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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
第3章:侵食と誘惑

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第35話 科学的な隠蔽

 アマン東京のスイートルームは、静謐な香気に満たされていた。

 華やかなスパイスや、食欲をそそる油の匂いではない。

 もっと根源的で、研ぎ澄まされた「素材」そのものの香り。


 井上健太郎は、キッチンで寸胴鍋を見守っていた。

 鍋の中では、茶色く濁った液体が対流している。

 だが、これは失敗ではない。ここからが「浄化」の工程だ。


 『コンソメ・ドゥーブル』。


 フランス料理の宝石と称される、究極のスープ。

 一度引いたブイヨンに、さらに牛スネ肉と香味野菜、そして大量の「卵白」を加えて煮込む。

 熱で固まる卵白が、スープの中の微細なアクや不純物を吸着し、浮上してくる。

 『クラリフィエ』と呼ばれる作業だ。


「……静かに、濁らせるな」


 井上は祈るように火加減を調整する。

 ボコボコと沸騰させてはいけない。対流に乗せて、ゆっくりと不純物を吸着させる。

 やがて、鍋の表面に分厚い茶色の層が蓋のように形成される。

 その中央に開けた「呼吸穴」から、透き通った黄金色の液体が顔を覗かせる。


 完成だ。

 井上は慎重にレードルを差し入れ、黄金の雫をすくい取った。

 ネルの布で濾すと、そこには一点の曇りもない、輝くような琥珀色のスープだけが残った。


 雑味ゼロ。純度100%の旨味の結晶。

 

 井上はそれを、温めたティーカップに注いだ。

 合わせるのは、スペイン産のシェリー酒『アモンティリャード』。

 琥珀色に熟成されたシェリーは、ナッツのような芳醇な香りを持ち、コンソメの深いコクをさらに引き立てる。


「……どうぞ」


 井上はカップとグラスを、ダイニングテーブルに運んだ。

 そこに座っているのは、斎藤冴子だ。

 今日の彼女は、取材帰りのパンツスーツ姿で、少し疲れた顔をしていた。


「……いい匂い。これ、ただのスープ?」

「飲んでみれば分かる」


 冴子はカップを口に運んだ。

 一口啜る。

 彼女の目が大きく見開かれた。


「……っ! 何これ……味が、濃い。でも、すごく優しい」


 舌の上で広がるのは、牛と野菜の凝縮された旨味。

 だが、脂っこさや雑味は一切ない。

 五臓六腑に染み渡るような、滋味深い味わい。

 そこに、アモンティリャードを一口含む。

 シェリーの酸味と熟成香が、スープの余韻と絡み合い、鼻腔へと抜けていく。


「……浄化されるわね。汚い世の中の毒素が、全部洗い流されていくみたい」


 冴子はため息をついた。

 彼女は今、帝都グループの不正を暴く記事を連日執筆し、世論という荒波と戦っている。その疲弊した精神に、このスープは特効薬のように効いた。


「料理は科学だ」


 井上も自分の分を啜りながら言った。


「不要なものを取り除き、本質だけを抽出する。……今の俺たちがやっていることと同じだ」

「不要なもの、ね」


 冴子はグラスを置いた。

 その表情が、ジャーナリストの鋭い顔に戻る。


「貴子の動きが、いよいよ露骨になってきたわ。……探偵事務所を使って、あなたの『DNA』を手に入れようとしている」

「DNAか。……予想通りだ」


 井上は眉一つ動かさなかった。

 

「貴子は俺を疑っている。……『こいつは帝都グループの内情に詳しすぎる』とな」

「ええ。だから、彼女は仮説を立てた。『井上健太郎は、過去に帝都を恨んで辞めた元社員のなりすましではないか』と」


 冴子の言葉に、井上は頷いた。

 貴子の獣のような勘は、正解に近いところまで迫っている。

 彼女にとって、辞めていった社員など有象無象のゴミに過ぎない。顔も名前も覚えていないだろう。

 だが、だからこそ「誰か」が顔を変えて戻ってきた可能性を否定しきれないのだ。

 もしDNAが過去の社員データと一致すれば、井上を詐欺罪や身分詐称で告発し、一発逆転できる。


「今夜、あなたは西園寺家に泊まる予定よね? 麗華との婚約者として」

「ああ」

「探偵はそこを狙ってくるわ。……浴室、ベッド、洗面所。あなたが落とす髪の毛一本、皮膚片一つが命取りになる」


 冴子の忠告はもっともだ。

 人間は生きている限り、DNAを撒き散らす。

 完全に防ぐことは不可能だ。


「心配いらない」


 井上はコンソメを飲み干し、不敵に笑った。


「不純物なら、すでに用意してある。……最高の『フィルター』がな」


 その夜。西園寺邸。

 井上は「婚約者」として、堂々と正門をくぐった。

 出迎えた麗華は、満面の笑みで井上の腕に飛びついた。


「いらっしゃい、健太郎さん! 待っていたわ」

「お招きありがとう、麗華」


 井上は麗華の額にキスを落とす。

 麗華は有頂天だ。

 猛が失脚し、貴子が部屋に引きこもりがちになっている今、彼女はこの屋敷の実質的な主人として振る舞っていた。


「さあ、お部屋へどうぞ。……今日は私の隣のゲストルームを用意させたの」

「それは光栄だ」


 井上は案内された部屋に入った。

 豪華な調度品。キングサイズのベッド。

 そして、専用のバスルーム。


「ゆっくりお風呂に入ってね。……その後で、少しお話しましょ?」

「ああ。楽しみにしているよ」


 麗華が名残惜しそうに部屋を出ていくと、井上は表情を消した。

 部屋を見渡す。

 一見、完璧に清掃されているように見える。

 だが、プロの目は誤魔化せない。

 通気口の奥、鏡の裏。

 微かな違和感がある。盗撮カメラか、あるいは侵入のための細工か。


 井上は服を脱ぎ、バスローブを羽織った。

 そして、バスルームへと向かった。

 蛇口を捻り、バスタブに湯を張る。

 湯気が充満する中、井上はシャワーを浴び、髪を洗った。

 排水溝に、数本の髪の毛が流れていく。

 さらに、使い終わったタオルで体を拭き、無造作に脱衣籠に放り込んだ。

 使用済みの歯ブラシも、コップに立てておく。


 DNAの宝庫だ。

 これを回収されれば、一発でアウトだ。

 だが、井上は涼しい顔でバスルームを出た。


「……頼んだぞ、茉莉」


 井上は心の中で呟き、麗華の待つ部屋へと向かった。


 深夜2時。

 屋敷が静まり返った頃。

 ゲストルームの窓が、音もなく開いた。

 侵入してきたのは、黒い服に身を包んだ小柄な男だった。

 貴子が雇った私立探偵――の配下の、潜入工作員だ。


 男はペンライトを口にくわえ、慎重にバスルームへと忍び込んだ。

 狙いは、井上が使用した痕跡。

 排水溝の髪の毛。脱衣籠のタオル。使用済みの歯ブラシ。

 男は手際よくそれらをピンセットで採取し、証拠保全用のビニール袋に入れていく。


「……へっ、チョロいもんだ」


 男はほくそ笑んだ。

 これだけサンプルがあれば、鑑定は確実だ。

 報酬は弾むだろう。


 男は痕跡を残さないよう、慎重に撤収した。

 窓から庭へ降り、闇に紛れて消えていく。


 その様子を、2階の窓から冷ややかに見下ろす影があった。

 メイドの池田茉莉だ。


「……ご苦労様です、ネズミさん」


 茉莉はクスクスと笑った。

 彼女の手には、ビニール袋に入った「ゴミ」が握られていた。

 それは、先ほど探偵が回収していったはずの――本物の井上の髪の毛と、使用済み歯ブラシだった。


 数時間前。

 井上がバスルームを出た直後、茉莉は「タオルの交換」と称して部屋に入っていた。

 そして、排水溝に残っていた井上の髪の毛を全て回収し、代わりに用意しておいた「別の毛」を配置した。

 歯ブラシも、同じ型番の新品を少し傷つけ、別人の唾液を付着させたものとすり替えた。

 タオルも同様だ。


 その「別人」のサンプルを提供したのは、山崎桃子だ。

 彼女が闇ルートで入手した、身元不明のホームレスや、あるいは廃棄された医療廃棄物から採取したDNA。

 井上とは似ても似つかない、赤の他人の遺伝子情報。


「貴女様が手に入れるのは、真実ではありません」


 茉莉は回収した本物の井上の髪の毛を、携帯用焼却器に入れて燃やした。

 チリチリと燃え尽き、灰になる。

 これで、証拠は完全に消滅した。


「貴女様が掴むのは、実体のない幽霊の尻尾だけですわ」


 茉莉は一礼し、闇に溶けた。

 完璧な隠蔽工作。

 メイドとして、スパイとして、彼女の仕事に抜かりはない。


 翌日。

 西園寺貴子の書斎。

 探偵からの報告書が届いていた。


『DNA鑑定結果報告書』


 貴子は震える手で封を開けた。

 中には、複雑な塩基配列のデータと、鑑定結果が記されていた。


 【鑑定結果:不一致】

 【採取されたサンプルのDNA型は、帝都グループ退職者リスト内の該当人物の保存データといずれも一致しませんでした。別人の可能性が極めて高いと判断されます】


「……そんな……」


 貴子は報告書をデスクに落とした。

 疑っていた。

 あの男の、内部事情を知り尽くしたかのような振る舞い。

 絶対に、会社を恨んで辞めた元社員の誰かが、顔を変えて戻ってきたのだと思っていた。

 探偵にも「最近辞めた男のデータを総当たりしろ」と命じていた。

 だが、科学がそれを否定した。


「……私の、勘違い?」

「元社員ですらないと言うの? ……じゃあ、あの男は一体何者なの?」


 貴子は頭を抱えた。

 最近、思考がまとまらない。

 物忘れが増え、感情の制御が効かなくなっている。

 そこに、この鑑定結果。

 自分がおかしくなってしまったのか?

 被害妄想に囚われ、無関係な投資家を敵視してしまったのか?


「……ああ、頭が痛い」


 貴子はベルを鳴らした。


「茉莉! お茶を! ……いつもの薬も持ってきて!」


 ドアが開き、茉莉が入ってきた。

 お盆には、湯気を立てる紅茶と、いつもの錠剤。

 そして、その紅茶の中には、今日も一滴の「毒」が混ぜられている。


「どうぞ、奥様。……お疲れのご様子ですね」


 茉莉は優しく微笑んだ。

 貴子はその笑顔に疑いを抱くこともなく、差し出された毒を飲み干した。


「……ええ。疲れたわ。何もかもが、思い通りにいかないの」

「ご安心ください。……全ては、あるべき場所へと収まりますわ」


 茉莉の言葉は、予言のように響いた。

 あるべき場所。

 それは、貴子にとっては地獄の底だ。


 アマン東京。

 報告を受けた井上は、ソファで仔猫のハイを撫でながら、満足げに頷いた。


「ご苦労だった、茉莉。……これで貴子は、自分の正気さえ信じられなくなる」


 コンソメ・ドゥーブルのように澄み切ったスープから不純物を取り除くように、井上は自分への疑いを科学的に排除した。

 残ったのは、純粋な「投資家・井上健太郎」という虚像だけ。


 足元では、ハイが井上の指を甘噛みしている。

 痛痒い感触。

 だが、今の井上には、それすらも心地よい刺激だった。


「チェックメイトまで、あと数手だ」


 井上は窓の外を見た。

 秋の空は高く、澄み渡っている。

 だが、西園寺家の上にだけは、逃れようのない暗雲が垂れ込めていた。

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