第46話 二度目の遺言状
時計の針を、決戦当日の朝に戻そう。
アマン東京のスイートルーム。
まだ夜が明けきらない薄暗いキッチンで、井上健太郎は一人、静かな戦いを繰り広げていた。
大理石のカウンターの上に打ち粉を振り、麺棒で生地を伸ばしていく。
作っているのは『パステル・デ・ナタ』。
ポルトガル発祥の伝統的なお菓子、エッグタルトだ。
しかし、市販の冷凍パイシートなど使うはずがない。井上は前日の夜から、小麦粉と水と塩だけのシンプルな生地を練り、そこに室温に戻した無塩バターを折り込む作業を繰り返していた。
生地を伸ばし、バターを塗り、三つ折りにする。
冷蔵庫で休ませては、また伸ばして折る。
何層にも、何層にも。
途方もない手間と時間をかけて、空気とバターの薄い層を無数に作り上げていく。
それはまるで、井上がこの数ヶ月間、西園寺家に対して幾重にも張り巡らせてきた「嘘」と「罠」のようだった。
「……そろそろか」
井上は薄く伸ばした生地を筒状に巻き、端から均等に切り分けた。
それを小さなタルト型に押し当て、親指の腹を使って縁まで薄く引き伸ばしていく。
次は中身のクリームだ。
鍋に牛乳と生クリーム、そしてたっぷりのグラニュー糖を入れる。
ここでの決め手は香り付けだ。シナモンスティックと、大きく削ったレモンの皮を放り込み、弱火で香りを移していく。
沸騰する前に火から下ろし、卵黄だけを贅沢に使ったボウルに少しずつ注ぎ入れて滑らかに混ぜ合わせる。
レモンの爽やかな香りと、シナモンのエキゾチックな香りが、濃厚な卵と絡み合う。
タルト型にクリームを八分目まで注ぎ込み、250度に予熱した高温のオーブンへ投入する。
パステル・デ・ナタの命は、表面の「焦げ目」にある。
高温で一気に焼き上げることで、パイ生地は花びらのようにサクサクに膨らみ、表面のカスタードは黒くキャラメリゼされるのだ。
「ミャァ……」
甘く香ばしい匂いに誘われたのか、仔猫のハイが寝ぼけ眼でキッチンにやってきた。
井上の足元にすり寄り、オーブンを見上げて鼻をひくつかせている。
「待て。お前の朝飯は別だ」
井上はハイを撫で、専用のカリカリを与えた。
15分後。
チーン、という音と共にオーブンの扉を開ける。
熱気と共に、圧倒的なバターの香りがリビングに充満した。
タルトの表面には、見事な焦げ目がついている。
クリームはグツグツと沸騰し、パイ生地は幾重にも層をなして黄金色に輝いていた。
「完成だ」
井上は熱々のタルトを皿に乗せた。
さて、飲み物だ。
本来なら濃いエスプレッソや、ポルトガルのポートワインを合わせるのが王道だが、買い置きのワインは昨夜で切らしていた。
井上はリビングの隅にある、ホテルのミニバーを開けた。
小さなボトルのウイスキーやジン、コーラなどが並んでいる。
井上はその中から、ミニチュアボトルの『マッカラン12年』と、ジンジャーエールの瓶を取り出した。
グラスに氷を入れ、マッカランを注ぐ。
そこにジンジャーエールを静かに満たし、軽くステアする。
即席のウイスキー・バック。
朝から強い酒と、激甘のタルト。
だが、これから血で血を洗う戦場に向かう男の「最後の朝食」としては、この上なく相応しい。
「……いただきます」
井上は焼きたてのパステル・デ・ナタを指でつまみ、そのままかぶりついた。
サクッ、バリッ!
幾重にも重なった極薄のパイ生地が、口の中で弾け飛ぶ。
その瞬間、中から熱々のカスタードクリームがトロリと溢れ出した。
濃厚な卵黄のコク。しかし、レモンとシナモンの香りが効いているため、決してくどくない。
焦げた表面のキャラメルの苦味が、甘さを引き締めている。
火傷しそうに熱い甘味を堪能した直後、井上はウイスキー・バックを流し込んだ。
シュワッと弾ける炭酸。
ジンジャーの辛味と、マッカランの芳醇なシェリー樽の香りが、口の中に残るバターの脂を鮮やかに洗い流す。
甘さの後に来る、冷たくて鋭いアルコールの刺激。
それは、脳を極限まで覚醒させる魔法のペアリングだった。
「……最高だ」
井上は大きく息を吐き出した。
生地を何層も重ねるように、嘘と罠を重ねてきた。
その全てが、今日、高温のオーブンの中で一気に焼き上がるのだ。
「今日で、俺の役目は終わる」
井上は残りのタルトを口に放り込み、グラスを空にした。
そして、洗面台に向かい、完璧な「井上健太郎」の仮面を被るための準備を始めた。
鏡の中の男は、冷酷な死神の顔をしていた。
そして、現在。
帝都ホテルのメインバンケット『孔雀の間』。
地獄の釜の蓋は、すでに完全に開ききっていた。
巨大スクリーンに映し出された不正の証拠と、林優香による悲痛な告発。
蜘蛛の子を散らすように逃げ去った招待客たち。
山崎桃子による「認知症」の診断と、メイドの茉莉による裏切りによって、社会的発言権を完全に剥奪された女帝・西園寺貴子。
そして、清水南から「詐欺罪」と「資産の差し押さえ」を宣告され、井上の正体という理不尽な恐怖に直面し、ショックで失神した西園寺麗華。
かつて栄華を極めた西園寺家は、文字通り、骨の髄まで解体された。
「……あ、あぁ……私の……私の会社が……」
床に這いつくばる貴子は、自分の髪を掻きむしりながら、涎を垂らして呻いている。
桃子の薬によって脳のタガが外れ、完全に狂人と化した老婆。
数時間前まで、自分が世界の頂点にいると信じて疑わなかった女の、あまりにも無惨な末路。
井上健太郎は、失神して泥のように横たわる麗華と、狂乱する貴子を、氷のような目で見下ろしていた。
傍らには、南、桃子、舞永、優香が並び立ち、この歴史的な崩壊劇を無言で見届けている。
「……終わりましたね、井上さん」
南が、眼鏡のブリッジを押し上げながら静かに言った。
彼女の手には、西園寺家を法的に縛り上げるための数々の書類が握られている。
「ああ。……だが、最後に一つだけ、渡しておくものがある」
井上は、ミッドナイトブルーのタキシードの内ポケットに手を差し入れた。
そして、一通の封筒を取り出した。
上質な和紙で作られた、重厚な封筒。
井上はその封筒を、床で蠢く貴子の目の前に、パラリと落とした。
「……何、これ……?」
貴子が濁った目で、封筒を見つめる。
井上はゆっくりとしゃがみ込み、彼女の耳元で囁いた。
「『遺言状』だよ」
遺言状。
その言葉の響きに、貴子の体がビクリと跳ねた。
「これは、君たち西園寺家が、この社会に対して残す最後の言葉だ。……いや、社会的に死ぬ君たちへの、俺からの『宣告書』と言った方が正しいか」
井上の脳裏に、前の人生の最期の夜が蘇る。
猛に無理やりペンを握らされ、身に覚えのない横領の罪を被る『始末書』にサインさせられた時の、あの絶望と屈辱。
あの日、灰谷守という人間は、彼らの手によって存在を消された。
だから今度は、俺が消す番だ。
「中身を教えてやろう。……西園寺家という法人の解体と、君たち個人の全資産の剥奪。そして、経営から永久に退くという誓約だ」
井上の言葉は、死神の鎌のように鋭く、容赦がなかった。
「な……ふ、ふざけるな……! そんなもの、私が認めるはずが……!」
「貴女が認める必要はありませんよ、西園寺貴子氏」
南が一歩進み出て、冷酷に告げた。
「貴女の隠し資産や不動産は、特別背任および脱税の容疑で、すでに国税局と特捜部によって差し押さえの手続きが進んでいます。さらに、帝都グループは貴女に対して巨額の損害賠償を請求する。貴女に残されるのは、莫大な借金だけです」
「……っ!」
「そして、そちらで横たわっている麗華氏。……彼女が数日前に交わした『出資契約書』。その特約条項には、重大な背信行為があった場合、彼女が保有する全ての帝都グループ株式および個人資産を、K.I.ホールディングスへ譲渡するという『代物弁済予約』が仕込まれていました」
南はアタッシュケースから書類の束を取り出した。
「今回の数々のスキャンダルは、明白な背信行為に当たります。そして麗華氏は、この契約書に自ら署名し、実印を押した。私はこれに公証役場で『確定日付』を取ってあります。つまり、法的にいかなる反論も許されない、絶対的な効力を持つ契約です」
氷の弁護士が編み上げた、悪魔の契約と法的ロジック。
麗華が「愛」だと信じてサインしたその紙切れは、彼女自身の命脈を断ち切るギロチンの刃だったのだ。
「う、嘘よ……そんなの無効よ! 騙したのね!」
貴子が発狂したように叫ぶ。
「騙される方が無能なのです。……法は、知らぬ者を救わない」
南は吐き捨てるように言った。
「貴女方はもう、一円の財産も持たない、ただの犯罪者です。……このホテルから一歩出れば、住む家すらありません」
全てを失った。
金も、権力も、地位も。
貴子はようやく、その圧倒的な現実を理解した。
自分の城が、完全に焼け落ちたことを。
「あ……あぁぁ……」
貴子の口から、絶望の嗚咽が漏れた。
彼女は床に顔を擦り付け、狂ったように床の絨毯を掻きむしった。
「許して……助けて……! 私の、私のお金……!」
「許さない。……誰一人、何一つ」
井上は立ち上がり、冷徹に見下ろした。
1周目の人生で、彼らが灰谷守に下したのと同じ判決を、今、この手で下したのだ。
「それが、二度目の遺言だ。……地獄の底で、永遠にその紙切れを抱いて生きろ」
井上の言葉が、広大なバンケットに静かに響き渡った。
それは、完璧な復讐の完成を告げる、静かで残酷なフィナーレだった。
ステージの後方では、スクリーンに映し出された帝都グループのロゴが、ノイズと共に崩れ去っていく映像が流れていた。
木村心の、最後の粋な演出だ。
井上は背を向けた。
もう、このゴミ屑たちに用はない。
彼が歩き出すと、南、桃子、舞永、そして優香も、その後ろに続いた。
残されたのは、意識を失った令嬢と、狂乱する老婆、そして、絶対的な効力を持つ「二度目の遺言状」だけだった。




