第44話 仮面を脱ぐ時
時計の針を、決戦の二日前に戻そう。
秋の夜風が心地よい、東京・外苑前。
銀杏並木が続く通り沿いにある、テラス席を備えた本格的なハンバーガーショップ。
井上健太郎は、そのテラス席で、目の前の少女――木村心と向かい合っていた。
「……美味っ! なにこれ、肉汁ヤバい!」
心は、顔の半分ほどもある巨大な『ダブル・スマッシュバーガー』に両手でかぶりつき、目を輝かせていた。
鉄板で押し付けるようにカリカリに焼かれたビーフパティが二枚。その間から、濃厚なチェダーチーズが滝のように溶け出している。
彼女は口の周りにソースをつけるのも構わず、無我夢中で咀嚼していた。
「ゆっくり食え。誰も取らない」
「だって、美味しいんだもん! アマンのルームサービスもいいけど、やっぱりジャンクフードは外で食べるのが一番だね」
心はハンバーガーを飲み込み、傍らに置かれた『トリプル・チョコレートシェイク』をストローで勢いよく吸い上げた。
カロリーと糖分の暴力。
17歳の成長期とはいえ、恐ろしい食欲だ。
井上は苦笑しながら、自分用に頼んだブラックコーヒーを啜った。
「で? 今日はわざわざ『デート』に誘ってくれて、何のおごり?」
「……前祝いだ」
井上はコーヒーカップを置いた。
「明後日は、いよいよ婚約披露宴だ。……君の腕がなければ、ここまで来られなかった。その労いだよ」
「ふーん。おっさんにしては気が利くじゃん」
心はフライドポテトをチーズソースにディップしながら、上目遣いで井上を見た。
そのアイスブルーの瞳には、いつもの生意気な光の中に、微かな気遣いの色が混じっていた。
「……ねえ、井上さん」
「なんだ?」
「本当にやるの? ……明後日のショーで、帝都グループは完全に終わる。でも、それはアンタが表舞台に立つってことでもあるんだよ」
心の言う通りだ。
これまで「K.I.ホールディングス」という幽霊会社を隠れ蓑にしてきたが、株主総会で実権を握り、西園寺家を追放すれば、井上健太郎という男は否応なく日本経済の表舞台に引きずり出される。
「アンタの素性は、私たちが完璧に偽造した。でも、目立てば目立つほど、どこからボロが出るか分からない。……『灰谷守』だった過去が、バレるかもしれない」
心は、数年前に路地裏で出会った「死にそうな顔をしたサラリーマン」の面影を、目の前の完璧な男の顔に重ね合わせるように見つめた。
今年の春、井上はチーム全員に真実を告げた。
前の人生で、西園寺家に10年間犬のように扱われ、最後は雪の降る山道で殺されたという、荒唐無稽だが凄惨な事実を。
心はその痛みを共有している。一度殺され、顔まで変えて地獄から這い上がってきた男が、復讐の果てにまた何かを失ってしまうのではないかと、彼女なりに危惧していたのだ。
「……バレたところで、何も変わらないさ」
井上は静かに答えた。
「俺は、あの日……今年の春に、全てを捨てたんだ。顔も、名前も、過去も。……残っているのは、奴らを地獄に落とすという目的だけだ」
「……そっか。一度殺された魂の落とし前、ってやつだね」
心は納得したように頷き、最後に残ったハンバーガーの欠片を口に放り込んだ。
「分かった。……なら、私は最高のステージを作ってあげる。アンタが一番輝ける、そしてアンタを殺した奴らが一番惨めに泣き叫ぶステージをね」
「頼もしい相棒だ」
井上は微笑み、紙ナプキンを心に差し出した。
心はそれを受け取り、口元を乱暴に拭うと、ニカっと笑った。
「デートのおごり、ごちそうさま! ……さあ、帰って最終調整するよ!」
そして、現在。
帝都ホテルのメインバンケット『孔雀の間』。
血と暴力の匂いが充満する中、最後の暴動は鎮圧された。
森舞永によって全滅させられた西園寺家の私兵たちが、床の上で苦痛に呻いている。
メイドの池田茉莉から『チェックメイト』を宣告され、最後の希望を断たれた女帝・西園寺貴子は、完全に精神を崩壊させていた。
「あ……ああ……私ノ、私の会社ガ……」
貴子は床に這いつくばったまま、虚空を見つめてブツブツとうわ言を繰り返している。
山崎桃子が盛った薬と、絶望のコンボ。彼女の脳は現実を処理できず、幻覚の世界へと逃避していた。
そして、そのすぐ傍ら。
純白のウェディングドレスを泥と埃で汚し、腰を抜かしている西園寺麗華。
彼女はガタガタと歯の根を鳴らしながら、目の前に立つ井上健太郎を見上げていた。
「……あなたは、一体誰なの……?」
麗華は絞り出すような声で問うた。
自分に愛を囁き、会社を救ってくれると約束した完璧な王子様。
だが、その男が今、自分たちを騙し、会社を乗っ取り、全てを破壊した。
なぜ? 何の目的で?
「……誰、か」
井上は麗華の問いを反芻するように呟いた。
そして、ゆっくりと彼女たちの前へと歩み出た。
舞永が一歩下がり、南と優香も息を呑んでその背中を見つめる。
井上は、ピンと伸びていた背筋を、ほんの数センチだけ丸めた。
肩の力を抜き、首を少し前に出す。
そして、常に余裕を湛えていたその完璧な美貌から、一切の「表情」を削ぎ落とした。
代わりに浮かび上がったのは、何者かに怯えるような、卑屈な、それでいて底知れぬ暗い執念を宿した「弱者の顔」。
「……」
場が静まり返る中、井上が口を開いた。
その声は、これまで彼が使っていた深みのあるバリトンボイスではなかった。
少し甲高く、語尾が消え入りそうに震える、聞き覚えのない声。
「……当然、私のことなど覚えていないでしょうね。西園寺会長」
その声色が響いた瞬間。
狂乱状態だった貴子の動きが、ピタリと止まった。
麗華の瞳孔が、極限まで見開かれる。
「……え?」
麗華の口から、間の抜けた声が漏れた。
目の前のこの見知らぬ投資家が、突然、場違いなほど卑屈な平社員のような声を出したからだ。
「な、何を言っているの……? 貴方、一体……」
貴子が濁った目で井上を見上げた。
「……今年の春まで、帝都グループの総務部にいた、灰谷です」
灰谷。
その名前を聞いても、貴子と麗華の反応は鈍かった。
「はい……たに……? 誰よ、それ……」
麗華が首を振る。
無理もない。数万人の従業員を抱える巨大グループの、一介の平社員。
しかも彼は、今年の4月に自主退職し、彼女たちの視界にすら入る前にこの世界から姿を消した男だ。
彼女たちにとって、灰谷守という人間は、文字通り「存在しない」も同然だった。
「知らないか。……当然だろうね。君たちにとって、下の人間はただの背景でしかないのだから」
井上は、いや、灰谷守は、かつて別の人生でこの屋敷で浮かべていた、あの惨めな愛想笑いを口元に張り付けた。
「ど、どうして……。ただの元社員が、なんで私たちをこんな目に……!」
麗華の頭は混乱の極みにあった。
ただの平社員が、なぜ自分たちにそこまでの恨みを抱くのか。
接点など何一つないはずだ。
理解できない。理解できないからこそ、その理不尽な執着が、彼女の恐怖を何倍にも増幅させた。
「……君たちには、身に覚えがないかもしれない」
守は、麗華の名前を、親しげに、そして残酷に呼んだ。
「でも、僕は覚えている。君たちに犬のように扱われ、尊厳を踏みにじられ、そして……雪の夜に、ゴミのように捨てられた痛みを」
守の言葉は、1周目の人生で受けた地獄の記憶だ。
彼女たちには、その真意は絶対に分からない。
ただ、「全く身に覚えのない、異常なまでの怨念」を抱き、顔まで変えて自分たちを破滅させに来た狂人が目の前にいるという事実だけが、強烈な説得力を持って彼女たちの脳に突き刺さった。
「ひっ……! 狂ってる……! なんなのよ、アンタ……!」
麗華は両手で顔を覆い、後ずさった。
自分が先日のパーティーで一目惚れし、体を許し、結婚を誓った相手。
それが、見ず知らずの平社員だった男の「狂気」によって作られた偽りの姿だった。
底知れぬ恐怖が、彼女の薄っぺらい自尊心を、根底から粉々に粉砕した。
「……あ、あはは……ただの社員が……? 私の会社を……?」
貴子は壊れたように笑い出した。
「馬鹿な……こんな、こんな理不尽な理由で……私の帝国が……奪われるなんて……」
貴子は自分の髪を掻きむしり、よだれを垂らしながら床を転げ回った。
女帝のプライドは完全に消え失せ、残ったのは無様な狂人の姿だけだった。
守は、その光景を静かに見下ろしていた。
仮面は脱ぎ捨てた。
井上健太郎という偽りの王子様は消え、そこにいるのは、地獄から這い戻ってきた灰谷守の亡霊だ。
「……これで、終わりだ」
守は呟き、再び背筋を伸ばした。
卑屈な笑みは消え、元の冷徹な井上健太郎の顔に戻る。
復讐の宴は、最高のカタルシスと共に、終幕を迎えようとしていた。




