第42話 狂乱の女帝
時計の針を、ほんの数日前に戻そう。
婚約披露宴という名の公開処刑が行われる、3日前の夜。
銀座の裏通りにある、看板のないオーセンティックバー。
重厚なオーク材のカウンターと、壁一面に並べられた琥珀色のボトルの数々。
静かに流れるジャズの音色以外、客の話し声すら響かない、極上の隠れ家だ。
井上健太郎は、カウンターの奥の席でグラスを傾けていた。
『オールド・ファッションド』。
バーボンをベースに、角砂糖とビターズ、そしてオレンジピールで風味付けした、古典的で力強いカクテル。
「……お待たせいたしました、旦那様」
背後から、鈴を転がすような声がした。
井上が振り返ると、そこには目を奪われるような美女が立っていた。
池田茉莉だ。
西園寺家で見せる禁欲的なメイド姿はどこへやら。今夜の彼女は、背中が大きく開いたミッドナイトブルーのベルベットドレスを纏い、髪は艶やかに下ろしている。
薄暗いバーの照明を吸い込むような、深く妖艶な美しさ。
クラシカルでありながら危険な香りを放つ女豹がそこにいた。
「座れ。……今夜は『奥様』の目は気にしなくていい」
井上が隣の席を勧めると、茉莉は優雅な仕草で腰を下ろした。
バーテンダーが、彼女の前に一杯のグラスを置いた。
『ホワイト・レディ』。
ジンをベースに、ホワイトキュラソーとレモンジュースをシェイクした、純白でキレのあるカクテルだ。
「美しいお酒ですね。……まるで、純潔を装う私の嘘のようですわ」
茉莉はグラスの縁を指でなぞり、妖しく微笑んだ。
「お前の嘘は一級品だ。……西園寺貴子という女狐を、見事に手玉に取っている」
井上はオールド・ファッションドの氷をカランと鳴らした。
桃子が調合した薬の混入。盗聴器の管理。そして、猛を精神的に追い詰める最後の一押し。
全ては、この美しきスパイの完璧な手腕によるものだ。
「お褒めにあずかり光栄です」
茉莉はホワイト・レディを一口含み、うっとりと目を閉じた。
「あの一族は、とても扱いやすいのです。他人の言葉を聞かず、自分の見たいものしか見ようとしない。……だから、私が『彼女たちの望む理想のメイド』を演じていれば、疑うことすらしない。滑稽なほどに」
茉莉は目を開け、至近距離から井上を見つめた。
その瞳は、獲物を絡め取る蜘蛛の巣のように甘く、深い。
「ですが……旦那様は違います」
「俺が?」
「ええ。……旦那様は、私の嘘を全て見透かしていらっしゃる。どんなに完璧な仮面を被っても、貴方様の前では丸裸にされている気分になりますわ」
茉莉はドレスの胸元を微かに開くように身を乗り出し、井上の耳元で囁いた。
ジンとレモンの爽やかな香りが、井上の鼻腔をくすぐる。
「私、それがとても心地よいのです。……嘘をつかなくていい、本当の自分でいられる場所。……貴方様の隣こそが、私の居場所だと思っています」
「……」
井上は茉莉の視線を受け止めた。
冷徹なスパイが、一人の女として見せる執着。
それに応えるように、井上は彼女の顎に指を添えた。
「お前の居場所は、俺が保証する。……だが、その前に大仕事が残っているぞ」
「ええ、分かっております。……3日後の披露宴ですね」
茉莉は井上の指に頬を擦り寄せ、冷酷な笑みを浮かべた。
「あの強欲な女帝が、全てを失って泥に塗れる瞬間。……特等席で見届けさせていただきますわ」
「ああ。……お前の最後の大仕事だ。頼んだぞ」
二人のグラスが、音もなく触れ合う。
それは、来るべき処刑の日へ向けた、暗く甘い密約の乾杯だった。
そして、現在。
帝都ホテルのメインバンケット『孔雀の間』。
会場の空気は、シベリアの永久凍土のように凍りついていた。
林優香の悲痛な証言、スクリーンに映し出された裏帳簿と虐待映像、そして清水南による容赦のない法的宣告。
それらが一斉にWebメディアで配信され、招待客たちは泥舟から逃げ出すように会場を後にした。
残されたのは、崩れ落ちた西園寺麗華と、立ち尽くす西園寺貴子。
そして、彼らを見下ろす井上健太郎と、その共犯者たちだ。
「……あり得ない。こんなこと、あり得るはずがないわ……」
貴子は震える両手で自分の顔を覆い、ブツブツと譫言のように呟いていた。
天下の帝都グループが。
自分が築き上げた絶対的な帝国が。
たった一人の、素性の知れない投資家によって、一夜にして灰にされようとしている。
「ふざけるな! 私は西園寺貴子よ! 帝都の女帝よ!」
貴子は顔を上げ、血走った目で絶叫した。
その顔は、上品な化粧が汗と脂で崩れ、恐ろしい老婆のそれに成り果てていた。
彼女の脳は、山崎桃子が仕込ませた「薬」の影響で、すでに正常な判断力を失っている。先ほど、メイドの茉莉から「私の主は最初から貴女ではありません」と明確に裏切りの宣告を受けたという事実すら、パニックの中で脳から抜け落ちていた。
「誰か! こいつらを摘み出せ! 警備は何をしているの!!」
貴子は虚空に向かって腕を振り回した。
この会場には、万が一の暴動に備えて、裏社会の手の者や、強面の私兵を紛れ込ませてあるはずなのだ。
「早くしろ! こいつらを殺しても構わない! 全員、この部屋からつまみ出せぇぇ!!」
狂乱の叫びが、高い天井に空しく反響する。
だが、誰も現れない。
扉は閉ざされたままで、助けに来る者は一人としていなかった。
「茉莉!! 何をしているの!!」
貴子は、すぐ背後に立っているメイドに向かって金切り声を上げた。
自分が先ほど見捨てられたことなど忘れ去り、長年の習慣だけで「従者」に命令を下す。
「お前が呼びに行きなさい! さっさと警備を連れてこいと言っているのよ!!」
その怒鳴り声を受け、茉莉はゆっくりと動いた。
彼女はダークグレーのパンツスーツの襟を正し、貴子の前に進み出た。
そして、まるで女王に拝謁する忠実な騎士のように、背筋を伸ばしたまま、優雅に、完璧な角度で深く一礼をした。
「……畏まりました、奥様」
茉莉の鈴を転がすような声が、静寂の会場に響いた。
従順な返事。
だが。
彼女は一礼した姿勢から顔を上げると、それきり、ピタリと動きを止めた。
一歩も、足を踏み出さない。
ただ、両手を前で組み、能面のような無表情で、貴子の顔をじっと見つめているだけだ。
「……何をしているの! 早く行きなさい!」
「……」
茉莉は動かない。瞬き一つしない。
「聞こえないの!? クビにするわよ! この役立たず!」
「……」
茉莉の無言の圧力に、貴子は後ずさった。
言うことを聞くはずの「道具」が動かない。それは、貴子にとって世界が崩壊するほどの恐怖だった。
「……あ、ああ……」
茉莉の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
それは、忠実なメイドの顔ではなく、銀座のバーで見せた、獲物を弄ぶ女豹の冷酷な笑みだった。
「行く必要など、どこにもございませんよ。奥様」
「な、なに……?」
「すでに『お掃除』は済ませております。……奥様がお呼びの警備の方々は、全員、地下のボイラー室で『快適な睡眠』をとっていらっしゃいますので」
茉莉は、傍らに立つ森舞永の方へ視線を送った。
ドレス姿の舞永が、肩をすくめてウインクをする。
事前に茉莉が警備の配置を全て舞永に漏らし、彼女が単身で裏の私兵たちを制圧させていたのだ。
「そ、そんな……嘘よ……!」
「嘘ではありません。……それに、お忘れですか?」
茉莉は一歩、貴子に近づいた。
その冷たい瞳が、貴子の狂乱する脳を直接覗き込むように射抜く。
「奥様の『お味方』は、もうこの会場には一人もいらっしゃいません。……誰も、貴女のことなど助けはしないのです」
その言葉が、貴子の脳内に致命的なエラーを引き起こした。
助けがない。誰もいない。
「ち、違う! 私には……私には猛がいる! 猛! 猛はどこなの! こいつらを殺しなさい!」
貴子は、自分が無慈悲に切り捨てた息子の名前を叫んだ。
薬による記憶の混濁と、極度のストレスが、彼女に幻覚を見せ始めていた。
「猛様なら、いらっしゃいませんよ」
茉莉が、冷たく、優しく囁く。
「奥様ご自身の手で、精神病院へお送りになったではありませんか。……ご自分の保身のために、実の息子をゴミのように捨てたことを、もうお忘れですか?」
「あ……あぁぁ……」
貴子は頭を抱え、床に蹲った。
目の前の空間が歪む。
猛の怨嗟の声が聞こえる。自分を裏切った役員たちの嘲笑が聞こえる。
そして、軽井沢の療養施設に追いやった夫・厳の、冷たい軽蔑の目が浮かび上がる。
「厳さん……助けて……私を置いていかないで……!」
虚空に向かって、女帝は泣き叫んだ。
王冠を奪われ、ドレスを剥ぎ取られ、醜い本性を剥き出しにして泥を這いずり回る老婆。
「……無様だな」
井上は、その光景を氷のような目で見下ろしていた。
1周目の人生で、自分を絶望の淵に追いやった絶対権力者の、あまりにも呆気なく、惨めな末路。
同情など微塵も湧かない。
あるのは、長い間渇望していた強烈なカタルシスだけだ。
「チェックメイトだ、西園寺貴子」
井上は静かに宣告した。
「お前はもう、帝都の女帝ではない。……自分の名前すら忘れていく、哀れな罪人だ」
凍りつく会場の中、貴子の狂乱の叫びだけが、いつまでも虚しく響き続けていた。




