第43話 赤絨毯の乱闘
帝都ホテルでの「断罪ショー」が進行する中、一足先に地下のセキュリティ制御室を撤収した木村心は、アマン東京のスイートルームへと帰還していた。
すでに彼女の「情報拡散」という任務は完璧に果たされ、ネット上は西園寺家のスキャンダルで炎上状態となっている。残るは、現場の井上たちによる直接的な制圧だけだ。
「……ふぅ、疲れたー」
心はリュックサックをソファに放り投げ、大きく伸びをした。
すると、寝室の方からトテトテという軽い足音が聞こえてきた。
「ミャウ!」
お留守番をしていた仔猫のハイだ。
美しいシルバータビーの毛並みを揺らし、尻尾をピンと立てて心を出迎える。
だが、ハイは心の足元まで来ると、ピタリと動きを止め、鼻をクンクンとひくつかせた。
見知らぬ匂いがする。それも、自分と同じ「猫」の匂いだ。
「あ、そうだ。ハイちゃん、紹介するね。今日からアンタの弟分だよ」
心は着ていたパーカーの大きめのポケットから、黒い小さな毛玉を取り出した。
地下制御室で拾った、漆黒の野良猫。
先ほど心が直感で「ロー」と名付けた仔猫だ。
心を介して、ハイとローは床の上で向かい合った。
生後数ヶ月のハイに比べ、ローはさらに一回り小さい。
だが、路地裏で生き抜いてきたローは、警戒心剥き出しだった。全身の黒い毛をタワシのように逆立て、背中を弓なりに反らせる。
「シャーッ!」
威嚇の鳴き声。
ハイはビクッとして耳を伏せ、後ろに数歩飛び退いた。
温室育ちのハイにとって、こんなに攻撃的な同族を見るのは初めてだ。オロオロと困ったように心を見上げる。
心は笑いを堪えながら、床に座り込んだ。
「大丈夫だよ、ハイちゃん。ローはちょっと人見知りなだけだから。……ほら、ローも威嚇しないの」
心がローの背中を優しく撫でると、ローは少しだけ毛の逆立ちを収めたが、まだ金色の瞳でハイを睨みつけている。
すると、ハイが勇気を振り絞ったように、再びゆっくりとローに近づいていった。
へっぴり腰で、いつでも逃げられる体勢だ。
ローが小さく「フゥーッ」と唸るが、ハイは立ち止まらず、ギリギリまで顔を近づけた。
「……ニャッ」
ハイが小さく、友好的な声を出した。
そして、自分の湿ったピンク色の鼻先を、ローの黒い鼻先にチョンとくっつけた。
猫の挨拶、ノーズキスだ。
ローは目を丸くして固まっていたが、ハイから敵意がないことを悟ったのか、徐々に体の力を抜いていった。
そして、今度はローの方から、ハイの首筋の匂いを嗅ぎ始めた。
ハイはされるがままに立ち尽くし、やがて安心したように喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
数分後には、ハイのふわふわの尻尾にローがじゃれつき、二匹でラグマットの上を転げ回るという、平和で尊い光景が繰り広げられていた。
「……うん、仲良くなれそうでよかった」
心は冷蔵庫からコーラを取り出し、ソファに座って二匹の戯れを眺めた。
路地裏で死にかけていたハイと、地下室で震えていたロー。
自分たちと同じ、捨てられた者同士の小さな家族。
「おっさんが帰ってきたら、またデレデレに甘やかすんだろうなぁ」
心はクスリと笑い、手元のタブレットを開いた。
画面には、帝都ホテル『孔雀の間』の監視カメラ映像が映し出されている。
こちらの平和なリビングとは対極の、血と絶望に塗れた修羅場の映像が。
帝都ホテル、メインバンケット『孔雀の間』。
井上健太郎から冷酷に『チェックメイト』を宣告された西園寺貴子は、床に這いつくばったまま、ピクリとも動かなくなった。
招待客は逃げ去り、忠実だったはずのメイドは裏切り、ホテルの正規警備員はすでに制圧されている。
全てを失い、完全に詰んだ状態。
誰もが、女帝の心が折れたのだと思った。
だが。
「……く、くくっ……あはははは!」
貴子の口から、乾いた笑い声が漏れた。
それは徐々に大きくなり、やがて狂気を帯びた哄笑となって、高い天井に響き渡った。
「チェックメイトですって? 思い上がるな、小僧……!」
貴子は血走った目で井上を睨み上げ、ゆっくりと上体を起こした。
その顔は、薬の副作用と極度のストレスで異様に歪んでいる。
「私が、この程度のことで終わるはずがないでしょう! 私は常に『最悪の事態』を想定しているのよ!」
貴子は、ドレスの胸元――その裏地に縫い付けられていた、極小のスイッチを強く押し込んだ。
それは、茉莉の身体検査や監視の目すらも潜り抜けていた、貴子自身しか存在を知らない「最後の保険」だった。
「お前たちが警備を排除したことくらい、計算済みよ! ……来なさい! 帝都の掃除屋たち!」
その絶叫が響いた、直後だった。
ドォォォン!!
施錠されていたはずの『孔雀の間』の重厚な両開きの扉が、外側から爆発したように蹴破られた。
土足で踏み込んできたのは、黒いタクティカルスーツに身を包んだ10名以上の男たちだった。
彼らはホテルの正規の警備員ではない。
顔には目出し帽を被り、手には特殊警棒やスタンガン、さらには殺傷能力のあるボウガンまで構えている。
西園寺貴子が、多額の裏金を使って飼い殺しにしている、裏社会の私兵部隊。
企業の暗部を物理的に消し去るための、真の暴力装置だ。
「なっ……!?」
「奥様、いけません!」
想定外の伏兵の登場に、茉莉が驚愕の声を上げ、南が反射的にアタッシュケースを盾にして優香を庇う。
麗華は悲鳴を上げて頭を抱えた。
「やれ! こいつらを全員殺せ! 証拠も何もかも、跡形もなく消し去りなさい!」
貴子の命令を合図に、私兵たちが一斉に井上たちに向かって殺到してきた。
殺意の塊。ただのチンピラとは違う、実戦に慣れたプロの動きだ。
井上は一歩も引かず、冷ややかに迫り来る男たちを見据えていた。
彼が動くより早く、黒い影が前に出た。
森舞永だ。
「……退屈してたところよ。ちょうどいいわ」
舞永はブラック・ベルベットのイブニングドレス姿のまま、優雅な足取りで男たちの前に立ち塞がった。
「女ァ! 邪魔だ、引っ込んでろ!」
先頭の男が、容赦なく特殊警棒を舞永の頭部へ振り下ろした。
だが、舞永はそれを片手で軽く受け流すと、ニヤリと笑った。
「いい運動になりそうね」
次の瞬間。
ビリィッ!
舞永はドレスの長いスリットを両手で力任せに掴み、太ももの付け根まで一気に破り捨てた。
可憐なドレス姿が、一瞬にして戦闘用の装いへと変貌する。
露わになった美しくも引き締まった脚には、タクティカルホルスターが装着されており、そこには黒光りするカランビットナイフが収まっていた。
シャキンッ。
舞永は流れるような動作でナイフを引き抜き、逆手に構えた。
「さあ、踊りましょうか」
そこからは、文字通りの蹂躙だった。
男が突き出してきたスタンガンを紙一重でかわし、舞永は懐に潜り込む。
刃の付いていないナイフの柄で、男の肘の関節を正確に打ち抜く。
ゴキッ! という鈍い音と共に、男の腕があり得ない方向に曲がる。
「ぎゃあぁぁぁっ!」
「はい、一人」
悲鳴を上げる男を蹴り飛ばし、舞永は次の標的へ向かう。
ボウガンを構えた男に対しては、壁を蹴って三角跳びの要領で宙を舞い、ハイヒールの踵を男の側頭部にクリーンヒットさせた。
男は白目を剥いて吹き飛び、高級なビュッフェテーブルを粉砕して沈黙する。
「な、なんだこの女! 強すぎ――」
「バカ野郎、囲め! 囲んで叩き潰せ!」
残りの男たちが連携し、前後左右から一斉に襲いかかる。
だが、元傭兵として中東の最前線を渡り歩いてきた舞永にとって、この程度の包囲網は児戯に等しかった。
彼女は蝶のように舞い、蜂のように刺す。
美しいブロンドの髪を振り乱し、狂気に満ちた笑い声を上げながら、男たちの急所――膝、顎、肩関節――を次々と破壊していく。
刃で殺すことはしない。
だが、再起不能の絶痛を与える。
舞永の蹴りが男の顎を砕き、肘打ちが肋骨を陥没させる。
血飛沫が舞い、元々赤かった絨毯を、さらに濃い真紅へと染め上げていく。
「アハハハハ! もっと! もっと本気でかかってきなさいよ!」
アドレナリンが沸騰し、狂犬の本性を完全に剥き出しにした舞永は、歓喜の声を上げながら男たちを蹴散らしていく。
その光景は、恐ろしくも美しく、圧倒的な暴力の芸術だった。
わずか3分。
ホテルの広大なバンケットには、10人以上の重武装した私兵たちが、一人残らず床に転がり、苦痛に呻く肉の塊と化していた。
立っているのは、ドレスの裾を血で汚した舞永だけだ。
「……ふぅ。少しは汗かいたかな」
舞永はナイフについた汚れを倒れている男の服で無造作に拭い、ホルスターにカチャリと戻した。
そして、乱れた髪をかき上げながら、井上に向かって艶然とウインクをした。
「お待たせ、ボス。……お掃除、完了よ」
「お疲れ様、舞永。……完璧な仕事だ」
井上は静かに称賛し、再び貴子を見下ろした。
貴子は、膝をついたまま、信じられないものを見るような目で、倒れ伏す自慢の私兵たちを見つめていた。
彼女の最後の切り札。
絶対に負けるはずのない裏の軍隊が、たった一人の女によって、赤子の手をひねるように全滅させられたのだ。
「……あ、あ、ああ……」
貴子の口から、乾いた空気が漏れる。
現実を処理しきれず、脳が完全にフリーズしている。
金も、権力も、暴力も、全てが通じない。
目の前にいる井上健太郎という存在は、彼女の理解が及ばない、絶対的な「絶望」そのものだった。
力が抜け、床に這いつくばる女帝。
その耳元へ、メイドの茉莉が音もなく近づき、しゃがみ込んだ。
「……お分かりいただけましたか、奥様」
茉莉の鈴を転がすような美しい声が、冷たく、そして残酷に響く。
彼女は、かつて仕えていた女主人の耳元に唇を寄せた。
「貴女様が隠し持っていた最後の駒も、今、盤上から取り除かれました」
茉莉は能面のような顔のまま、しかし確かな愉悦を込めて、最後の宣告をした。
「今度こそ、本当のチェックメイトです、奥様」
その言葉が、女帝の精神に最後のトドメを刺した。
貴子の口から、獣のような、あるいは壊れた楽器のような悲鳴が上がり、煌びやかなシャンデリアの光の下へと空しく溶けていった。




