第9話 紫煙の診療所
新宿・歌舞伎町の最深部。
ラブホテルと風俗店がひしめく路地裏は、昼間だというのに薄暗く、腐った生ゴミと安っぽい香水の匂いが漂っていた。
井上健太郎は、コートの襟を立て、サングラスで顔を隠して歩いていた。
右顔面の感覚がない。
今朝起きた時には、顔の右半分が完全に麻痺していた。術後の後遺症か、拒絶反応か。
数日後に迫ったパーティー。このままでは出席はおろか、人前に出ることさえできない。
毒島に紹介された「裏の医者」の元へ急ぐ足取りは重かった。
「……ミャア」
不意に、ゴミ集積所の陰から弱々しい声が聞こえた。
井上は足を止めた。
無視して通り過ぎようとしたが、その声は雨に濡れたアスファルトに染み入るように、あまりにも寂しげだった。
段ボール箱の中を覗き込むと、そこには泥にまみれた小さな毛玉がいた。
折れ曲がった耳。丸い顔。
スコティッシュフォールドだ。それも、血統書付きと思われる美しいシルバータビーの毛並み。
だが今は、ガリガリに痩せ細り、片目が目ヤニで塞がっている。
(……お前も、捨てられたのか)
ペットショップで売れ残ったのか、飼い主に飽きられたのか。
「価値がない」と判断され、ゴミのように廃棄された命。
それは、かつて西園寺家で「不要品」として扱われた自分自身と重なった。
「……ついてこい」
井上は衝動的に、その小さな体を拾い上げた。
コートの懐に入れると、驚くほど軽く、そして微かに温かかった。
雑居ビルの4階。
『診察中』と手書きされたボロボロの札が下がるドアをノックする。
「……鍵、開いてるわよ」
中から聞こえたのは、やる気のない、けだるげな女の声だった。
ドアを開けると、そこは濃密な紫煙の世界だった。
6畳ほどの狭い部屋。壁一面に怪しげな薬品の瓶や人体模型が並んでいる。
中央の診察台には書類や漫画雑誌が散乱し、その奥の回転椅子に、一人の女が沈み込んでいた。
山崎桃子。29歳。
無造作に束ねたブロンドの髪。ヨレヨレのタンクトップの上に、薄汚れた白衣を羽織っている。
その唇には煙草がくわえられ、アンニュイな瞳が煙の向こうから井上を見上げていた。
「……アンタが、毒島の言ってた『顔のいい金蔓』?」
桃子は煙を天井に吐き出すと、面倒くさそうに立ち上がった。
足元は踵を踏み潰したスニーカーだ。
「……井上だ」
「知ってる。……で、症状は?」
井上は無言でサングラスを外した。
桃子の目が、僅かに見開かれた。
彼女は煙草を灰皿に押し付けると、井上の顔に近づき、冷たい指先で頬に触れた。
「……綺麗」
それは、患者を心配する医者の声ではなかった。
美しい美術品、あるいは精巧な死体を見つけた愛好家のような、湿り気を帯びた声だった。
「凄いバランスね。骨格から弄ってる。……これ、執刀医はシュタイン? あの偏屈ジジイの最高傑作じゃない」
「……分かるのか?」
「分かるわよ。あいつの作る顔には『死の匂い』がするから。……で、神経がいかれて麻痺が出たってわけね」
桃子は手際よく井上の顎を掴み、左右に動かした。
「右顔面神経の圧迫ね。術後の浮腫みが神経に触れてる。……放っておけば一生動かなくなるわよ」
「治せるか?」
「治せるけど……痛いわよ?」
桃子はニヤリと笑うと、棚から注射器と怪しげな色の薬液を取り出した。
消毒もせず、いきなり頬に針を突き立てる。
ズブリ、という鈍い感触と共に、焼けるような熱さが注入される。
「ぐっ……!」
井上は呻き声を上げたが、桃子は顔色一つ変えずに薬液を押し切った。
針が抜かれる。数秒後、顔の中で暴れていた痛みが嘘のように引いていった。
「……動かしてみなさい」
言われるままに口角を上げてみる。動く。引き攣りもなく、スムーズに。
「……助かった」
「お礼は毒島に請求しとくわ。……それより」
桃子は再び煙草に火をつけると、興味深そうに井上の懐を見た。
コートの隙間から、灰色の小さな耳が覗いている。
「そのバッグの中身、何?」
「……来る途中で拾った」
井上が仔猫を取り出すと、桃子は「ふーん」と鼻を鳴らし、乱暴に猫の首根っこを掴んで持ち上げた。
「スコティッシュフォールドね。遺伝子疾患が出やすい品種よ。……こいつもアンタと同じ、人間のエゴで作られた『作り物』ってわけか」
「……生きてるか?」
「ギリギリね。栄養失調と結膜炎。……ついでだわ、診てあげる」
桃子はテキパキと仔猫に点滴を打ち、目薬をさした。
口は悪いが、その手つきは驚くほど優しく、的確だった。
「……よし。これで死にはしないわ。……ねえ、アンタ」
桃子は唐突に白衣を脱ぎ捨てた。
下のタンクトップ姿があらわになり、白く華奢な鎖骨が覗く。
「今から暇?」
「は?」
「治療は終わったけど、経過観察が必要なのよ。アンタの顔と、その猫の様子を見るため。……だから、私とデートしなさい」
こうして、井上健太郎と山崎桃子の奇妙なデートが始まった。
場所は、西麻布の隠れ家的なフレンチレストラン。
井上の完璧なスーツ姿と、桃子のちぐはぐな格好のカップルは、店内で異様な存在感を放っていた。足元には、キャリーバッグに入った仔猫が眠っている。
「……おい、もっとマシな服はなかったのか」
「私のワードローブにドレスなんてないわよ。文句あるなら帰るけど?」
桃子は悪びれもせず、高級な赤ワインをグラス並々と注ぎ、水のように煽った。
「……で、経過観察というのは、これのことか?」
「そうよ。咀嚼。物を噛む動作は、顔の筋肉を一番使うの。……ほら、肉食べてみて」
桃子は自分の皿の肉を切り分け、フォークで井上の口元に差し出した。
井上は渋々口を開き、肉を噛んだ。違和感はない。
「うん、いい動きね。……でも、笑い方がダメ」
「笑い方?」
「作り笑いが下手すぎるのよ。鏡の前で練習したんでしょ? 筋肉が強張って『私は演技してます』って書いてあるわ」
桃子はテーブル越しに身を乗り出し、井上の頬に手を添えた。
その距離、わずか数センチ。タバコと薬品の匂いが、井上の鼻腔をくすぐる。
「もっと力を抜きなさい。……アンタの顔は、もうアンタのものなの。灰谷守の仮面じゃない」
「……なぜ、俺の前の名前を?」
「毒島から聞いたわ。復讐のために顔を変えた狂人だってね」
桃子は楽しそうに目を細めた。
「私、好きなのよ。歪んだ人間が。……アンタのその顔、最高に歪んでてゾクゾクするわ」
彼女は指先で、井上の目尻から顎のラインをなぞった。
「ねえ、契約しない? 専属医契約よ。アンタのその顔、私が管理してあげる。……メンテナンスが必要なんでしょ? 痛み止めも、睡眠薬も、あるいは敵を殺すための毒も、私が全部用意してあげる」
井上はグラスを置いた。
目の前の女は、危険だ。倫理観が欠如している。
だが、今の自分に必要なのは、正義の医者ではない。地獄まで付き合ってくれる共犯者だ。
「報酬は?」
「金はいらない。……その代わり、アンタの身体が壊れる最期の瞬間まで、私に見せなさい。アンタが復讐でボロボロになっていく様を、特等席で見たいの」
変態的な要求だ。
だが、井上はその狂気に、どこか親近感を覚えた。
「……いいだろう」
井上は桃子の手を取り、その指先に口付けた。
演技ではない。自然に出た動作だった。
桃子が驚いたように目を瞬かせ、それから、今までで一番深い笑みを浮かべた。
「交渉成立ね、私の美しい患者さん」
デートを終え、井上がアマン東京のスイートルームに戻ったのは深夜だった。
広大なリビングの静寂に、小さな呼吸音が混じる。
井上はキャリーバッグを開けた。
中から、灰色の仔猫が恐る恐る顔を出した。
桃子の治療のおかげか、目ヤニも取れ、ぱっちりとした瞳が部屋の明かりに輝いている。
「……ようこそ、俺の城へ」
井上は仔猫を抱き上げ、ソファに下ろした。
仔猫は最初こそ警戒して身を縮めていたが、ふかふかのクッションの感触に驚いたように目を見開き、前足でふみふみと感触を確かめ始めた。
そして、コロンと転がると、無防備にお腹を見せてくねくねと背中を擦り付けた。
「ミャウ! ミャッ!」
まるで「ここ気に入った!」と言わんばかりの喜びようだ。
井上は微笑み、冷蔵庫から温めたミルクを用意した。
小皿に注ぐと、仔猫は夢中で舐め始めた。ピンク色の小さな舌が忙しなく動く。
飲み終わると、仔猫は満足げに顔を洗い、井上の膝の上によじ登ってきた。
そして、そこで丸くなると、すぐに寝息を立て始めた。
ゴロゴロゴロ……。
小さな喉から伝わる振動が、井上の冷え切った心にじんわりと染み込んでいく。
「……温かいな」
井上はそっと、その柔らかな背中を撫でた。
折れた耳。灰色の毛並み。
人間によって作られ、捨てられ、そして拾われた命。
「名前は……『ハイ』だ」
井上は呟いた。
灰谷のハイ。
燃え尽きた灰のハイ。
そして、Highへ登るためのハイ。
「俺とお前は同類だ。……これからは、俺が守ってやる」
ハイは夢の中で「むにゃ」と口を動かし、井上の指をぎゅっと抱きしめた。
復讐の鬼と化した井上にとって、この小さな温もりだけが、人間としての心を繋ぎ止める唯一の錨になるのかもしれなかった。
窓の外には東京の夜景。
井上は膝の上のハイを守るように手を添えながら、決意を新たにした。
明後日のパーティー。
必ず、生き残ってみせる。




