第8話 帝王学と演技指導
東京・大手町。
アマン東京のコーナースイートは、静寂に包まれていた。
だが、その静けさは、これから始まる嵐の前の張り詰めた緊張感を孕んでいた。
「……違います、ムッシュ・イノウエ」
部屋の空気を切るように、鋭い声が響いた。
声の主は、白髪の老紳士だ。元英国大使館付きの執事で、現在は富裕層向けにマナーや振る舞いを指南しているフィリップという男だ。
井上健太郎は、手に持っていたワイングラスをテーブルに置いた。
「グラスの持ち方は完璧です。姿勢も、歩き方も申し分ない。……ですが、目が泳いでいます」
フィリップはステッキで床を軽く叩いた。
「あなたはこれから、帝都グループという巨大な王国の住人たちと対峙するのでしょう? ならば、あなた自身が『王』でなければならない。王は、決して他人の顔色を窺いません。他人に『見られる』のではなく、他人を『見る』のです」
井上は鏡の中の自分を見た。
完璧なマスク。仕立ての良いスーツ。
だが、その瞳の奥には、長年の習性である「卑屈さ」が、油汚れのようにこびりついていた。
10年間、妻や義母の顔色を窺い、怒鳴られないように背中を丸めて生きてきた灰谷守の魂が、まだそこにいた。
「……難しいな」
井上は苦笑いをした。口角を上げる角度は計算通りだが、声には自嘲が混じる。
「難しくて当然です。演技とは、自分を騙すことから始まるのですから」
フィリップは厳しい表情を崩さないまま、次の課題を提示した。
「次は会話術です。相手の言葉尻を捕らえ、沈黙で威圧し、視線だけで肯定も否定もする。……言葉数を減らしなさい。沈黙は金、雄弁は銀。特にあなたのそのバリトンボイスは、囁くように喋ることで最大の武器になります」
それからの数日間、井上は地獄のようなスケジュールをこなした。
午前中はフィリップによるマナーと帝王学の講義。
午後は元心理捜査官による、嘘の見抜き方と人心掌握術の訓練。
夜は社交ダンスのステップと、カジノでの振る舞い方。
全ては、一週間後のパーティーで、西園寺麗華を堕とすための「武装」だった。
金だけでは足りない。美貌だけでも足りない。
彼女が崇拝する「圧倒的な上位存在」としてのオーラを纏わなければならない。
異変が起きたのは、帰国して3日目の夜だった。
ダンスのレッスンを終え、シャワーを浴びていた時だ。
「……っ!?」
突如、顔面の奥底から、焼けるような激痛が走った。
それは皮膚の表面ではなく、骨の髄から湧き上がってくるような痛みだった。
井上は濡れた体のまま、洗面台にしがみついた。
「ぐ、うぅ……っ!」
鏡を見る。
顔が、歪んで見えた。
いや、実際に痙攣しているのだ。右の頬骨のあたりが、あり得ない角度で引き攣り、埋め込まれたチタンプレートがきしむ音が、頭蓋骨を通じて脳に直接響く。
拒絶反応だ。
シュタイン博士が警告していたリスク。
『骨格そのものを変える手術は、肉体に凄まじい負荷をかける。体が新しい形を異物として認識し、排除しようとするだろう』
「はあ、はあ……っ、鎮痛剤……!」
井上は震える手でポーチを探り、博士から渡されていた強力な鎮痛剤を取り出した。
水も飲まずに錠剤を噛み砕く。
苦い味が口いっぱいに広がる。
数分後、ようやく痛みの波が引き始めたが、鈍い頭痛と痺れは残ったままだった。
(……これが、代償か)
井上は鏡に映る蒼白な自分の顔を睨みつけた。
美しい顔。だが、その下では骨と肉が悲鳴を上げている。
まるで、無理やり繋ぎ合わされたフランケンシュタインの怪物のようだ。
「……上等だ」
井上はタオルで乱暴に顔を拭った。
楽に復讐ができるなどとは思っていない。
この身が朽ち果てるのが先か、西園寺家を地獄に落とすのが先か。
命を削るレースだと思えば、この痛みさえも愛おしく……思えるはずがなかった。
「……クソッ」
痛みを紛らわせるため、井上はバスローブを羽織り、リビングのソファに深く沈み込んだ。
サイドテーブルには、最高級のバーボン。
グラスに注ぎ、氷も入れずに煽る。
喉を焼くアルコールが、少しだけ神経を麻痺させてくれる。
広いスイートルームは、死んだように静かだった。
話し相手はいない。
孤独だ。
だが、この孤独こそが、今の自分に必要なゆりかごなのかもしれない。
井上は窓の外、眼下に広がる東京の夜景を見下ろした。
無数の光の粒。そこには何百万という人々の営みがある。
笑い、泣き、愛し合い、憎しみ合う日常。
かつて、灰谷守もその中の一粒だった。誰にも顧みられない、ちっぽけで惨めな光。
(戻りたいか?)
自問自答する。
あの日々に戻れば、こんな痛みはない。
誰かを陥れるための嘘をつく必要もない。
ただ、犬のように尻尾を振って、残飯をもらっていれば生きていける。
「……戻るものか」
井上はグラスを強く握りしめた。
あの屈辱。あの絶望。
雪の降る崖下で感じた、骨の髄まで凍るような無力感。
それに比べれば、今の痛みなど、生きている証のようなものだ。
「俺は進む。……たとえこの顔が崩れ落ちようとも」
井上は残りの酒を飲み干した。
痛み止めとアルコールの相乗効果で、意識が泥のように重くなっていく。
そのままソファで意識を手放した。
翌朝。
井上は、激しい眩暈と共に目を覚ました。
頭が重い。二日酔いではない。もっと悪い何かが起きている。
顔を洗おうと洗面所へ向かい、鏡を見た瞬間、井上は息を呑んだ。
「……なっ?」
右半分の顔面の感覚が、完全に消失していた。
触れても、つねっても何も感じない。
口角を上げようとしても、左側しか動かない。右側は、まるで溶けた蝋のように垂れ下がったままだ。
顔面麻痺。
平衡感覚を失い、よろめいて壁に手をつく。
視界が歪む。
鎮痛剤が切れた反動か、それとも手術の不具合か。
顔の中で、何かが崩れていく音が聞こえた気がした。
(マズい……このままじゃ、パーティーに出られない……)
あと4日。
この顔が崩れれば、全てが終わる。
普通の病院には行けない。カルテを見られれば、整形の痕跡も、身元不明の骨格も全てバレる。
「……毒島だ」
井上は這うようにしてリビングに戻り、スマートフォンを掴んだ。
震える指で発信ボタンを押す。
「……はあ、はあ……毒島さん……俺だ……」
『どうした? 朝っぱらから幽霊みたいな声出して』
「医者を……紹介してくれ……」
井上は呼吸を整えながら、必死に言葉を絞り出した。
麻痺した唇から漏れる声は、酷く不明瞭だった。
「口の堅い、裏の医者だ。……腕が良ければ、無免許でも構わない」
『おいおい、まさかヤクでもキメてんのか?』
「顔だ……顔が、痛い……。このままだと、あんたへの投資もパーになるぞ……」
金のことを出せば、毒島は動く。
電話の向こうで、毒島が舌打ちをする音が聞こえた。
『チッ、手のかかる金蔓だ。……心当たりはある。元監察医のヤブ医者だが、死体を生き返らせるような腕を持ってる女だ』
「……女?」
『ああ。性格は最悪だがな。……すぐに場所を送る。這ってでも行け』
通話が切れた。
井上は床に倒れ込んだまま、天井を見上げた。
シャンデリアが歪んで見える。
「……死なないさ」
井上は自らを奮い立たせた。
まだ何も始めていない。
こんなところで、顔が崩れて終わるなんて、笑い話にもならない。
「動け……俺の足」
井上はよろめきながら立ち上がり、コートを羽織った。
サングラスをかけ、麻痺した右顔面を隠す。
鏡に映る自分は、満身創痍の負傷兵のようだった。
だが、その左目だけは、まだ死んでいなかった。
井上は部屋を出た。
孤独な復讐者の戦いは、まだ始まったばかりだ。




