第45話 悲鳴と絶叫
時計の針を、決戦の数日前に戻そう。
秋晴れの午後。東京・銀座の高級フルーツパーラーの奥まった個室に、井上健太郎と林優香は向かい合って座っていた。
テーブルの中央には、芸術品のように美しく盛り付けられた『シャインマスカットと秋果実のパフェ』が二つ置かれている。
大粒の翡翠色をしたマスカット、黄金色の和梨、そして無花果。最高級の果実たちが、滑らかな生クリームとジェラートの層に彩られている。
「……すごい。宝石箱みたいですね」
優香は目を輝かせ、パフェを見つめていた。
今日の彼女は、清楚なブラウスにカーディガンという、年齢相応の女子大生らしい服装だった。
西園寺猛を破滅へと追いやった「告発会見」から数週間。
彼女を取り巻く環境は激変していた。
悲劇のヒロインとして世間の同情を一身に集めた彼女の元には、メディアからの取材依頼や、ドラマ・映画への出演オファーが殺到していたのだ。
かつて彼女を食い物にしていた悪徳事務所の社長・権藤は、井上の資金と舞永の暴力によって手を引き、彼女は今、南が用意したクリーンなエージェントと契約を結び直している。
「食べてみてくれ。……今の君に相応しい、勝利の味だ」
井上が促すと、優香は長いスプーンを手に取り、マスカットとクリームを一緒にすくい上げて口に運んだ。
「……んっ! 甘くて……すごく瑞々しいです」
「秋の果実は、厳しい夏を越えて甘みを蓄える。……君と同じだ」
井上もパフェを口にした。
爽やかな酸味と、上品な甘さ。
これまでに彼がアマンのキッチンで振る舞ってきた、暴力的なまでの刺激を持つ料理とは違う、純粋で優しい味だ。
それは、復讐という泥沼から這い上がり、新しい人生を歩み始めようとしている彼女への、井上なりの餞だった。
「……井上さん」
優香はスプーンを置き、真っ直ぐに井上を見つめた。
その瞳は、猛の愛人をしていた頃の怯えた色を完全に払拭し、強い意志の光を宿している。
「本当に、ありがとうございました。……貴方のおかげで、私は私の人生を取り戻すことができました」
「俺はきっかけを与えたに過ぎない。……あの舞台で、見事な演技で世界を騙し切ったのは、君自身の力だ」
井上はコーヒーを一口啜った。
「君はもう、過去に縛られる必要はない。女優として、光の当たる道を歩めばいい。……だから、明日の『最終回』には来なくていいんだぞ」
井上は優しく言った。
明日の婚約披露宴での断罪ショー。それは血と絶望が飛び交う、醜い修羅場になる。
優香の役割は、すでに猛を失脚させた時点で終わっているのだ。
だが、優香は首を横に振った。
「いいえ、行きます。……最後まで、見届けたいんです」
優香は少しだけ身を乗り出した。
「井上さんが、どれだけ深い闇を抱えているのか……私には想像することしかできません。でも、貴方が私を暗闇から引っ張り上げてくれたように、今度は私が、貴方が復讐を終えて『こちら側』に帰ってくるのを、ちゃんと見ていたいんです」
その言葉に、井上は微かに目を細めた。
復讐の道具として拾った小鳥が、いつの間にか、立派な相棒の顔をしている。
「……好きにしろ。ただし、血飛沫が飛んできても文句は言うなよ」
「はい。……私、もう何も怖くありませんから」
優香は微笑み、再びパフェに手を伸ばした。
甘く、瑞々しい秋の味覚。
だが、これから彼らが向かう宴は、このパフェのように甘くは終わらない。
そして、現在。
帝都ホテルのメインバンケット『孔雀の間』。
井上健太郎が自らの正体を「今年の春に辞めた平社員の灰谷」だと明かした直後。
会場には、西園寺貴子の正気を失った奇声だけが響き渡っていた。
「あ、あははは……! 虫が……無数の羽虫が這い上がってくるわ……!」
貴子は自分の髪を掻きむしり、よだれを垂らしながら、無様に絨毯の上を転げ回っている。
顔も覚えていない元社員の異常な怨念によって自分の帝国が崩壊したという事実、そして長年盛られ続けた薬の効果が相まって、女帝の精神は完全に砕け散っていた。
もはや彼女には、誰かに命令を下す理性も、人間としての尊厳すら残っていない。
「……あらあら、完全に壊れちゃったわね」
その時、ステージの袖から、気怠げな足音と共に一人の女性が現れた。
白衣を羽織り、医療用のアタッシュケースを手にした山崎桃子だ。
彼女はタバコの代わりにチュッパチャプスをくわえながら、転げ回る貴子の前にしゃがみ込んだ。
「ひっ! 触るな! 寄るなぁ!」
貴子が暴れるが、桃子は顔色一つ変えずにペンライトを取り出し、強制的に瞳孔の反射を確認した。
「……あーあ、酷い状態。瞳孔の反応も鈍いし、幻覚まで見てる。……残念だけど、この人、典型的な『若年性認知症』の末期症状が出てるわよ」
桃子はわざとらしく、会場に残ったマスコミたちにも聞こえる大声で宣告した。
それは医学的な診断という名を借りた、社会的死の宣告だった。
「正常な人間が、何もない空間に向かって『虫がいる』なんて叫んだりするかしら?」
背後から、メイドの池田茉莉が静かに言葉を添えた。
「奥様。最近の貴女は本当におかしかった。……深夜に徘徊したり、金庫のパスワードを忘れたり。もう、経営トップとしての判断能力は皆無かと存じますわ」
信頼していたメイドからの致命的な証言。
もちろん、全ては茉莉が紅茶に混ぜ続けてきた「毒」のせいなのだが、客観的な事実として、貴子の異常行動は屋敷の誰もが目撃していた。
桃子の診断と茉莉の証言により、西園寺貴子の「発言権」は完全に剥奪された。
今後、彼女が何を言おうと、法廷でも社会でも「認知症患者の妄言」として処理される。
「さて、医療的アプローチは済んだわ。……あとは法廷の出番ね」
桃子が一歩下がると、入れ替わるように、ピンストライプのスーツを着た清水南が進み出た。
彼女は氷のような美貌のまま、アタッシュケースを開いた。
一方、純白のウェディングドレスを泥と埃で汚し、腰を抜かしたまま震え続けている麗華。
彼女の心は、井上の口から語られた「底知れぬ狂気」によって完全にへし折られていた。
それでも、目の前の現実を受け入れきれず、すがるように井上を見上げる。
「嘘よ……! 健太郎さん、いや、貴方が誰でもいいわ! 私を愛してるって……助けてくれるって言ったじゃない!」
「……お静かに、西園寺麗華氏」
南は分厚い書類の束を取り出し、麗華の足元にドサリと落とした。
「先ほど申し上げた通り、貴女方への特別背任および脱税の刑事告発はすでに完了し、受理されています。……さらに麗華氏、貴女個人には『詐欺罪』での民事訴訟も用意してあります」
「さ、詐欺……!?」
「ええ。井上代表の資産を狙い、経営権を譲渡するふりをして巨額の出資を引き出した、極めて悪質な結婚詐欺です。……貴女がサインした契約書の特約に基づき、貴女の個人資産は全て差し押さえられます」
完全な言いがかりだ。
騙したのは井上の方であり、麗華は踊らされていたに過ぎない。
だが、南が作成したあの「悪魔の契約書」には、麗華が自ら責任を負うような巧妙な抜け穴が幾重にも仕掛けられていた。
法廷闘争になれば、絶対に勝てない。
「そ、そんな……いやよ……! 私のドレスが……私の会社が……!」
麗華は髪を振り乱し、這いつくばって井上の足にすがりついた。
「お願い……見捨てないで! 何でもするから! 本当に愛してるの!」
「……愛? 冗談だろう」
井上の口から出たのは、絶対零度の声だった。
「俺が愛したのは、君たちが持っていたその『玉座』だけだ。……他人の尊厳を喰い物にして太るだけの寄生虫に、愛を語る資格はない」
その言葉が、最後のトドメとなった。
麗華は喉の奥で「ヒッ、ヒュッ」という痙攣のような音を立て、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
ショックによる完全な失神。
貴子もまた、自分の髪を掻きむしりながら、獣のような咆哮を上げて床を転げ回っている。
悲鳴と絶叫。
かつて彼らが、多くの弱者たちに強いてきた地獄の風景。
それが今、ブーメランとなって彼女たち自身を切り裂いている。
井上は静かに、その光景を見下ろしていた。
傍らには、南、桃子、舞永、そして優香が並び立っている。
地下からは心が、ネットの向こう側からは冴子が、この完璧な処刑劇を見届けている。
宴は終わった。
西園寺家は、文字通り骨の髄まで解体されたのだ。




