第39話 婚約披露宴の開幕
10月に入り、東京の空にはようやく秋らしい澄んだ青が広がるようになっていた。
だが、アマン東京のスイートルームの床では、季節などお構いなしの熱戦が繰り広げられていた。
「……ミャ! ミャウッ!」
仔猫のハイが、ラグマットの上で一人、荒ぶっていた。
相手は、先日井上が購入した猫用おもちゃ『ハンティング・マスター2000』から飛び出す、赤いレーザーポインターの光だ。
ハイは低い姿勢からお尻をプリプリと振り、フローリングを蹴って勢いよく飛びかかる。
だが、前足で押さえ込んだはずの赤い光は、スッとすり抜けて壁の方へ移動してしまう。
ハイは「ニャンだと!?」という顔で目を丸くし、ドリフトしながら光を追いかける。
その果敢な狩りは、15分ほど続いた。
やがて、目に見えてハイの動きが鈍くなってきた。
走るスピードが落ち、ジャンプの高さが低くなる。
そして、レーザーが足元で止まった瞬間。ハイはそれに飛びつくのを諦め、その場にぺたんと座り込んだ。
「ミャ……ぁ……」
小さくあくびをする。
目はもう半分閉じかかっていた。
それでも狩猟本能が残っているのか、前足だけで光をちょいちょいと触ろうとするが、やがてその前足も力なく床に落ちた。
コテン、と頭が傾く。
そして次の瞬間、電池が切れたオモチャのように、ラグの上にぽふっと横倒しになった。
完全に寝落ちである。
仰向けに投げ出された四肢は無防備で、ピンク色の肉球がピクピクと痙攣している。夢の中でまだレーザーを追いかけているのだろう。
ズピー、ズピーという小さな寝息が、部屋の静寂に溶け込んでいった。
「……お疲れ様。いい夢を見ろ」
井上健太郎は、その愛らしい寝顔を優しく見つめながら、姿見の前で自身のネクタイを締め直した。
ミッドナイトブルーのタキシード。
イタリアの熟練の職人が仕立てた最高級の戦闘服。
井上は懐に手を入れ、内ポケットの感触を確かめた。
そこにあるのは、一通の封筒だ。
1周目の人生で、あの雪の夜に猛から強要された、惨めな『始末書』ではない。
これは、井上健太郎が西園寺家を完全に解体し、路頭に迷わせるために用意した、法的に完璧な『二度目の遺言状』。
井上は鏡の中の自分を見た。
冷徹で美しい顔。
かつての灰谷守の面影は、もう欠片も残っていない。
だが、胸の奥底で燃える憎悪の炎だけは、10年前のあの日からずっと消えることなく、この日のために純度を高め続けてきた。
「行ってくる」
井上は眠るハイに静かに別れを告げ、部屋を出た。
今日、全てが終わる。
帝都ホテル、メインバンケット『孔雀の間』。
日本最大級の広さを誇るその会場は、数千本の真紅の薔薇で彩られ、天井からは眩いばかりのクリスタルシャンデリアが降り注いでいた。
帝都グループ次期社長・西園寺麗華と、K.I.ホールディングス代表・井上健太郎の婚約披露宴。
それは、猛の不祥事で揺れる帝都グループが、社内外に向けて「健在」と「新たな強力なスポンサー」をアピールするための、起死回生の一大イベントだった。
会場には、500名を超える招待客がひしめいていた。
政財界の重鎮、メガバンクの頭取、主要な取引先の社長たち。
彼らはシャンパングラスを片手に、表面上はにこやかに談笑しているが、その実、西園寺家の内情と新スポンサーの正体を探ろうと、互いに探り合いの視線を交わしていた。
メインステージの最前列、ひときわ豪華な円卓に、西園寺貴子が座っていた。
帝都の女帝。
彼女は黒のイブニングドレスに、億を下らないであろうダイヤモンドのネックレスを輝かせている。
だが、その威厳ある姿とは裏腹に、彼女の指先は微かに震えていた。
手元のグラスに注がれた紅茶を、落ち着きなく何度も口に運ぶ。
「……遅いわね。麗華の入場はまだなの?」
貴子は苛立たしげに呟いた。
「予定時刻まで、あと3分ございます、奥様」
彼女の背後から、静かな声が応えた。
メイドの池田茉莉だ。
今日の彼女は、目立つメイド服ではなく、ダークグレーの洗練されたパンツスーツに身を包んでいた。髪をタイトにまとめ、目線を下げたその姿は、貴子の影として完璧に同化している。
「そう。……それにしても、猛はどうしたの? こんな大事な日に遅刻するなんて」
「……」
茉莉は表情一つ変えずに答えた。
「奥様。猛様は、現在『療養施設』に入っておられます」
「……あ、ああ。そうだったわね。あの子は……そう、疲れているのよ」
貴子はこめかみを押さえた。
茉莉が日々微量ずつ盛り続けている薬の影響が、確実に彼女の脳を蝕んでいた。
短期記憶の欠落。判断力の低下。そして、感情の不安定化。
自分が息子を精神病院に追いやったことすら、時折忘れてしまうほどに。
「喉が渇いたわ。お茶のおかわりを」
「畏まりました」
茉莉は恭しく紅茶を注ぎ足した。
その紅茶の中には、もちろん今日も「最後の一滴」が仕込まれている。
毒を飲み干す女帝の背中を見つめながら、茉莉は冷ややかに微笑んだ。
彼女のポケットには、今朝貴子の隠し金庫から抜き取った、海外口座のアクセスキーが重く冷たく横たわっている。
会場の各所には、井上の「共犯者」たちが、それぞれの持ち場についていた。
VIP席の一角。
清水南は、深いワインレッドのドレスを纏い、氷のような美貌でシャンパンを舐めていた。
彼女のテーブルには、帝都グループの主力銀行の頭取や、大株主たちが座っている。
南は顧問弁護士という肩書きを利用し、彼らに「帝都の経営危機」を匂わせる法的な懸念事項を、優雅な雑談に交えて吹き込んでいた。今日この後起きる惨劇の際、彼らが一斉に西園寺家から手を引くように、入念に地ならしをしているのだ。
プレス席の最前列。
斎藤冴子は、プロ用のカメラを構え、レンズのピントをメインステージに合わせていた。
彼女のノートPCはすでにネットワークに接続されており、エンターキーを一つ押すだけで、帝都グループの裏帳簿と不正の全貌を記した特大のスクープ記事が、全世界の提携メディアに一斉配信される手はずになっている。
会場の出入り口付近。
森舞永は、体にフィットした黒のドレス姿で、ウェイターからグラスを受け取っていた。
彼女の視線は、会場の四隅に立つ西園寺家のSPたちと、非常口の動線を正確に把握している。
いざという時、誰を最初に沈め、どのルートを確保するか。
そのドレスの深いスリットの奥には、冷たい金属の感触があった。
そして、ホテル地下の制御室。
木村心は、ホテルのセキュリティ責任者を「少しの間だけ眠ってもらい」、メインコンソールを完全にジャックしていた。
手元のキーボードを叩けば、会場の照明、音響、そして巨大スクリーンの映像を、自由自在に操ることができる。
彼女の隣の控室には、林優香が真っ白なワンピース姿で、その「出番」を静かに待っている。
全てのピースは揃った。
包囲網は、完璧に閉じられている。
午後6時ちょうど。
会場の照明がゆっくりと落ちた。
ざわめきが静まり、代わりにフルオーケストラによる荘厳なクラシックの生演奏が響き渡る。
「皆様、長らくお待たせいたしました」
司会者の声が、マイクを通じて会場に響く。
「これより、西園寺麗華様、井上健太郎様のご入場です!」
後方の巨大な両開きの扉が、ゆっくりと開かれた。
ピンスポットライトが、その中心を照らし出す。
そこに立っていたのは、一組の男女だった。
西園寺麗華は、パリのオートクチュールで仕立てたという、数千万円の純白のウエディングドレスを纏っていた。
ふんだんにあしらわれたダイヤモンドが、照明を反射して星のように輝く。
彼女の顔は、これ以上ないほどの歓喜と優越感に満ち溢れていた。
帝都グループの次期社長という権力。そして、隣を歩く、誰もが息を呑むほど美しい完璧な男。
自分は今、世界の頂点にいる。彼女はそう信じて疑っていなかった。
その隣で、井上健太郎は優雅に麗華をエスコートしていた。
長身にタキシード。憂いを帯びた瞳。
彼が歩みを進めるたびに、招待客の女性たちから感嘆の溜め息が漏れ、男性たちからは嫉妬と畏怖の視線が向けられる。
二人は、赤い絨毯の上をゆっくりと歩き、メインステージへと向かった。
割れんばかりの拍手喝采。
フラッシュの嵐が、彼らを祝福するように包み込む。
井上は、微笑みを浮かべたまま、拍手を送る群衆を見渡した。
脳裏に蘇るのは、前の人生の最期の記憶だ。彼にとっては、つい数ヶ月前の出来事である。
この世界線ではまだ起きていない、義父・厳の葬儀。この同じホテルの裏口で、彼は作業着を着せられ、ゴミ箱の横で息を潜めていた。
麗華からは「汚れた雑巾」と罵られ、唾を吐きかけられた。
その雑巾が、顔を変え、名前を変え、数十億の金を使って、今、この華やかなステージの主役として戻ってきたのだ。
(見ているか、灰谷守)
井上は心の中で、かつての自分に語りかけた。
(泥を啜ったお前の無念は、今日、俺が全て晴らしてやる)
ステージに上がった二人は、招待客に向かって深く一礼した。
貴子が、満足げにその様子を見上げている。
南が、冷ややかにグラスを掲げる。
冴子が、シャッターを切る。
舞永が、微かに口角を上げる。
司会者がマイクを井上に差し出した。
「それでは、ご婚約者のお二人を代表いたしまして、井上健太郎様より、皆様にご挨拶を頂戴いたします」
井上はマイクを受け取った。
会場が、水を打ったように静まり返る。
500人の視線が、彼一人に集中している。
井上はマイクを口元に寄せ、深く、静かなバリトンボイスで語り始めた。
「本日は、お忙しい中、私たちのためにご足労いただき、誠にありがとうございます」
完璧な発声。完璧な間の取り方。
「愛する麗華さんとの婚約、そして帝都グループという素晴らしい企業との提携。……私は今、人生の絶頂にあります」
麗華がうっとりと井上を見つめる。
だが、井上の言葉は、そこからゆっくりと、しかし決定的に熱を失っていった。
「ですが、皆様」
井上の瞳が、氷のように冷たく光った。
「新しい門出を祝う前に、私たちは……過去の『清算』をしなければなりません」
会場の空気が、微かに揺らいだ。
麗華が「え?」と不思議そうに井上の顔を覗き込む。
貴子の眉がピクリと動いた。
「清算……それは、この華やかな帝都グループの裏に隠された、あまりにも醜く、残酷な真実についてです」
井上は左手を軽く上げた。
それは、地下の制御室にいる心への、作戦開始の合図だった。
カチッ。
キーボードが叩かれる音が、幻聴のように響いた気がした。
瞬間、ステージの後方に設置された巨大なスクリーンが、突如として眩い光を放ち始めた。
婚約披露宴という名の、史上最悪の公開処刑が、今、幕を開けた。




