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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
第3章:侵食と誘惑

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第38話 嵐の前の静けさ

 9月某日。

 決戦前夜のアマン東京は、墓場のように静まり返っていた。

 照明を落としたスイートルーム。

 窓の外には、東京の夜景が煌めいているが、室内に漂う空気は冷たく、鋭利だった。


 シュッ、シュッ、シュッ。

 一定のリズムで、金属が砥石を擦る音が響く。


 井上健太郎は、キッチンカウンターでナイフを研いでいた。

 愛用のペティナイフだ。

 料理用であり、時には食材の命を奪うための道具。

 刃先はすでに鏡のように磨き上げられ、触れるだけで皮膚が切れそうなほど鋭い。

 だが、井上は手を止めない。

 研いでいるのは、ナイフだけではない。自分自身の精神だ。

 明日の婚約披露宴。

 そこで行われるのは、華やかな宴ではない。西園寺家という巨悪を解体するための、公開処刑だ。

 失敗は許されない。一瞬の迷いや情が、命取りになる。


「……ミャウ」


 足元で、仔猫のハイが心配そうに鳴いた。

 井上から発せられる殺気を感じ取ったのだろうか。

 井上は手を止め、ハイを見下ろした。


「怖がらせてすまない。……大丈夫だ」


 指先を洗い、ハイの額を撫でる。

 温かい。

 この温もりを守るために、俺は鬼になる。

 そう自分に言い聞かせ、井上はナイフを鞘に収めた。


 同じ頃、東京の各地で、井上の「共犯者」たちもまた、明日のために牙を研いでいた。


 【木村 心 ―― アマン東京・別室】

 心は、青白いモニターの光に照らされていた。

 画面には、明日の披露宴会場のスクリーンをジャックするためのプログラムコードが表示されている。


 『Project: JUDGMENT』。


 彼女が組み上げた、西園寺家の悪事を暴くための時限爆弾だ。

 エンターキーの上に指を置き、彼女はニヤリと笑った。


 「準備オーケー。……派手な花火、打ち上げてあげるよ」


 【森 舞永 ―― 某所・隠れ家】

 舞永は、愛用の拳銃『SIG SAUER P226』を分解し、オイルで磨き上げていた。

 明日の会場は厳重なセキュリティ下にあるため、銃を持ち込むことは難しい。だが、彼女の武器は銃だけではない。

 特殊警棒、スタンガン、そしてセラミック製のナイフ。

 ドレスの下に隠せる武器を並べ、彼女はルージュを引いた。


 「退屈なパーティーを、最高のダンスフロアに変えてあげるわ」


 【斎藤 冴子 ―― 編集部】

 冴子は、明日の正午に配信予定の特ダネ記事の最終校正を行っていた。

 タイトルは『帝都の落日 ―― 女帝・西園寺貴子の隠された罪』。

 膨大な裏付け資料と、心を揺さぶる筆致。

 彼女のペンは、剣よりも鋭く、銃弾よりも速く、西園寺家の心臓を貫く。


 「見てなさい。……私の言葉で、あなたたちを社会的に殺してあげる」


 【林 優香 ―― ホテルの一室】

 優香は、鏡の前で演技の練習をしていた。

 涙を流すタイミング、震える肩の角度、訴えかける視線。

 明日の彼女は「被害者」ではない。「証言者」だ。

 過去の自分を救うため、そして未来を切り開くために、彼女は女優としての魂を燃やしていた。


 「私は負けない。……最高の演技で、あいつらを黙らせてやる」


 【山崎 桃子 ―― 闇診療所】

 桃子は、小さなアンプルを光にかざしていた。

 中に入っているのは、即効性の鎮静剤。

 もし井上の顔が限界を超えた時、あるいは貴子が発狂した時に使うための「保険」だ。


 「壊れるなら盛大に壊れなさい。……後始末はしてあげるから」


 彼女は紫煙を燻らせ、歪んだ笑みを浮かべた。


 【池田 茉莉 ―― 西園寺邸】


 茉莉は、明日の衣装である燕尾服にアイロンをかけていた。

 そのポケットには、屋敷中から回収した盗聴器のデータと、貴子の部屋から盗み出した金庫の鍵が入っている。

 彼女の潜入工作は完了した。あとは、内部から扉を開け放つだけだ。


 「お待ちしております、旦那様。……この館の『掃除』は、もう終わりましたわ」


 7人のヒロイン。

 それぞれの場所で、それぞれの武器を手に、静かに夜明けを待っている。


 アマン東京。

 井上はキッチンで、フライパンを火にかけていた。

 そこへ、インターホンが鳴る。

 最後の打ち合わせに現れたのは、清水南だった。


 今日の南は、いつものパンツスーツではなく、深いワインレッドのワンピースに身を包んでいた。

 仕事着ではない。

 それは、彼女なりの「決戦前の儀式」としての正装なのかもしれない。


「……こんばんは、井上さん」

「いらっしゃい、南先生」


 井上は彼女を招き入れ、キッチンへと戻った。

 芳ばしい脂の香りが漂っている。


 フライパンの中にあるのは、皮目に細かく切り込みを入れた鴨の胸肉だ。

 皮を下にして、弱火でじっくりと脂を出しながら焼く。

 出てきた脂をスプーンですくい、肉にかける。

 皮はパリッと、身はしっとりとロゼ色に仕上げるための繊細な作業。


「……いい香りですね」


 南がカウンター席に座り、ハイに視線をやった。

 ハイは南を見ると、「ニャッ」と挨拶し、彼女の足元に擦り寄った。

 南の冷徹な表情が、ふっと緩む。

 彼女はハイを抱き上げ、慣れた手つきで顎の下を撫でた。


「可愛いですね。……この子だけが、この汚れた計画の中で唯一の清浄な存在です」

「違いない。……彼のためにも、俺たちは手を汚さなきゃならない」


 井上は焼き上がった鴨肉を取り出し、アルミホイルで包んで休ませた。

 その間にソースを作る。

 鍋にグラニュー糖と少量の水を入れ、キャラメリゼする。

 焦げ茶色になったところで、シェリービネガーとオレンジの絞り汁を一気に加える。

 ジュワァァッ!

 甘酸っぱい香気が立ち昇る。

 そこに鴨の出汁を加え、煮詰める。

 最後に、オレンジの皮とグランマルニエで香り付けし、バターで艶を出す。


 『ソース・ビガラード』の完成だ。


 鴨肉をスライスする。

 断面は艶めかしいほどのバラ色。

 皿に並べ、黄金色のソースをたっぷりとかける。

 付け合わせは、キャラメリゼしたイチジクと、ジャガイモのピューレ。


「どうぞ」


 井上は皿を差し出した。

 そして、グラスに注いだのは、濃厚な琥珀色の液体。


 『マデイラワイン』。


 ポルトガルのマデイラ島で作られる酒精強化ワインだ。

 キャラメルやナッツのような熟成香と、複雑な甘み、そして強烈な酸味を併せ持つ。


「……鴨にオレンジ、そしてマデイラですか」


 南はグラスを手に取り、香りを楽しんだ。


「古典的ですね。貴方にしては、奇をてらっていない」

「最後だからな。……王道で攻める」

「いただきます」


 南は鴨肉を口に運んだ。

 パリッとした皮の食感と、溢れ出す肉汁。

 野性味あふれる鴨の鉄分を含んだ旨味を、オレンジソースの酸味と甘みが包み込み、華やかに昇華させる。

 そこに、マデイラワインを含む。

 

 ……完璧だ。


 ワインの持つ酸化熟成のニュアンスが、鴨肉の血の香りと共鳴し、深遠な余韻を残す。

 甘く、重く、そしてどこか切ない味。


「……美味しい」


 南はため息をついた。

 その瞳が、微かに潤んでいるように見えた。


「昔……父がよく、こういう料理を作ってくれました」

「お父様が?」

「ええ。小さな洋食屋を営んでいました。……帝都グループの再開発計画で立ち退きを迫られ、店を潰され、借金を苦に自殺するまでは」


 南は淡々と語った。

 彼女が猛を憎む理由。

 セクハラや指を折ったことなど、きっかけに過ぎない。

 根底にあるのは、家族を奪われた深い憎悪。

 彼女もまた、井上と同じ「持たざる者」の復讐者だったのだ。


「だから私は、弁護士になりました。法という武器で、奴らのような権力者と対等に戦うために」


 南はワインを飲み干した。


「明日の総会。……私の人生の全てを懸けて、彼らを断罪します」

「頼むぞ、南。……君の法廷戦術だけが頼りだ」


 井上も自分のグラスを空けた。

 二人の間に、言葉はいらなかった。

 共有した痛みと、目的。

 それが、どんな愛の言葉よりも強く二人を結びつけている。


「……ところで、井上さん」


 南が唐突に話題を変えた。

 彼女は膝の上で眠ってしまったハイを撫でながら、少し悪戯っぽい目で井上を見た。


「全てが終わったら、どうされるおつもりですか? ……この子と二人きりで生きていくのですか?」

「……さあな。まだ考えていない」

「そうですか。……もし、法的トラブルや、あるいは美味しい食事が恋しくなったら、いつでも連絡してください」


 南は顔を背けた。

 その耳が少し赤くなっているのを、井上は見逃さなかった。

 氷の弁護士の、不器用なデレ。


「ああ。……その時は、一番高い顧問料を払わせてもらうよ」


 井上は微笑んだ。

 

 夜が更けていく。

 食事を終え、南が帰った後、井上は一人リビングに残った。

 ハイはソファで幸せそうに寝息を立てている。


 井上は窓際に立ち、東京タワーを見つめた。

 この静寂は、終わりを告げるものではない。

 明日、全ての嘘が暴かれ、全ての罪が裁かれる。

 そのカタルシスの瞬間に向けて、世界が息を止めているのだ。


「……行くぞ、灰谷守」


 井上はガラスに映る自分の顔――かつての面影など微塵もない、完璧な復讐者の仮面に向かって語りかけた。


「明日は、お前の葬式であり、俺たちの新しい誕生の日だ」


 井上は懐から、一通の封筒を取り出した。

 『遺言状』。

 あの日、崖から落ちる前に書かされた偽物ではない。

 井上健太郎として、西園寺家に突きつける「最後通告」。


 嵐の前の静けさは、もうすぐ終わる。

 夜明けと共に、復讐の幕が上がる。

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