第4話 影の投資家
煙草の煙が幾重にも層を成して漂う、窓のない一室。
壁掛け時計の秒針が進む音だけが、異様なほど大きく響いていた。
「……おい、兄ちゃん」
沈黙を破ったのは、毒島だった。
彼は革張りのソファに深く沈み込み、愛用のジッポライターをカチカチと開閉しながら、パソコンの前に座る灰谷守を睨みつけていた。
「約束の時間は、あと10分だ。今のところ、あの製薬会社の株価は平穏そのものだぞ」
毒島の言葉通り、守が監視している『東和薬品』のチャートは、前日終値の2,400円前後をゆらゆらと推移しているだけだった。
この一週間、守は毒島から借りた裏口座を使い、レバレッジを限界までかけた「空売り」を仕込み続けていた。
その額、元手の200万円を証拠金とした、総額20億円規模の売りポジション。
もし予想が外れ、株価がわずかでも上昇すれば、守は即座に破産し、毒島の宣言通り両目を――いや、命ごとくり抜かれることになる。
部屋の隅では、護衛の男たちが鈍い光を放つサバイバルナイフを弄びながら、守の背中を見つめていた。
処刑の時間を待っているのだ。
「……」
守は答えなかった。
ただ、充血した目でモニターを凝視し続けていた。
指先が微かに震えている。恐怖からではない。これから訪れる「瞬間」への興奮からだ。
10年前の記憶。
西園寺家で飼い殺しにされていたあの頃、ニュースキャスターが無機質に読み上げていた原稿の内容を、守は一言一句違わず覚えていた。
『東和薬品、副作用データを組織的に隠蔽か。内部告発により発覚』
その第一報が流れたのは、4月17日の午後2時55分。
大引けの5分前だ。
逃げ場のない時間帯に絶望的なニュースを叩き込むことで、市場はパニックに陥る。
時計の針が、2時50分を回った。
「チッ、時間切れだな」
毒島が立ち上がり、守の肩に重い手を置いた。
「残念だったな、予言者様。肝が据わってるのは認めるが、運はなかったようだ」
「……まだだ」
「あ?」
「あと3分。3分待て」
守は毒島の手を払いのけることなく、画面を指差した。
その異様な気迫に、毒島は眉をひそめ、再び画面に目を落とした。
午後2時54分。
その時、静寂だった板情報に、異変が起きた。
買い板が、一瞬で蒸発したのだ。
「……おい、なんだこれ」
毒島が呟くのと同時だった。
ニュース速報のテロップが、サブモニターのテレビ画面に流れた。
『速報です。中堅製薬会社・東和薬品に、未承認成分の使用疑惑が浮上。厚労省が立ち入り検査へ――』
瞬間、チャートが垂直に落下した。
まるで断崖絶壁から突き落とされたかのように、株価を示すラインが真下へと伸びていく。
2,400円、2,000円、1,800円――。
売りが売りを呼ぶパニック売り。特売り気配。値がつかないまま、株価はストップ安へと張り付いた。
「な……っ!?」
毒島が吸っていた煙草を取り落とした。
護衛たちが顔を見合わせ、ざわめき立つ。
「お、おい! 本当に暴落しやがったぞ!」
「マジかよ、こいつ……!」
大引けの鐘が鳴る。
市場は阿鼻叫喚の嵐の中でクローズしたが、守の口座残高を示す数字だけは、見たこともない桁数へと跳ね上がっていた。
20億円規模の売りポジションが、わずか数分で30%近い利益を生み出したのだ。
その額、約6億円。
守はゆっくりと椅子から立ち上がり、呆然とする毒島の方を振り返った。
「……言ったはずだ。未来が見えると」
その声は、驚くほど低く、落ち着いていた。
守自身も驚いていた。かつて、数百円の小遣い銭で一喜一憂していた自分が、数億円という金を見ても眉一つ動かしていないことに。
金はただの数字だ。
復讐のための、弾丸の数でしかない。
「井上……ちゃん、いや、井上さんよ」
毒島の態度が一変した。
爬虫類のような瞳から侮蔑の色が消え、代わりに底知れない恐怖と、強烈な欲望が宿っていた。
「あんた、何者だ? インサイダーか? いや、それにしてはタイミングが神がかりすぎている」
「詮索は無用だ。……約束通り、利益の2割はあんたの手数料だ。残りは俺の口座に振り込んでくれ」
「は、はいよ。喜んで」
毒島は揉み手をするように頷いた。
たった数分で1億2000万を手にしたのだ。文句があるはずがない。
だが、守はそこで終わらなかった。
「それと、毒島さん。あんたに頼みがある」
「なんだ? キャバクラでも奢らせてくれるのか?」
「違う。……身分証だ。戸籍、パスポート、そして別人になれる『場所』を用意してほしい」
守は窓のない壁を見つめた。
その向こうにある広い空を思い描きながら。
「この金は手付金だ。俺はこれから、もっと大きな山を動かす。億なんて端金に思えるほどの、巨万の富を築く」
それからの日々は、守にとって「金」という概念が崩壊していく時間だった。
東和薬品の件で毒島の絶対的な信頼を得た守は、彼を隠れ蓑にして、次々と「予言」を実行に移していった。
20XX年、某国での政変による原油価格の乱高下。
あえて暴落の底で買いを入れ、反発の頂点で売り抜ける。
そして何より、守が主力としたのは、まだ世間では「怪しい電子データ」扱いだった暗号資産――ビットコインだった。
10年後の未来、それが1コイン数百万円、時に一千万円近くまで高騰することを知っている守にとって、当時の数万円という価格は、道端にダイヤモンドが転がっているようなものだった。
「狂ってる……あんた、正気か?」
毒島は、守が数億円の利益を全て「実体のないコイン」に突っ込んだ時、さすがに顔を引きつらせた。
だが、守はただ静かにコーヒーを啜るだけだった。
「見ていろ。世界が変わる」
その言葉通り、数ヶ月後、数年後と時が経つにつれ、守の資産は指数関数的に膨れ上がっていった。
10億、50億、100億――。
もはや個人の資産レベルを超え、国家予算規模の数字が、守の管理する無数の分散口座に蓄積されていく。
毒島はもう、守に対して敬語しか使わなくなっていた。守は彼にとって、金の卵を産むガチョウであり、同時に触れれば祟られる神のような存在になっていた。
守は、金が増えるたびに、自分の心が冷えていくのを感じていた。
かつて西園寺家で感じていた「惨めさ」や「飢え」は消えた。
だが、代わりに胸の奥に居座ったのは、底なしの虚無だった。
(金はある。力もある。……だが)
高級ホテルのスイートルーム。
守は、磨き上げられた窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。
そこにはまだ、「灰谷守」がいた。
10年前の若さを取り戻し、肌には張りが戻っている。白髪もなく、黒々とした髪が額にかかっている。
だが、その造作自体は何も変わっていない。
人が好さそうで、どこか頼りなく、常に他人の顔色を窺っているような、染み付いた「負け犬の相貌」。
どれだけ高級なスーツを着ても、中身がこの地味で平凡な顔のままでは、西園寺麗華は決して振り向かないだろう。
「このままじゃ、ダメだ」
守はグラスの中のウィスキーを飲み干した。
彼女の心を奪い、魂ごと支配し、そして裏切らなければならないのだ。
そのためには、「器」を作り変える必要がある。
灰谷守という存在を殺し、誰もが傅くような、完璧な「王」にならなければならない。
守はサイドテーブルに置かれた封筒を手に取った。
中に入っているのは、ある海外の医療機関のパンフレットだ。
毒島に探させた、裏社会の人間御用達の、しかし腕だけは神の領域と呼ばれる形成外科医。
その手術費用は、一般人が一生かかっても払えない額だ。
だが、今の守にとっては、財布の小銭と変わらない。
「……待っていろ、麗華」
守はパンフレットに載っている、理想的な黄金比を持つ男性モデルの写真を指でなぞった。
「お前が愛した『金』と『美貌』。その両方を持って、迎えに行ってやる」
守はスマートフォンを取り出し、毒島に短いメッセージを送った。
『手配を頼む。出国する』
それは、灰谷守という人間が、この世から消える合図だった。
巨万の富という名の鎧を纏い、次は肉体という名の仮面を手に入れる。
影の投資家としての準備期間は終わった。
いよいよ、悪魔への変身が始まる。




