第41話 凍りつく会場
帝都ホテルの地下3階。
空調システムの低周波音が鳴り響くセキュリティ制御室で、木村心は三つのモニターを同時に操っていた。
メインモニターには、1階の『孔雀の間』で繰り広げられている地獄絵図が映し出されている。
林優香の悲痛な証言が響き渡り、数百人のVIPたちが血の気を失って立ち尽くす姿。
「……いいね、最高のリアクション。全員、固まっちゃってさ」
心はコーラをストローで啜りながら、サブモニターに視線を移した。
そこには、SNSのトレンドワードや、主要なニュースポータルサイトのアクセス状況がリアルタイムで表示されている。
画面の端に、斎藤冴子からの暗号化されたメッセージがポップアップした。
『第一波、着弾。……提携メディア全30社、一斉配信完了。SNSの拡散用ボットも起動したわ』
「了解、冴子さん。……こっちでもトラフィック異常を確認。トレンド1位、独占だよ」
心はキーボードを叩き、トラフィックの波を視覚化したグラフを呼び出した。
『帝都グループ裏帳簿』『西園寺猛・薬物暴行』『トンネル崩落・隠蔽の真実』。
冴子が執筆した、残酷なまでに論理的で、人々の感情を煽り立てる完璧な記事。それが、心の構築したネットワークを通じて、数千万人のスマートフォンへと送り込まれていく。
もはや、どんな権力を使っても、この情報の拡散を止めることはできない。
「……にゃあ」
不意に、無機質な機械音しかしないはずの部屋で、小さな鳴き声が聞こえた。
心はヘッドフォンをずらし、周囲を見回した。
分厚い防音扉は閉まっている。ホテルの警備員たちは、心が流した偽の警報に対応するため、別のフロアに釘付けになっているはずだ。
「……今の、何?」
心は椅子から立ち上がり、サーバーラックの陰を覗き込んだ。
薄暗い埃まみれの床に、黒い小さな塊がうずくまっていた。
仔猫だ。
生後数ヶ月といったところか。全身がカラスの濡れ羽のような漆黒で、金色の大きな瞳だけが闇の中で光っている。
ホテルのバックヤードか、搬入口から迷い込んだのだろうか。
「……おいおい。ここは野良猫のシェルターじゃないっての」
心はため息をつきつつも、その小さな黒猫の前にしゃがみ込んだ。
黒猫は「シャーッ!」と威嚇し、背中を丸めて後ずさりした。
警戒心剥き出しの、路地裏で生き抜いてきた野生の顔。
「はいはい、怖いねー。でも、私アンタのこと食べたりしないから」
心はリュックの中から、自分の夜食用に買っておいたコンビニのツナマヨおにぎりを取り出した。マヨネーズの部分を避け、ツナだけを指先に乗せて差し出す。
黒猫はしばらく睨みつけていたが、空腹には勝てなかったのか、恐る恐る近づき、心の指からツナを奪うように食べた。
「……がっついてるねぇ。昔の私みたい」
心は苦笑した。
親の顔も知らず、施設を抜け出し、大人たちに怯えながら路地裏を這いずり回っていた自分。
そして、そんな自分にパンを恵んでくれた、あの死にそうな顔をした男のこと。
黒猫はツナを食べ終えると、少しだけ警戒を解いたのか、心の靴の匂いを嗅ぎ始めた。
「よし。アンタ、今日からウチの子になりな」
心は黒猫の首根っこを掴んで抱き上げた。
驚いた黒猫が前足をバタつかせるが、心は構わず自分のパーカーのポケットに突っ込んだ。
「アマンのスイートには、アンタと同じくらい馬鹿で可愛い先住猫がいるんだよ。あいつが『ハイ』だから、アンタの名前は『ロー』ね」
ローはポケットの中で不満げにモゾモゾと動いたが、パーカーの温かさに安心したのか、やがて大人しくなった。
「さて、と。……新入りも来たことだし、仕事に戻ろっか」
心は椅子に座り直し、再びモニターと対峙した。
画面の中では、地獄の釜の蓋が完全に開いていた。
「な、なんだこれは……!」
「おい、携帯を見ろ! ニュースのトップが……!」
1階『孔雀の間』。
静まり返っていた会場に、突如として不協和音のようなざわめきが波及した。
数百人のVIPたちのポケットや鞄の中で、一斉にスマートフォンの通知音が鳴り響いたのだ。
彼らが画面に目を落とした瞬間、その顔色が一様に土気色へと変わった。
冴子が配信した記事だ。
スクリーンに映し出されたデータや映像と全く同じものが、すでに世間に「確定した事実」としてばら撒かれている。
「トンネル事故の隠蔽だと……? 我が社もあの工事には出資していたんだぞ!」
「裏帳簿のデータに、私の名前はないだろうな!?」
「マズい……この場にいること自体がリスクだ。早く出るぞ!」
我先にと、政治家や銀行の頭取たちが席を立ち、出口へと向かい始めた。
蜘蛛の子を散らすような逃亡劇。
沈む泥舟から、ネズミたちが一目散に逃げ出していく。
「お、お待ちください! 皆様!」
西園寺貴子が、ヒステリックな声を上げて彼らを引き留めようとした。
「これは何かの間違いです! 悪質なハッキングによる捏造に決まっています! 帝都グループは……」
「黙れ、西園寺!」
大株主の一人である老人が、貴子に向かって怒鳴りつけた。
「捏造だと? 猛くんのあの乱行映像も、この場にいる女性の証言も捏造だと言うのか! 貴様らは一族ぐるみで、我々株主を欺いていたんだな!」
「ち、違います! 猛のことは私には……」
「言い訳は法廷で聞こう。……融資は即刻引き上げさせてもらう。覚悟しておけ!」
老人は吐き捨てるように言い、SPを伴って会場を後にした。
それを合図に、残っていた客たちも次々と扉の外へ消えていく。
「や、やめて……行かないで……!」
ウェディングドレス姿の麗華が、床にへたり込んだまま泣き叫んでいる。
つい数十分前まで、彼女はこの世界の頂点に立つお姫様だった。
皆が自分を祝福し、羨望の眼差しを向けていた。
それなのに、今や彼女に向けられるのは、汚物を見るような軽蔑の視線だけだ。
「健太郎さん……! 健太郎さん、助けて! 貴方から彼らに言って!」
麗華はすがるように、傍らに立つ井上健太郎を見上げた。
この完璧な婚約者だけが、自分の唯一の味方なのだと、彼女はまだ信じていた。
だが。
井上は、彼女に手を差し伸べなかった。
ただ、見下ろしていた。
その瞳の奥にある絶対零度の冷たさに、麗華の呼吸が止まった。
「……健太郎、さん?」
「助ける?」
井上は、冷酷なまでに美しい唇を歪め、嘲笑した。
「誰を助けると言うのですか? ……無能な兄の罪を知りながら見て見ぬふりをし、下の人間をゴミのように扱ってきた、傲慢な女を?」
「え……?」
「あるいは、娘を傀儡にして会社を私物化し、隠し資産を溜め込んできた、そこの老醜の塊を?」
井上の視線が、貴子を射抜いた。
貴子は息を呑み、一歩後ずさった。
「き、貴様……最初から、これが狙いだったのね! 投資話も、婚約も、全て我が社を陥れるための罠……!」
貴子は震える指で井上を指差した。
薬で鈍っていた彼女の脳が、恐怖によって一時的に覚醒し、最悪の真実を理解したのだ。
「罠、とは心外ですね」
井上は悠然と歩みを進め、貴子の目の前に立った。
彼の背後には、ドレス姿の舞永が影のように寄り添い、貴子のSPたちが不用意に動けないよう、無言のプレッシャーを放っている。
「私はただ、『事実』を公表しただけです。……貴女たちが隠してきた、腐臭を放つゴミを、白日の下に晒しただけだ。……そうですよね、お義母様?」
お義母様。
その言葉に、貴子だけでなく、麗華もビクリと体を震わせた。
「誰が義母よ! この詐欺師! 警察を……警察を呼べ! こいつらを名誉毀損で逮捕させろ!」
「どうぞ、お呼びください」
井上は両手を広げ、歓迎するポーズをとった。
「ですが、警察が来て一番困るのは貴女のはずだ。……ねえ、南先生?」
井上が視線を送った先。
VIP席に座ったまま、優雅にシャンパングラスを傾けていた清水南が、ゆっくりと立ち上がった。
彼女はピンヒールの音を響かせてステージに近づき、アタッシュケースから分厚いファイルの束を取り出した。
「おっしゃる通りです、井上社長」
南は眼鏡の奥の冷たい瞳で、貴子を見据えた。
「西園寺貴子会長。……私はK.I.ホールディングス顧問弁護士の清水と申します。現在、我々が集めた『裏帳簿』および『海外口座でのマネーロンダリングの証拠』は、すでに東京地検特捜部、および国税庁へ内部告発として提出済みです」
「なっ……!?」
貴子の顔から、完全に血の気が引いた。
「おそらく明日の朝には、このホテルではなく、貴女の屋敷に強制捜査が入るでしょう。……名誉毀損で争うおつもりなら受けて立ちますが、その前に貴女は、特別背任および脱税の容疑で檻の中に入ることになりますよ」
「う、嘘よ……そんな、馬鹿な……」
貴子はよろめき、後ろに控えていたメイドの茉莉に寄りかかろうとした。
「茉莉! 茉莉、すぐに顧問弁護士に連絡を……!」
だが、茉莉は動かなかった。
彼女はダークグレーのスーツ姿のまま、両手を前で組み、能面のような無表情で貴子を見下ろしていた。
「……茉莉? どうしたの、早くしなさい!」
「……申し訳ございません、奥様」
茉莉は、鈴を転がすような美しい声で、しかし残酷なほど冷ややかに言った。
「私は、犯罪者の命令を聞くようには教育されておりませんので」
「は……?」
貴子は自分の耳を疑った。
長年、自分の手足となって働いてきた、忠実で完璧なメイド。
その彼女が、今、自分を明確に拒絶したのだ。
「お前……裏切ったのね! 私の金で雇われているくせに!」
「勘違いなさらないでください。私の主は、最初から貴女ではありません」
茉莉は一歩下がり、そして井上に向かって、優雅なカーテシーを行った。
「全てはご計画通りに、旦那様」
その光景に、貴子は完全に理解した。
自分の城は、すでに外堀から内堀、そして本丸の寝室に至るまで、全てこの「井上健太郎」という男に支配されていたのだ。
自分は、ただ踊らされていただけのピエロだった。
「あ、あぁぁ……」
貴子は膝から崩れ落ちた。
もはや、大声で怒鳴る気力すら残っていなかった。
桃子の薬によって摩耗していた精神が、ここに来て限界を迎え、プツリと音を立てて切れたのだ。
会場には、井上たちの他に、逃げ遅れた数人のマスコミと、遠巻きに様子を伺うホテルのスタッフしか残っていない。
誰もが、息を呑んでこの凄惨な復讐劇を見つめていた。
「……どうして」
床に座り込んだままの麗華が、虚ろな目で井上を見上げた。
彼女の白いドレスは、床の埃で汚れ始めている。
「どうして、こんな酷いことをするの……? 私、貴方を愛していたのに……」
井上は麗華の前にしゃがみ込み、その美しい顔をじっと見つめた。
そして、彼女の耳元に顔を寄せ、二人だけにしか聞こえない声で囁いた。
「……『来世は人間になれるといいわね』」
その言葉を聞いた瞬間、麗華は息を呑んだ。
来世は人間になれるといいわね。
この男は、一体何を言っているのだろうか。
自分は、これまでの人生でそんな言葉を誰かに投げつけたことなどないはずだ。
なのに、どうして。
なぜ目の前のこの男は、自分があたかもその言葉を吐き捨てた「罪人」であるかのように、底知れぬ憎悪の目を向けているのか。
「……え……? 何、それ……?」
麗華の瞳孔が開き、ガチガチと歯の根が合わなくなる。
意味が分からない。
分からないからこそ、恐ろしい。
目の前にいるのは、井上健太郎という完璧な王子様ではない。
自分には全く身に覚えのない「強烈な怨念」を抱き、地獄の底から這い上がってきた名もなき悪魔だ。
「……ひ、ひぃっ……!」
麗華は悲鳴すら上げられず、後ずさろうとしてドレスの裾に足を取られ、無様に転がった。
理不尽なまでの恐怖が、彼女の精神を完全に破壊した。
井上はゆっくりと立ち上がった。
見下ろす先には、正気を失いかけた女帝と、恐怖に顔を引き攣らせる令嬢。
かつての人生で、自分を虫けらのように踏みにじった者たち。
たとえ彼女たちが、1周目の記憶を持っていなくとも関係ない。
井上の魂に刻まれた傷への報いは、今、ここで果たされたのだ。
凍りついた会場の真ん中で、井上は静かに、そして残酷に微笑んだ。
復讐の宴は、ついにその頂点に達した。
一方、地下の制御室では。
心は、ポケットの中で丸くなって眠る黒猫のローの温もりを感じながら、モニターに映る井上の横顔を見つめていた。
「……かっこいいじゃん、おっさん」
心はコーラで一人、静かに乾杯した。
終わりの始まりを告げる、祝杯を。




