第5話 悪魔のメス
スイス・ジュネーブ国際空港に降り立った時、灰谷守を出迎えたのは、骨の髄まで凍てつくような冷気だった。
毒島が手配した黒塗りのハイヤーが、到着ロビーの出口で静かにエンジンを吹かして待っていた。
運転手は無言で守の荷物をトランクに積み込むと、重厚なドアを開けた。
行き先を告げる必要はない。
全ては手配済みだ。
車は市街地を抜け、アルプスの山々へと続く曲がりくねった道路を登り始めた。
窓の外を流れる景色は、絵画のように美しく、そして残酷なほど無機質だった。
雪を頂いた峰々。針葉樹の森。
守は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
30歳の、若さを取り戻した顔。だが、その目尻には自信のなさが張り付き、口元は常に卑屈な笑みを浮かべる形に歪んでいる。
この顔のせいで、自分は蔑まれたのか。
この顔のせいで、麗華は自分を「犬」としてしか見なかったのか。
おそらく、答えはイエスだ。
人は見た目が9割という残酷な真実を、守は誰よりも痛感していた。
「……さよならだ」
守はガラスに向かって小さく呟いた。
これが、この顔を見る最後になるかもしれない。
恐怖はなかった。あるのは、古い皮膚を脱ぎ捨てる蛇のような、冷たい高揚感だけだった。
車が停まったのは、断崖絶壁の上に建つ、古城を改築したような石造りの建物だった。
『サン・ミッシェル医療研究所』。
表向きは富裕層向けの長期療養所だが、その実態は、世界中のVIPが秘密裏に訪れる、最高峰の美容形成外科クリニックだ。
国家元首の影武者作りから、指名手配犯の顔の書き換えまで、金さえ積めばどんな要望も叶えるという「悪魔の工房」。
重い樫の木の扉が開かれると、白衣を着たスタッフが恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました、ムッシュ・ハイタニ。院長がお待ちです」
通されたのは、最上階にある院長室だった。
壁一面の本棚と、アンティークの家具。そして部屋の中央には、巨大な三面鏡と、手術台のような無機質な診察椅子が置かれていた。
「ようこそ。君が、東京の毒島から紹介された『破壊願望者』かね?」
デスクの奥から現れたのは、銀髪をオールバックにした初老の男だった。
ハンス・シュタイン博士。
その指先は驚くほど白く、細く、まるでピアニストか彫刻家のようだった。
「……破壊願望者?」
「そうだろう? 通常、ここに来る患者は『美しくなりたい』と言う。だが、君のカルテとオーダーからは、美への憧れではなく、現在の自分に対する強烈な殺意を感じる」
シュタイン博士は氷のような青い瞳で守を射抜いた。
「君は、今の自分を殺したがっている。違うかね?」
「……その通りです」
守は認めざるを得なかった。
この男には、心の奥底まで見透かされているようだ。
「いいだろう。私は芸術家だ。素材がどうなりたいと叫んでいるか、声を聞くのが仕事だ」
博士は守を診察椅子に座らせると、強いライトを当てた。
そして、守の顔を愛おしそうに、しかし冷徹に触診し始めた。
「典型的な東洋人のモンゴロイド骨格だ。頬骨が高く、顎が小さい。鼻根は低く、瞼は重い。……ふむ、君の言うような顔立ちにするには、表面の皮膚を弄るだけでは不可能だ」
博士は冷酷な事実を告げた。
「骨を切る必要がある。顎、頬、眉間……頭蓋骨の形状そのものを再構築しなければならない。それに伴い、筋肉の配置も変える。これは整形手術というより、解体工事に近い」
「構いません」
守は即答した。
「どれだけ痛くても、どれだけ時間がかかっても構わない。……金ならいくらでもあります」
「金の問題ではない。リスクの問題だ。このレベルのフルカスタムを行うと、術後の拒絶反応や神経障害のリスクは跳ね上がる。最悪の場合、顔面麻痺が残るか、感染症で死ぬ」
「死ぬことは怖くありません。この顔のまま生き続けることの方が、よほど恐ろしい」
守の言葉に、シュタイン博士は初めて口元を緩めた。
「面白い。君のその目……復讐者の目だ。美しい作品ができそうだ」
博士はタブレット端末を取り出し、守の現在の顔写真をスキャンした。
画面上でシミュレーションが始まる。
守の顔がデジタルデータとして分解され、骨格が削られ、隆起させられ、再構築されていく。
数分後。
画面に映し出されたのは、見知らぬ男の顔だった。
憂いを帯びた垂れ気味の瞳。シャープだが男らしい顎のライン。薄い唇。
それは紛れもなく、映画の中で見たあの男の雰囲気を纏った、理想の顔だった。
「……これが、俺?」
「そうだ。ただし、顔だけ変えても意味がない。君の今の猫背、歩き方、声のトーン……それら全てが『負け犬』のオーラを放っている。手術と並行して、肉体改造と発声訓練も受けてもらう」
「望むところです」
守は震える手で画面に触れた。
これが手に入るなら、悪魔に魂を売ってもいい。
「では、契約だ」
博士は分厚い契約書を差し出した。
そこには、あらゆる医療リスクへの免責事項と、天文学的な金額の手術費用が記されていた。
そして最後のページには、奇妙な条項があった。
『本契約の履行後、甲は旧来の身分証明書を全て破棄し、二度と旧人格を名乗らないことを誓約する』
「これは?」
「儀式だよ。新しい人生を歩むには、退路を断つ必要がある」
博士は万年筆を差し出した。
守は迷わなかった。
サラサラと署名をする。
『灰谷 守』と書くのは、これが最後だ。
「契約成立だ。……手術は明日の朝から行う。今夜は最後の晩餐を楽しむといい」
翌朝。
手術室は、冷蔵庫の中のように冷え切っていた。
守は全裸になり、手術台の上に横たわっていた。
周囲には無数のモニターと、見たこともないような複雑な医療機器が並んでいる。
天井の無影灯が眩しい。
「麻酔をかける。目が覚めた時、君はもう別人だ」
マスクをしたシュタイン博士が、守の顔を覗き込んだ。その手には、銀色に輝くメスが握られている。
点滴のチューブから、冷たい液体が血管へと流れ込んでくる。
意識が急速に遠のいていく。
怖いか?
自問自答する。
いや、怖くはない。
ただ、一つだけ心残りがあるとすれば……。
(麗華……)
最後に思い浮かんだのは、やはりあの女の顔だった。
自分を捨て、踏みにじった女。
だが、守の心の奥底には、まだどす黒い執着がこびりついていた。
愛していたから憎いのか。憎んでいるから愛おしいのか。
感情の境界線は、もう曖昧になっていた。
(待っていろ。俺はお前の理想の男になって、必ず迎えに行く。そして、お前が俺に夢中になったその瞬間に……)
視界が暗転する。
最後に聞こえたのは、骨を砕くドリルのような、耳障りな駆動音だった。
――痛い。
熱い。
顔が、燃えている。
意識が戻った瞬間、守を襲ったのは、言語を絶する激痛だった。
声を上げようとしたが、喉から漏れたのは「ヒュッ」という掠れた空気音だけだった。
口が開かない。
顎がワイヤーで固定されているのだ。
目も開かない。瞼がパンパンに腫れ上がり、視界は完全に塞がれていた。
(なんだ、これは……痛い、痛い、痛い……!)
まるで顔面の皮を全て剥ぎ取られ、その上から煮えたぎる鉛を流し込まれたような感覚。
骨を切った場所が、心臓の鼓動に合わせてズキズキと脈打つ。
呼吸をするだけで、顔中の筋肉が悲鳴を上げる。
「……目が覚めたかね」
遠くから、博士の声が聞こえた。
「手術は成功だ。18時間にも及ぶ大手術だったよ。君の頭蓋骨は、パズルのように組み替えられた」
守は身じろぎしようとしたが、手足もベルトで固定されていた。
自分が今、どのような姿をしているのか、想像するだけで恐ろしかった。
フランケンシュタインの怪物。あるいは、包帯だらけのミイラ男。
「今は地獄の苦しみだろう。だが、これは産みの苦しみだ」
博士の手が、包帯の上から守の頬に触れた。
「繭の中で芋虫が溶けて蝶になる時、おそらく同じような痛みを味わっているはずだ。……君は今、溶けているんだよ、ハイタニ君」
溶けている。
その言葉は、奇妙なほど守の腑に落ちた。
そうだ。灰谷守という個体は、今このベッドの上でドロドロに溶けて、死にかけている。
そして、その死骸の中から、新しい怪物が生まれようとしているのだ。
守は痛みの中で、微かに口角を上げようとした。
激痛が走る。
それでも、笑わずにはいられなかった。
ざまあみろ。
これで、俺は誰も知らない存在になった。
義兄も、義母も、そして妻も、誰も俺を見つけられない。
俺は「影」になったのだ。
看護師が鎮痛剤を点滴に追加したらしい。
再び意識が泥沼へと沈んでいく。
その沼の底で、守は夢を見た。
豪華なシャンデリアの下、タキシードを着た自分が立っている。
その腕には、美しいドレスを纏った麗華が寄り添っている。
彼女はうっとりとした目で、守を見上げている。
「愛しているわ、あなた」と囁く。
守は優しく微笑み、彼女の頬に手を添える。
そして、その細い首に手を回し、ゆっくりと、ゆっくりと力を込めていく――。
悪魔のメスは、肉体だけでなく、守の魂の形までも、取り返しのつかない形へと変えてしまったようだった。




