いが下手すぎるのよ。鏡の前で練習したんでしょ? 筋肉が強張って『私は演技してます』って書いてあるわ」


 桃子はテーブル越しに身を乗り出し、井上の頬に手を添えた。

 その距離、わずか数センチ。タバコと薬品の匂いが、井上の鼻腔をくすぐる。


「もっと力を抜きなさい。……アンタの顔は、もうアンタのものなの。灰谷守の仮面じゃない」

「……なぜ、俺の前の名前を?」

「毒島から聞いたわ。復讐のために顔を変えた狂人だってね」


 桃子は楽しそうに目を細めた。


「私、好きなのよ。歪んだ人間が。……アンタのその顔、最高に歪んでてゾクゾクするわ」


 彼女は指先で、井上の目尻から顎のラインをなぞった。


「ねえ、契約しない? 専属医契約よ。アンタのその顔、私が管理してあげる。……メンテナンスが必要なんでしょ? 痛み止めも、睡眠薬も、あるいは敵を殺すための毒も、私が全部用意してあげる」


 井上はグラスを置いた。

 目の前の女は、危険だ。倫理観が欠如している。

 だが、今の自分に必要なのは、正義の医者ではない。地獄まで付き合ってくれる共犯者だ。


「報酬は?」

「金はいらない。……その代わり、アンタの身体が壊れる最期の瞬間まで、私に見せなさい。アンタが復讐でボロボロになっていく様を、特等席で見たいの」


 変態的な要求だ。

 だが、井上はその狂気に、どこか親近感を覚えた。


「……いいだろう」


 井上は桃子の手を取り、その指先に口付けた。

 演技ではない。自然に出た動作だった。

 桃子が驚いたように目を瞬かせ、それから、今までで一番深い笑みを浮かべた。


「交渉成立ね、私の美しい患者さん」


 デートを終え、井上がアマン東京のスイートルームに戻ったのは深夜だった。

 広大なリビングの静寂に、小さな呼吸音が混じる。


 井上はキャリーバッグを開けた。

 中から、灰色の仔猫が恐る恐る顔を出した。

 桃子の治療のおかげか、目ヤニも取れ、ぱっちりとした瞳が部屋の明かりに輝いている。


「……ようこそ、俺の城へ」


 井上は仔猫を抱き上げ、ソファに下ろした。

 仔猫は最初こそ警戒して身を縮めていたが、ふかふかのクッションの感触に驚いたように目を見開き、前足でふみふみと感触を確かめ始めた。

 そして、コロンと転がると、無防備にお腹を見せてくねくねと背中を擦り付けた。


「ミャウ! ミャッ!」


 まるで「ここ気に入った!」と言わんばかりの喜びようだ。

 井上は微笑み、冷蔵庫から温めたミルクを用意した。

 小皿に注ぐと、仔猫は夢中で舐め始めた。ピンク色の小さな舌が忙しなく動く。


 飲み終わると、仔猫は満足げに顔を洗い、井上の膝の上によじ登ってきた。

 そして、そこで丸くなると、すぐに寝息を立て始めた。

 ゴロゴロゴロ……。

 小さな喉から伝わる振動が、井上の冷え切った心にじんわりと染み込んでいく。


「……温かいな」


 井上はそっと、その柔らかな背中を撫でた。

 折れた耳。灰色の毛並み。

 人間によって作られ、捨てられ、そして拾われた命。


「名前は……『ハイ』だ」


 井上は呟いた。

 灰谷のハイ。

 燃え尽きた灰のハイ。

 そして、Highへ登るためのハイ。


「俺とお前は同類だ。……これからは、俺が守ってやる」


 ハイは夢の中で「むにゃ」と口を動かし、井上の指をぎゅっと抱きしめた。

 復讐の鬼と化した井上にとって、この小さな温もりだけが、人間としての心を繋ぎ止める唯一の錨になるのかもしれなかった。


 窓の外には東京の夜景。

 井上は膝の上のハイを守るように手を添えながら、決意を新たにした。

 明後日のパーティー。

 必ず、生き残ってみせる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ