第7話 井上健太郎、誕生
スイスの澄んだ空気は、新しく生まれ変わった肺には少し刺激が強すぎた。
サン・ミッシェル医療研究所の正門前。
灰谷守――いや、その名前はもう捨てた男は、迎えのハイヤーを待ちながら、ショーウィンドウ代わりのガラスに映る自分を眺めていた。
そこにいるのは、見知らぬ男だった。
身長は以前と変わらないはずだが、矯正された姿勢と厚みを増した胸板のせいで、一回り大きく見える。
仕立ての良いダークネイビーのスーツは、まるで皮膚の一部のように体に馴染んでいる。
そして何より、その顔だ。
北風に乱れる黒髪の間から覗く瞳は、深く、冷たく、どこか憂いを帯びている。
東洋的な神秘さと、西洋的な彫りの深さが融合した、無国籍で危険な香りを放つ美貌。
通りがかった看護師たちが、遠巻きに彼を見て頬を赤らめ、囁き合っている。
かつての「灰谷守」なら、汚物を見るような目を向けられるか、そもそも視界に入ることさえなかっただろう。
視線が変わった。
世界が、自分を見る目を変えたのだ。
「……待たせたね」
背後から声をかけられ、男はゆっくりと振り返った。
シュタイン博士が、重厚な革の鞄を手に立っていた。
「これが君の新しい皮膚だ」
博士が差し出したのは、日本のパスポートだった。もちろん、正規のルートで発行されたものではない。裏社会の精巧な偽造技術と、公的機関へのハッキングによって作られた、完璧な偽装IDだ。
男はそれを受け取り、ページを開いた。
そこには、今の自分の顔写真と、以前毒島を通じて指定した名前が刻まれていた。
『井上 健太郎(Inoue Kentaro)』
生年月日:19XX年X月X日(30歳)
「……ふっ」
男の口から、自嘲気味な笑いが漏れた。
「どうした? 気に入らないかね」
「いえ。改めて見ると、笑えるほど平凡な名前だと思いまして」
そう。平凡だ。
日本に何十万人といそうな苗字に、ありふれた名前。
博士は不思議そうに眉を上げた。
「私もそう思っていたよ。君ほどの美貌と、湯水のように金を使う財力があれば、もっと華やかな名前――例えば『カイ』だの『レイ』だの、貴族のような名前を選ぶこともできただろうに。なぜ、あえてそんな没個性な名前を選んだ?」
男はパスポートを閉じ、懐にしまった。
その動作一つにも、映画のワンシーンのような洗練された色気が漂う。
「違和感ですよ、ドクター」
男は低く、響く声で答えた。
「ゴージャスな見た目の男が、ゴージャスな名前を名乗れば、それはただの『派手な男』として消費される。……ですが、この顔で、このスーツで、名前が『井上健太郎』だったら?」
「……なるほど」
「相手は困惑する。『コイツは何者だ?』と。その平凡さが、逆に不気味な底知れなさを生む。掴みどころのない霧のような男。それが俺の狙いです」
それに――と、男は心の中で付け加えた。
『井上健太郎』という名前は、かつて自分が愛読していた売れないハードボイルド小説の探偵の名前だった。
誰も傷つけず、誰からも愛されず、ただ街の影に消えていく男。
今の自分にはお似合いだ。
「君は本当に面白い患者だったよ。……いや、もう患者ではないな」
博士は右手を差し出した。
「行きたまえ、ミスター・イノウエ。君の復讐劇が、成功することを祈っているよ」
「最高のメスでした。感謝します」
井上は力強くその手を握り返した。
ハイヤーが滑るように到着し、運転手がドアを開ける。
井上は迷うことなく車に乗り込んだ。
振り返ることはしなかった。
過去は死んだ。ここから先は、井上健太郎としての人生だ。
日本行きの機内。ファーストクラスのシートに体を沈め、井上はシャンパングラスを傾けていた。
窓の外には、見渡す限りの雲海が広がっている。
これから向かうのは、かつて自分が殺された場所。
東京。
「お客様、お飲み物のおかわりはいかがですか?」
客室乗務員が声をかけてきた。
その声のトーンは、明らかに業務用のそれよりも甘く、そして媚びを含んでいた。
井上が視線を上げると、CAは頬を染め、熱っぽい瞳で彼を見つめ返してきた。名札には連絡先を書いたメモが挟まっているのが微かに見えた。
「ありがとう。水をもらえるかな」
井上は短く答え、微笑んだ。
たったそれだけのアクションで、CAは「はいっ、喜んで!」と弾かれたようにバックヤードへ走っていった。
(……これが、『力』か)
井上はグラスに映る自分の顔を見つめた。
かつての灰谷守だった頃、飛行機に乗ることなど数えるほどしかなかったが、エコノミークラスでCAに水を頼んでも、忘れられることが多かった。
透明人間。
それが灰谷守の社会的な立ち位置だった。
だが今は違う。
座っているだけで、人が寄ってくる。視線が集まる。
美貌という暴力的なまでのアドバンテージ。
それに加えて、スイスのプライベートバンクに預けられた数百億の資産。
(麗華。お前は、この俺を見てもまだ『雑巾』と呼べるか?)
想像するだけで、ゾクゾクするような暗い愉悦が背筋を駆け上がる。
10年前、彼女は「金」と「顔」だけを愛していた。
ならば、その両方を極限まで高めた今の自分は、彼女にとっての麻薬になるはずだ。
井上はポケットからスマートフォンを取り出した。
毒島から送られてきた、最新の調査レポートを開く。
帝都グループの株価推移、西園寺家の動向、そしてターゲットたちの近況。
『西園寺麗華、社交界デビュー。次期社長の夫・猛氏と共にパーティーへ』
『西園寺貴子、更なるリストラを断行。労働組合と対立』
画面の中の彼らは、まだ何も知らない。
自分たちが築き上げた城の足元に、すでに大量の爆薬が仕掛けられていることを。
そして、その導火線に火をつける男が、今まさに空の上から彼らを見下ろしていることを。
成田空港に到着したのは、夕暮れ時だった。
ゲートを出た瞬間、湿気を含んだ日本の空気が肌にまとわりつく。
不快な湿度。雑多な匂い。
だが、それは井上の戦闘本能を呼び覚ますトリガーでもあった。
到着ロビーを歩く。
コツ、コツ、と革靴の音が響く。
すれ違う人々が、次々と振り返る。
「誰? 俳優?」
「モデルかしら」
「凄くカッコいい……」
さざ波のように広がる囁き声。
井上はサングラスをかけ、表情を隠したまま、迎えの車へと向かった。
手配されていたのは、漆黒のセンチュリーだった。
後部座席に乗り込むと、井上は運転手に告げた。
「都内へ。……まずは、墓地に向かってくれ」
都心の高級ホテル、『アマン東京』のコーナースイート。
ここが、当面の井上の拠点となる。
広大な窓からは、煌めく東京の夜景が一望できた。
眼下には皇居の森が広がり、その先には帝都グループの本社ビルが、まるで墓標のように黒々と聳え立っている。
井上はジャケットを脱ぎ、ソファに投げ出した。
シャツのボタンを外し、ネクタイを緩める。
ルームサービスで頼んだバーボンをグラスに注ぎ、一口煽る。
喉を焼くアルコールの刺激が、意識を鮮明にさせる。
「……帰ってきたぞ」
井上は窓ガラスに手をつき、夜景の向こうを睨みつけた。
かつて、あの街の片隅で、誰にも気づかれずに死んでいった男。
灰谷守の霊が、まだあの場所に彷徨っているような気がした。
(安心しろ。弔い合戦はこれからだ)
井上はスマートフォンを手に取り、ある番号に発信した。
コール音は一回で途切れた。
「……へい、お待ちしてましたよ、大将」
毒島のしわがれた声が聞こえた。
「準備はできてるか?」
「ああ、完璧だ。あんたが指定した投資ファンド『K.I.ホールディングス』の登記、オフィスの手配、全部済んでる。……それと、例のパーティーの招待状もな」
一週間後。
帝都グループが主催する、創立記念チャリティーガラパーティー。
政財界のVIPが集まるその場所が、井上健太郎のデビュー戦となる。
「上出来だ」
「なあ、井上さんよ。……あんた、本当にやる気か? 相手は日本有数の財閥だぞ。刺し違える覚悟はあるんだろうな」
「刺し違える?」
井上は鼻で笑った。
「勘違いするな。俺は死なない。死ぬのは奴らだ。俺は高みの見物で、奴らが泥沼でのた打ち回る様をワインの肴にするだけだ」
電話を切ると、井上は再び窓の外へと視線を戻した。
ガラスに映る自分の顔。
整形したての、まだどこか馴染まないマスク。
井上は指先で頬をなぞり、口角を吊り上げてみた。
冷酷で、残忍で、そしてどうしようもなく美しい、悪魔の微笑み。
「始めようか、麗華」
井上はグラスを掲げ、虚空に向かって乾杯した。
「俺とお前の、愛と復讐のセカンド・ライフを」
夜の闇に、井上の低い笑い声が溶けていった。
怪物は、今夜、東京に解き放たれたのだ。




