第6話 骨を削る痛み
時間は、粘着質な泥のように重く、遅く流れていた。
スイスの古城、サン・ミッシェル医療研究所の集中治療室。
灰谷守の意識は、モルヒネの投与によって作られた微睡みと、骨の髄を食い破るような激痛の間を行き来していた。
顔がない。
そんな錯覚に囚われるほど、顔面の感覚は崩壊していた。
頭蓋骨の数カ所を切断し、配置を変え、ボルトで固定する。シュタイン博士の言葉を借りれば「解体工事」が行われたのだ。
熱を持った腫れ。引き攣れるような縫合痕の痛み。そして何より、異物が埋め込まれたような違和感が、守の精神を蝕んでいた。
「……う、うう……」
喉の奥から漏れるのは、獣の呻き声のようなノイズだけだ。
顎は強固にワイヤーで固定されており、口を開くことすらできない。
栄養は鼻から通されたチューブと、腕の点滴から送り込まれる。
生きているのか、それとも死んで地獄の責め苦を受けているのか。その境界線すら曖昧だった。
だが、守はこの地獄を歓迎していた。
痛ければ痛いほどいい。
この痛みが強烈であるほど、それは「灰谷守」という人間が死滅しつつある証拠だからだ。
術後2週間。
ようやくICUを出て、個室病室へと移された。
窓からは雄大なアルプスの山々が見えるが、守の顔は未だ分厚い包帯でぐるぐる巻きにされたままだ。
出ているのは、充血した両目と、呼吸のための鼻孔、そしてストローを通すための唇の隙間だけ。
「経過は順調だ。驚異的な回復力だよ、ハイタニ君」
回診に訪れたシュタイン博士は、タブレット端末のデータを見ながら満足げに頷いた。
「骨の癒合も始まっている。今日からリハビリを開始しよう」
「……リハビリ?」
守は筆談用のホワイトボードにペンを走らせた。顔のリハビリなどあるのだろうか。
「顔ではない。肉体と精神のリハビリだ」
博士は守のベッドの横に立ち、杖で守の肩をパシッと叩いた。
「君のその猫背だ。ベッドに寝ていても分かる。長年、誰かに怯え、縮こまって生きてきた人間の骨格になっている。これでは、いくら顔を変えても、首から下が『負け犬』のままだ」
図星だった。
西園寺家での10年間、守は常に視線を下げ、肩を丸めて生きてきた。義母の罵倒を耐え、義兄の暴力を受け流すための、卑屈な防御姿勢。それが骨の髄まで染み付いているのだ。
「今日から、君の肉体を再教育する。専属のトレーナーを用意した」
病室に入ってきたのは、軍人のように屈強な大男だった。
元特殊部隊の教官だというその男は、守をベッドから引きずり起こすと、容赦なく歩行訓練を開始させた。
「背筋を伸ばせ! 顎を引け! 視線は常に水平だ!」
怒号が飛ぶ。
術後のふらつく足取りで、守は廊下を歩かされる。
少しでも背中が丸まると、容赦なく背中を叩かれる。激痛が顔に響くが、止まることは許されない。
「お前は王だ! 誰にも頭を下げるな! 世界を見下ろせ!」
トレーナーの言葉は、単なる指導を超えた洗脳に近かった。
守は必死に足を動かした。
(俺は王だ……俺は王だ……)
心の中で繰り返す。
だが、ふとした瞬間にフラッシュバックが襲う。
廊下の角を曲がる時、無意識に「誰かにぶつからないように」と身を縮めてしまう自分。
看護師とすれ違う時、反射的に「申し訳ありません」と頭を下げそうになる自分。
(消えろ……!)
守は歯を食いしばった。ワイヤーがきしむ。
体の中にこびりついた「灰谷守」の習慣が、亡霊のようにまとわりついてくる。
それは顔を変えるよりも遥かに困難な、魂の整形手術だった。
術後1ヶ月。
顎のワイヤーが外され、流動食から柔らかい固形物への食事が許可された。
だが、それは新たな地獄の始まりだった。
骨格が変わったことで、噛み合わせが以前と全く異なっていたのだ。
物を噛むたびに、顎関節に違和感が走る。自分の口ではないような、他人の口を借りて食事をしているような気味悪さ。
そして、発声訓練も始まった。
シュタイン博士の指示により、声帯へのヒアルロン酸注入などの処置も行われていた。
「あー……あー……」
自分の喉から出る声を聞いて、守は戦慄した。
低い。そして、深い。
かつての、少し甲高い、頼りない守の声ではない。胸郭に響くような、重厚なバリトンボイス。
「いい声だ。だが、喋り方がダメだ」
ボイストレーナーの女性が、厳しく指摘する。
「語尾が消え入りそうになっているわ。自信のなさが声に出ている。もっと腹から出しなさい。言葉を『置く』ように喋るの」
守は鏡の前に立たされた。
顔はまだ包帯で覆われている。
その鏡に向かって、何度もセリフを繰り返す。
「私は、井上健太郎だ」
「私は、井上健太郎だ」
最初は違和感しかなかった。
まるで下手な役者が芝居をしているようだ。
鏡の中にいるのは、包帯で顔を隠した灰谷守にしか見えない。
その夜。
守は病室の洗面台の前で、一人鏡と向き合っていた。
消灯時間を過ぎ、月明かりだけが室内を照らしている。
守は震える手で、包帯の隙間から覗く自分の目を見つめた。
かつては、いつも怯え、泳いでいた瞳。
だが今は、形成手術によって二重の幅が広げられ、さらに瞳孔の色を変える処置も施されている。
青みがかったダークグレーの瞳。
知らない男の目が、そこにあった。
「……お前は誰だ?」
新しい声で問いかける。
鏡の中の男は答えない。
ふと、鏡の向こうに幻影が見えた気がした。
ヨレヨレのスーツを着て、猫背で、媚びへつらうような笑顔を浮かべた灰谷守だ。
幻影の守は、悲しげな目でこちらを見ている。
『いいのか? 本当に俺を殺していいのか? 真面目に生きてきたじゃないか。ただ、愛されたかっただけじゃないか』
幻聴が聞こえる。
それは守自身の弱さの声だった。
この10年間、どんなに虐げられても、守は心のどこかで「いつか分かってくれるはずだ」「自分が我慢すれば丸く収まる」と信じていた。
そのささやかな善性。愚直なまでの誠実さ。
それを捨てることへの恐怖。
守は洗面台の縁を強く掴んだ。指の関節が白くなるほどに。
「黙れ……」
守は低く唸った。
「真面目さが何になった? 誠実さが何を救った? お前は殺されたんだ。ゴミのように捨てられ、嘲笑われ、殺されたんだぞ!」
脳裏に蘇る、あの雪の夜。
転落する車の中で感じた絶望。
麗華の冷酷な言葉。
『来世は人間になれるといいわね』
怒りが、溶岩のように腹の底から噴き出した。
そうだ。あの善人の灰谷守は、あの崖の下で死んだのだ。
ここにいるのは、その死体から這い出した復讐の鬼だ。
「俺は、お前を殺す」
守は鏡の中の幻影を睨みつけた。
「何度だって殺してやる。未練も、優しさも、情けも、全てこの手で殺す」
守は拳を振り上げ、鏡を殴りつけた。
ガシャアンッ!
鋭い音と共に鏡に亀裂が走り、幻影の灰谷守の顔が歪んで砕け散った。
拳から血が滴る。
だが、痛みは感じなかった。
むしろ、胸のつかえが取れたような、清々しい開放感があった。
騒ぎを聞きつけた看護師が駆け込んでくる。
だが、守は動じなかった。
割れた鏡の破片に映る自分の瞳が、猛禽類のように鋭く、冷たく光っているのを見て、口元を歪めた。
「……リハビリは順調のようだ」
さらに2ヶ月が経過した。
季節は夏になっていた。
守の肉体は、劇的な変化を遂げていた。
過酷な筋力トレーニングと、計算された栄養管理により、貧相だった体躯は厚みを増し、スーツの上からでも分かる逆三角形のシルエットを作り上げていた。
猫背は完全に矯正され、歩き方は堂々たるものになった。
声も、立ち振る舞いも、もはや別人だ。
そして、ついにその日が来た。
全ての包帯を外す日だ。
院長室。
シュタイン博士が、ハサミを手に守の前に立っていた。
「準備はいいかね、ハイタニ君。いや……」
博士は言い直した。
「ミスター・イノウエ」
守は静かに頷いた。
緊張はない。あるのは、武器を手にする戦士の静かな高揚だけだ。
チョキ、チョキ。
ハサミが包帯を切り裂いていく音が、部屋に響く。
一枚、また一枚と、布が剥がされていく。
皮膚が空気に触れる。まだ少し突っ張るような感覚はあるが、痛みはない。
「……さあ、見るがいい。私の最高傑作を」
最後のガーゼが取り除かれた。
博士が、守の前に大きな鏡を差し出した。
守はゆっくりと目を開けた。
そこにいたのは、灰谷守ではなかった。
彫りの深い顔立ち。スッと通った鼻筋。意志の強さを感じさせる顎のライン。
そして何より、その瞳。
かつての弱々しさは微塵もなく、深海のように静かで、底知れない知性を湛えた男がそこにいた。
独特な「憂い」と「危険さ」を完璧に再現した、大人の男の顔。
無表情に見えるが、僅かに口角を上げると、ゾッとするほど冷ややかな色気が漂う。
「……これが、俺……」
守は自分の頬に触れた。
冷たい感触。
まるで精巧なマスクを被っているようだ。
だが、これはマスクではない。自分の皮膚であり、骨であり、肉だ。
「どうだね?」
博士が尋ねる。
守は鏡から目を離さずに答えた。
「……悪くない」
守の声は、低く、滑らかだった。
「これなら、誰も俺だと気づかない。麗華でさえも」
守は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
ガラスに映る自分の姿を見る。
完璧なスーツの着こなし。自信に満ちた立ち姿。
どこからどう見ても、成功した若き投資家「井上健太郎」そのものだ。
灰谷守は死んだ。
今、完全に死んだのだ。
ここにいるのは、復讐のために作られた美しい怪物。
「感謝します、ドクター」
守は博士に向き直り、優雅に一礼した。その仕草すらも、計算されたかのように洗練されていた。
「残りの金は振り込んでおきます。……それと、帰国の手配を」
「もう行くのかね? 術後の経過観察がまだ……」
「構いません。多少の不具合は覚悟の上です」
守は懐から、一枚の写真を取り出した。
西園寺家の集合写真だ。麗華が中央で微笑んでいる。
「獲物が待っているんです。あまり待たせると、彼らが『幸せ』に慣れすぎてしまう」
守はその写真を指先で弾き、ポケットにしまった。
「地獄への案内人が遅刻しては、興醒めでしょう?」
その微笑みを見て、数多の修羅場を見てきたシュタイン博士でさえ、一瞬背筋が寒くなるのを感じた。
美しい顔。
だがその内側には、ドロドロに溶けた鉛のような憎悪が、冷たく固まっているのが見えたからだ。
守は部屋を出て行った。
その足取りに、もう迷いはなかった。
向かう先は日本。
かつて自分が殺された場所。
そして今度は、自分が彼らを殺すための舞台へと。




