第47話 地獄への片道切符
帝都ホテルのメインバンケット『孔雀の間』。
井上健太郎が『二度目の遺言状』を突きつけ、背を向けて歩き出そうとした、まさにその時だった。
バァァンッ!!
会場の重厚なメインドアが、外側から乱暴に蹴り開けられた。
足音。それも、訓練された複数の重い靴音が、絨毯の上を駆け込んでくる。
「そこまでだ。誰も動くな!」
鋭い怒号が飛び交う。
なだれ込んできたのは、スーツ姿の男たちと、制服を着た警察官たちだった。
東京地検特捜部、および警視庁捜査二課の捜査員たちだ。
清水南が事前に提出していた告発状と、木村心がハッキングによって提供した『裏帳簿』および『資金洗浄の証拠データ』。
それらの決定的証拠に基づき、彼らは強制捜査へと踏み切ったのだ。
「西園寺貴子だな。……特別背任、有価証券報告書の虚偽記載、および法人税法違反の容疑で逮捕状が出ている。同行してもらうぞ」
先頭に立つ特捜部の検事が、逮捕状を掲げて冷徹に宣告した。
「な……なによ、あなたたち! 誰の許可を得てここに入ってきたの!」
床に這いつくばっていた貴子が、ヒステリックに叫んだ。
彼女は血走った目で周囲を見回し、すでに逃げ去って誰もいないVIP席に向かって助けを求めた。
「ちょっと! 警察庁の長官に連絡を! 政治家筋にも手を回しなさい! 私は西園寺貴子よ! 帝都の女帝をこんな風に扱って、ただで済むと思っているの!?」
「その『お友達』たちも、今頃は自分たちの保身で手一杯だろうさ。……連れて行け」
検事の合図と共に、二人の捜査員が貴子の両脇を固めた。
ガチャン。
冷たい金属音が響き、女帝の細い手首に無情な手錠がかけられる。
「離せ! 触るな! 私の会社よ! 私の帝国よぉぉっ!」
貴子は髪を振り乱し、よだれを垂らしながら暴れたが、捜査員たちは慣れた手つきで彼女を引きずっていく。
薬で摩耗し、絶望で砕け散った老婆の、あまりにも無様な最期だった。
「……いや! 嫌ぁぁっ! 来ないで!」
少し離れた場所で、失神から目を覚ました西園寺麗華が悲鳴を上げていた。
彼女の元にも、女性の警察官が近づいている。
「西園寺麗華さん。あなたにも、特別背任および脱税の共犯容疑で同行を願います」
「共犯!? 私が!? 違うわ、私は何も知らない! 裏金なんて、全部母様が勝手にやったことよ!!」
麗華は純白のウェディングドレスを泥だらけにしながら、ステージの上の井上を指差した。
「健太郎さん! 嘘でしょ!? 私を助けて! 私を愛してるって言ったじゃない!」
泣き叫ぶ麗華を、井上は氷のような目で見下ろしていた。
1周目の人生で、横領の濡れ衣を着せられた自分を冷酷に見捨てた女。
今の彼女は、かつての自分の何倍も惨めで、醜い。
「……ご同行願います」
「嫌っ! ドレスが破れる! やめてぇっ!」
麗華もまた、両脇を抱えられ、引きずられるようにして連行されていく。
その道すがら。
会場の出入り口付近で、ダークグレーのスーツを着た一人の女性が、静かに立っていた。
メイドの池田茉莉だ。
「……茉莉! あんた、私を助けなさい! 使用人でしょ!」
麗華が狂ったように叫ぶ。貴子もまた、茉莉を睨みつけた。
「裏切り者……! 地獄に落ちろ……!」
その呪詛の言葉を受け、茉莉はゆっくりと動いた。
彼女は、背筋をピンと伸ばし、かつての主たちに向かって、絵画のように美しい、完璧な角度で深く一礼をした。
「……長らくのお引き立て、誠にありがとうございました」
茉莉の鈴を転がすような声が、冷たい会場に響き渡った。
「お二人とも、どうか地獄で末長くお幸せに」
茉莉は体を起こすと、自分のスーツの襟元に手を伸ばした。
そこには、西園寺家の使用人であることを示す、家紋が刻まれた銀色のピンバッジが付けられていた。
彼女はそれを無造作にむしり取り、床に向かって放り投げた。
カチャン……。
硬質な金属音が響き、バッジが赤い絨毯の上を転がる。
それは、西園寺家との完全な決別を示す、静かで残酷な儀式だった。
警察の波が引き、貴子と麗華の絶叫が遠ざかっていく。
残された会場には、散乱したグラスと、静寂だけが横たわっていた。
「……終わったな」
井上は、長く、深い息を吐き出した。
10年間、胸の奥で煮えたぎっていた復讐の炎。
それが今、敵を完全に焼き尽くし、消え去った。
圧倒的なカタルシス。
だが、その後に残ったのは、燃えカスのような奇妙な虚無感だった。
数時間後。
アマン東京のスイートルーム。
深夜の部屋には、井上の共犯者である6人の女性たちが全員揃っていた。
だが、大騒ぎするような祝勝会の空気ではなかった。
それぞれが、終わった戦いの余韻を噛み締めるように、静かにグラスを傾けている。
井上は、キッチンに立っていた。
何かを作らなければ、この虚無感に押しつぶされそうだったからだ。
まな板の上に鎮座しているのは、巨大な二匹の甲殻類。
『カナディアン・ロブスター』。
先日調理した繊細なオマール・ブルーとは違う、アメリカ東海岸の冷たい海で育った、無骨で巨大なハサミを持つ野性味あふれる食材だ。
すでに氷水で締め、活け締めにしてある。
井上は出刃包丁を握り、ロブスターの頭から尻尾にかけて、一気に刃を振り下ろした。
バキッ!
硬い甲羅が真っ二つに割れる。
中からは、ぎっしりと詰まった純白の身と、鮮やかな緑色のミソが顔を出した。
「……今日は豪快に行く」
今回は、フランス料理のような繊細なソースは作らない。
アメリカの港町で漁師たちが食べるような、シンプルで暴力的な『ロブスターのハーブバター・グリル』だ。
井上はボウルに、たっぷりの無塩バターを入れ、湯煎で溶かして『澄ましバター』を作る。
そこに、みじん切りにした大量のニンニク、フレッシュなパセリとディル、そしてレモン果汁を搾り入れる。
このハーブガーリックバターを、真っ二つに割ったロブスターの身に、刷毛でこれでもかと塗りたくる。
オーブンを220度の高温に設定し、ロブスターを放り込む。
数分後。
殻が焼ける香ばしい匂いと、バターとニンニクの焦げる暴力的な香りが、部屋中に充満し始めた。
「……ミャウーッ!」「……ニャッ!」
足元で、二つの小さな影がたまらないといった様子で鳴き声を上げた。
シルバータビーのハイと、漆黒の仔猫のローだ。
ハイは井上の足にすり寄って甘え声を出しているが、野良出身のローは少し離れた場所から、虎視眈々とオーブンの中を狙うように前傾姿勢をとっている。
「お前たちには別のご馳走がある」
井上はハイとローのために、ロブスターの身の端のほうを少しだけ切り取り、味付けせずに塩茹でして二つの小皿に分けてやった。
ハイは「ニャッ!」と短い返事をして無心で食べ始め、ローも警戒しつつ近づき、あっという間に平らげてしまった。
オーブンからロブスターを取り出す。
甲羅は真っ赤に染まり、身はプリンとはち切れんばかりに膨らんでいる。
表面には、黄金色のハーブバターがグツグツと音を立てて泡立っていた。
だが、この野蛮な料理に合わせるのは、ワインでもシャンパンでもなかった。
井上は、あらかじめ仕込んでおいたピッチャーを取り出した。
自家製の『スパイス・レモネード』。
国産の無農薬レモンを皮ごとおろし金で削り、果汁と共に蜂蜜、クローブ、カルダモン、そして少しの黒胡椒を加えて煮詰めたシロップ。
これを、氷をたっぷり入れたグラスに注ぎ、強炭酸水で割る。
仕上げにフレッシュなミントの葉を叩いて香りを出し、グラスに添える。
濁りのある、鮮やかな黄色の液体の中で、炭酸の泡が弾けている。
「……完成だ」
井上は大皿にロブスターを乗せ、リビングのテーブルへと運んだ。
待っていた女たちの目が、一斉に輝く。
「うわぁ……! すごい迫力」
優香が感嘆の声を漏らした。
「アメリカンサイズね。……これぞ戦勝祝いって感じ」
舞永が早速、ロブスター用のクラッカーを手にした。
「いただきます」
井上はフォークを使い、殻から身を豪快に引き剥がした。
湯気と共に、海の香りが立ち昇る。
たっぷりとバターをまとった巨大な身を、一口で頬張る。
ブリッ、という強烈な弾力。
噛みしめるたびに、ロブスター特有の野性味あふれる旨味と甘みが、暴力的な量のニンニクバターと共に口の中で爆発する。
上品さなど欠片もない。
ただひたすらに「食の快楽」を追求した、背徳的な味だ。
そして、すかさずグラスのレモネードを流し込む。
ゴクッ。
強烈な炭酸と、レモンの鮮烈な酸味。
蜂蜜のコクのある甘さを、スパイスのピリッとした刺激が引き締める。
口の中の濃厚なバターの脂を、爽やかな柑橘の風味が魔法のように洗い流してくれた。
「……美味い」
井上は深く息を吐き出した。
熱く、重たいロブスターの旨味と、冷たく、キレのあるレモネードの爽快感。
それは、重苦しい復讐の呪縛から解き放たれ、新しい空気を胸いっぱいに吸い込んだような、今の自分の心境そのものだった。
「んん〜っ! 幸せ!」
心も指をバターまみれにしながら、ロブスターにかぶりついている。
彼女の膝の上では、満腹になったローが丸くなって眠っていた。
「これ、本当に美味しいです。……レモネードのスパイスが絶妙で」
優香も、女優としての仕事を終えた安堵からか、心から美味しそうに笑っている。
南も、冴子も、桃子も、そして茉莉も。
それぞれが、それぞれの戦いを終え、この無骨で贅沢な食事を楽しんでいた。
「……ねえ、ボス」
舞永が、レモネードのグラスを傾けながら井上を見た。
「復讐は終わったわ。帝都グループは解体され、あの家族は地獄に落ちた。……で、これからどうするの?」
その問いに、部屋の空気が少しだけ静かになった。
全員の視線が、井上に集まる。
灰谷守の無念を晴らすためだけに、未来から舞い戻ってきた男。
その目的が達成された今、彼には生きる理由が残っているのだろうか。
「……これから、か」
井上はグラスの氷をカランと鳴らした。
足元では、お腹いっぱいになったハイが、井上の靴の甲に顎を乗せて幸せそうに眠っている。
「分からない。……ゆっくり考えるさ。俺の人生は、まだ始まったばかりだからな」
井上は微笑んだ。
それは、計算された冷徹な「井上健太郎」の笑みでもなく、卑屈な「灰谷守」の笑みでもない。
憑き物が落ちたような、一人の普通の男の、純粋な笑顔だった。
夜が明けていく。
窓の外の空が、白み始めている。
地獄への片道切符は、確かに敵へと手渡した。
だが、この部屋にいる者たちの手には、まだ真っ白な、未来への切符が握られているのだ。




