第35話 科学的な隠蔽
アマン東京のスイートルームは、静謐な香気に満たされていた。
華やかなスパイスや、食欲をそそる油の匂いではない。
もっと根源的で、研ぎ澄まされた「素材」そのものの香り。
井上健太郎は、キッチンで寸胴鍋を見守っていた。
鍋の中では、茶色く濁った液体が対流している。
だが、これは失敗ではない。ここからが「浄化」の工程だ。
『コンソメ・ドゥーブル』。
フランス料理の宝石と称される、究極のスープ。
一度引いたブイヨンに、さらに牛スネ肉と香味野菜、そして大量の「卵白」を加えて煮込む。
熱で固まる卵白が、スープの中の微細なアクや不純物を吸着し、浮上してくる。
『クラリフィエ』と呼ばれる作業だ。
「……静かに、濁らせるな」
井上は祈るように火加減を調整する。
ボコボコと沸騰させてはいけない。対流に乗せて、ゆっくりと不純物を吸着させる。
やがて、鍋の表面に分厚い茶色の層が蓋のように形成される。
その中央に開けた「呼吸穴」から、透き通った黄金色の液体が顔を覗かせる。
完成だ。
井上は慎重にレードルを差し入れ、黄金の雫をすくい取った。
ネルの布で濾すと、そこには一点の曇りもない、輝くような琥珀色のスープだけが残った。
雑味ゼロ。純度100%の旨味の結晶。
井上はそれを、温めたティーカップに注いだ。
合わせるのは、スペイン産のシェリー酒『アモンティリャード』。
琥珀色に熟成されたシェリーは、ナッツのような芳醇な香りを持ち、コンソメの深いコクをさらに引き立てる。
「……どうぞ」
井上はカップとグラスを、ダイニングテーブルに運んだ。
そこに座っているのは、斎藤冴子だ。
今日の彼女は、取材帰りのパンツスーツ姿で、少し疲れた顔をしていた。
「……いい匂い。これ、ただのスープ?」
「飲んでみれば分かる」
冴子はカップを口に運んだ。
一口啜る。
彼女の目が大きく見開かれた。
「……っ! 何これ……味が、濃い。でも、すごく優しい」
舌の上で広がるのは、牛と野菜の凝縮された旨味。
だが、脂っこさや雑味は一切ない。
五臓六腑に染み渡るような、滋味深い味わい。
そこに、アモンティリャードを一口含む。
シェリーの酸味と熟成香が、スープの余韻と絡み合い、鼻腔へと抜けていく。
「……浄化されるわね。汚い世の中の毒素が、全部洗い流されていくみたい」
冴子はため息をついた。
彼女は今、帝都グループの不正を暴く記事を連日執筆し、世論という荒波と戦っている。その疲弊した精神に、このスープは特効薬のように効いた。
「料理は科学だ」
井上も自分の分を啜りながら言った。
「不要なものを取り除き、本質だけを抽出する。……今の俺たちがやっていることと同じだ」
「不要なもの、ね」
冴子はグラスを置いた。
その表情が、ジャーナリストの鋭い顔に戻る。
「貴子の動きが、いよいよ露骨になってきたわ。……探偵事務所を使って、あなたの『DNA』を手に入れようとしている」
「DNAか。……予想通りだ」
井上は眉一つ動かさなかった。
「貴子は俺を疑っている。……『こいつは帝都グループの内情に詳しすぎる』とな」
「ええ。だから、彼女は仮説を立てた。『井上健太郎は、過去に帝都を恨んで辞めた元社員のなりすましではないか』と」
冴子の言葉に、井上は頷いた。
貴子の獣のような勘は、正解に近いところまで迫っている。
彼女にとって、辞めていった社員など有象無象のゴミに過ぎない。顔も名前も覚えていないだろう。
だが、だからこそ「誰か」が顔を変えて戻ってきた可能性を否定しきれないのだ。
もしDNAが過去の社員データと一致すれば、井上を詐欺罪や身分詐称で告発し、一発逆転できる。
「今夜、あなたは西園寺家に泊まる予定よね? 麗華との婚約者として」
「ああ」
「探偵はそこを狙ってくるわ。……浴室、ベッド、洗面所。あなたが落とす髪の毛一本、皮膚片一つが命取りになる」
冴子の忠告はもっともだ。
人間は生きている限り、DNAを撒き散らす。
完全に防ぐことは不可能だ。
「心配いらない」
井上はコンソメを飲み干し、不敵に笑った。
「不純物なら、すでに用意してある。……最高の『フィルター』がな」
その夜。西園寺邸。
井上は「婚約者」として、堂々と正門をくぐった。
出迎えた麗華は、満面の笑みで井上の腕に飛びついた。
「いらっしゃい、健太郎さん! 待っていたわ」
「お招きありがとう、麗華」
井上は麗華の額にキスを落とす。
麗華は有頂天だ。
猛が失脚し、貴子が部屋に引きこもりがちになっている今、彼女はこの屋敷の実質的な主人として振る舞っていた。
「さあ、お部屋へどうぞ。……今日は私の隣のゲストルームを用意させたの」
「それは光栄だ」
井上は案内された部屋に入った。
豪華な調度品。キングサイズのベッド。
そして、専用のバスルーム。
「ゆっくりお風呂に入ってね。……その後で、少しお話しましょ?」
「ああ。楽しみにしているよ」
麗華が名残惜しそうに部屋を出ていくと、井上は表情を消した。
部屋を見渡す。
一見、完璧に清掃されているように見える。
だが、プロの目は誤魔化せない。
通気口の奥、鏡の裏。
微かな違和感がある。盗撮カメラか、あるいは侵入のための細工か。
井上は服を脱ぎ、バスローブを羽織った。
そして、バスルームへと向かった。
蛇口を捻り、バスタブに湯を張る。
湯気が充満する中、井上はシャワーを浴び、髪を洗った。
排水溝に、数本の髪の毛が流れていく。
さらに、使い終わったタオルで体を拭き、無造作に脱衣籠に放り込んだ。
使用済みの歯ブラシも、コップに立てておく。
DNAの宝庫だ。
これを回収されれば、一発でアウトだ。
だが、井上は涼しい顔でバスルームを出た。
「……頼んだぞ、茉莉」
井上は心の中で呟き、麗華の待つ部屋へと向かった。
深夜2時。
屋敷が静まり返った頃。
ゲストルームの窓が、音もなく開いた。
侵入してきたのは、黒い服に身を包んだ小柄な男だった。
貴子が雇った私立探偵――の配下の、潜入工作員だ。
男はペンライトを口にくわえ、慎重にバスルームへと忍び込んだ。
狙いは、井上が使用した痕跡。
排水溝の髪の毛。脱衣籠のタオル。使用済みの歯ブラシ。
男は手際よくそれらをピンセットで採取し、証拠保全用のビニール袋に入れていく。
「……へっ、チョロいもんだ」
男はほくそ笑んだ。
これだけサンプルがあれば、鑑定は確実だ。
報酬は弾むだろう。
男は痕跡を残さないよう、慎重に撤収した。
窓から庭へ降り、闇に紛れて消えていく。
その様子を、2階の窓から冷ややかに見下ろす影があった。
メイドの池田茉莉だ。
「……ご苦労様です、ネズミさん」
茉莉はクスクスと笑った。
彼女の手には、ビニール袋に入った「ゴミ」が握られていた。
それは、先ほど探偵が回収していったはずの――本物の井上の髪の毛と、使用済み歯ブラシだった。
数時間前。
井上がバスルームを出た直後、茉莉は「タオルの交換」と称して部屋に入っていた。
そして、排水溝に残っていた井上の髪の毛を全て回収し、代わりに用意しておいた「別の毛」を配置した。
歯ブラシも、同じ型番の新品を少し傷つけ、別人の唾液を付着させたものとすり替えた。
タオルも同様だ。
その「別人」のサンプルを提供したのは、山崎桃子だ。
彼女が闇ルートで入手した、身元不明のホームレスや、あるいは廃棄された医療廃棄物から採取したDNA。
井上とは似ても似つかない、赤の他人の遺伝子情報。
「貴女様が手に入れるのは、真実ではありません」
茉莉は回収した本物の井上の髪の毛を、携帯用焼却器に入れて燃やした。
チリチリと燃え尽き、灰になる。
これで、証拠は完全に消滅した。
「貴女様が掴むのは、実体のない幽霊の尻尾だけですわ」
茉莉は一礼し、闇に溶けた。
完璧な隠蔽工作。
メイドとして、スパイとして、彼女の仕事に抜かりはない。
翌日。
西園寺貴子の書斎。
探偵からの報告書が届いていた。
『DNA鑑定結果報告書』
貴子は震える手で封を開けた。
中には、複雑な塩基配列のデータと、鑑定結果が記されていた。
【鑑定結果:不一致】
【採取されたサンプルのDNA型は、帝都グループ退職者リスト内の該当人物の保存データといずれも一致しませんでした。別人の可能性が極めて高いと判断されます】
「……そんな……」
貴子は報告書をデスクに落とした。
疑っていた。
あの男の、内部事情を知り尽くしたかのような振る舞い。
絶対に、会社を恨んで辞めた元社員の誰かが、顔を変えて戻ってきたのだと思っていた。
探偵にも「最近辞めた男のデータを総当たりしろ」と命じていた。
だが、科学がそれを否定した。
「……私の、勘違い?」
「元社員ですらないと言うの? ……じゃあ、あの男は一体何者なの?」
貴子は頭を抱えた。
最近、思考がまとまらない。
物忘れが増え、感情の制御が効かなくなっている。
そこに、この鑑定結果。
自分がおかしくなってしまったのか?
被害妄想に囚われ、無関係な投資家を敵視してしまったのか?
「……ああ、頭が痛い」
貴子はベルを鳴らした。
「茉莉! お茶を! ……いつもの薬も持ってきて!」
ドアが開き、茉莉が入ってきた。
お盆には、湯気を立てる紅茶と、いつもの錠剤。
そして、その紅茶の中には、今日も一滴の「毒」が混ぜられている。
「どうぞ、奥様。……お疲れのご様子ですね」
茉莉は優しく微笑んだ。
貴子はその笑顔に疑いを抱くこともなく、差し出された毒を飲み干した。
「……ええ。疲れたわ。何もかもが、思い通りにいかないの」
「ご安心ください。……全ては、あるべき場所へと収まりますわ」
茉莉の言葉は、予言のように響いた。
あるべき場所。
それは、貴子にとっては地獄の底だ。
アマン東京。
報告を受けた井上は、ソファで仔猫のハイを撫でながら、満足げに頷いた。
「ご苦労だった、茉莉。……これで貴子は、自分の正気さえ信じられなくなる」
コンソメ・ドゥーブルのように澄み切ったスープから不純物を取り除くように、井上は自分への疑いを科学的に排除した。
残ったのは、純粋な「投資家・井上健太郎」という虚像だけ。
足元では、ハイが井上の指を甘噛みしている。
痛痒い感触。
だが、今の井上には、それすらも心地よい刺激だった。
「チェックメイトまで、あと数手だ」
井上は窓の外を見た。
秋の空は高く、澄み渡っている。
だが、西園寺家の上にだけは、逃れようのない暗雲が垂れ込めていた。




