第33話 有頂天の麗華
アマン東京のスイートルームに、平和な朝の光が差し込んでいた。
だが、その静けさを破る、激しい駆動音が響いていた。
ウィーン、カシャカシャカシャ!
リビングの床に置かれているのは、井上健太郎がネット通販で購入した最新鋭の猫用おもちゃ、『ハンティング・マスター2000』だ。
円盤状の本体からランダムに飛び出す羽根やレーザーポインターが、仔猫の狩猟本能を刺激する。
「……ミャウッ! フンッ!」
仔猫のハイは、狂乱状態だった。
右から飛び出した羽根に飛びつき、左に走るレーザーを追いかけ、滑って転び、また飛び掛かる。
銀色の毛玉が弾丸のように部屋中を駆け回っている。
ゼェゼェと息を切らしながらも、その目は爛々と輝き、絶対に獲物を逃さないという野生の覇気に満ちていた。
「……元気だな」
井上はコーヒーを飲みながら、その様子を微笑ましく眺めていた。
隣のソファでは、森舞永が欠伸をしている。
「ボス、買いすぎじゃない? あっちにも新しいキャットタワー届いてるわよ」
「必要経費だ。……ハイの運動不足解消のためにな」
「へーえ。単なる親バカにしか見えないけど」
舞永が冷やかすと、ハイが突然動きを止めた。
電池が切れたように、パタリとラグの上に倒れ込む。
そして、手足を投げ出し、白目を剥いて瞬時に眠りに落ちた。
「……寝た」
「子供ねぇ」
井上はハイに近づき、そっとブランケットを掛けてやった。
小さな寝息。
無防備な寝顔。
この無垢な生き物を見ていると、自分が犯している罪の重さを一瞬忘れそうになる。
だが、忘れてはならない。
この平穏を守るためにこそ、自分は悪魔にならなければならないのだから。
「……行くぞ」
井上は立ち上がった。
今日は、婚約者として帝都グループ本社へ乗り込む日だ。
表向きは「挨拶」だが、実態は「侵略」の第一歩。
帝都グループ本社ビル。
その最上階にある社長室は、かつてないほどの高揚感に包まれていた。
「見て! また株価が上がったわ!」
西園寺麗華は、タブレット端末の画面を見て歓声を上げた。
昨日の「公開プロポーズ」の効果は絶大だった。
兄・猛の逮捕で暴落していた株価は、井上の「巨額出資」と「婚約」というポジティブなニュースによってV字回復し、ストップ高を記録していた。
世間の論調も一変した。
『悪徳企業の令嬢』から『愛に生きる悲劇のヒロイン』へ。
斎藤冴子が仕掛けた情報操作は、完璧に機能していた。
「素晴らしいですわ、麗華様」
傍らに控える秘書の女性――ではなく、メイドとして同行してきた池田茉莉が、恭しく紅茶を注いだ。
「これも全て、貴女様の人徳と、井上様への愛の力です」
「ええ、そうね。……やっぱり、私は選ばれた人間なのよ」
麗華は陶酔しきった表情で紅茶を受け取った。
今日の彼女は、シャネルの純白のスーツに身を包み、左手の薬指には井上から贈られたハリー・ウィンストンの指輪が輝いている。
その姿は、自信に満ち溢れ、光り輝いているように見えた。
だが、その輝きは、崩壊寸前の恒星が放つ最後の瞬きのような、危うさを孕んでいた。
コンコン。
ノックの音が響く。
「……どうぞ」
ドアが開き、秘書が緊張した面持ちで告げた。
「井上健太郎様が到着されました」
「通して!」
麗華は弾かれたように立ち上がり、髪を整えた。
ドアが大きく開かれる。
逆光を背負って現れたのは、完璧なスーツ姿の井上健太郎だった。
その美貌は、無機質なオフィスを一瞬で映画のセットに変えてしまうほどのオーラを放っている。
「健太郎さん!」
「麗華」
井上は優雅に歩み寄り、麗華の腰を抱き寄せた。
そして、挨拶代わりに軽いキスを落とす。
秘書たちが顔を赤らめて目を伏せる。
「……会いたかった」
「私もよ。……昨日の今日なのに、もう寂しかったわ」
麗華は甘えた声で井上の胸に顔を埋めた。
井上は優しく彼女の頭を撫でながら、その肩越しに部屋の中を見渡した。
部屋の隅には、茉莉が控えている。
目が合うと、茉莉は微かに頷いた。
『準備完了』の合図だ。
「さあ、座って。……今日は貴女に、プレゼントを持ってきたんだ」
井上は麗華をソファに座らせ、持参したアタッシュケースを開いた。
中から出てきたのは、分厚い書類の束だった。
「これは?」
「『K.I.ホールディングス』による、帝都グループへの出資契約書だ。……約束通り、500億円を用意した」
500億。
その金額に、麗華は息を呑んだ。
これがあれば、銀行の融資引き上げにも耐えられる。会社の危機を救うことができる。
「健太郎さん……本当に、いいの?」
「君のためなら、安いものさ。……ただし、一つだけ条件がある」
井上は契約書の最後のページを開いた。
「この出資と引き換えに、僕を『特別顧問』として経営に参加させてほしい。……君を支えるためには、正式な肩書きが必要なんだ」
特別顧問。
実務権限を持ち、取締役会にも出席できる強力なポストだ。
通常なら、外部の人間をいきなり中枢に入れることなどあり得ない。
だが、今の麗華には、それを拒否する理由も、判断する能力もなかった。
「もちろんよ! 貴方がいてくれれば百人力だわ!」
「ありがとう。……では、ここにサインを」
井上は万年筆を差し出した。
モンブランの『マイスターシュテュック』。
かつて、灰谷守が憧れ、ショーケース越しに眺めるだけだった高級万年筆だ。
麗華は疑うことなくペンを受け取り、サラサラと署名した。
その瞬間、帝都グループの城門は内側から開かれた。
「……これで、僕たちは運命共同体だ」
井上は契約書を回収し、満足げに微笑んだ。
その笑顔の裏にある冷酷な計算に、麗華は気づかない。
「ねえ、健太郎さん。……母様にも挨拶してくださる?」
「ああ、もちろんだ。……会長はどちらに?」
「奥の会長室よ。……最近、少し体調が優れないみたいで、ずっと引きこもっているの」
麗華は少し声を潜めた。
「なんか、怒りっぽくて……物忘れも激しいの。昨日の私の婚約会見を見て、リモコンをテレビに投げつけたんですって」
「それは……心配だな」
井上は眉をひそめて見せたが、内心では舌を出していた。
順調だ。
茉莉が盛っている「薬」が効いている。
そして、麗華の勝手な行動が、貴子の精神をさらに追い詰めている。
「お見舞いに行こう。……良い報告もあることだし」
井上は麗華の手を取り、立ち上がった。
茉莉が先導するようにドアを開ける。
向かう先は、このビルの最深部。女帝の玉座だ。
会長室。
重厚なカーテンが閉め切られ、部屋は薄暗かった。
空気清浄機の音だけが響く静寂の中、西園寺貴子はデスクに突っ伏していた。
「……母様?」
麗華が恐る恐る声をかけると、貴子はゆっくりと顔を上げた。
その顔色は土気色で、目の下には深い隈ができている。
かつての威厳ある女帝の姿は見る影もなく、ただの疲れた老婆のように見えた。
「……何よ。ノックもしないで」
「失礼しました。……健太郎さんが、ご挨拶に来てくださったの」
麗華が井上を招き入れる。
井上は一歩進み出て、深々と頭を下げた。
「ご無沙汰しております、お義母様」
お義母様。
その言葉に、貴子の眉がピクリと動いた。
「誰が義母よ。……図々しい」
「ふふ、もう婚約しましたから。……これ、出資の契約書です」
麗華は勝ち誇ったように、先ほどサインした契約書を貴子の目の前に置いた。
「500億よ、母様。……これで文句はないでしょう? 私が会社を救ったのよ」
貴子は書類をひったくり、震える手で目を通した。
文字が霞む。頭が働かない。
だが、金額の桁数だけは理解できた。
「……500億……」
「ええ。条件として、健太郎さんを特別顧問に迎えます。……もうサインしましたから、決定事項よ」
事後承諾。
かつてなら激怒して破り捨てていただろう。
だが今の貴子には、それを拒絶する気力も、代案を出す頭脳も残っていなかった。
金が必要なのは事実だ。銀行は冷たい。
「……勝手にしなさい」
貴子は書類を投げ返した。
「ただし、失敗したら許さないわよ。……私の椅子を脅かすような真似をしたら、即刻クビにするから」
「もちろんです。……私はあくまで、麗華さんと会長を支える黒子に徹します」
井上は殊勝な態度で答えた。
黒子。
そう、影から操る人形使い。
「……気分が悪いわ。下がって」
貴子は手でシッシッと追い払う仕草をした。
茉莉がすかさず近づき、水差しから水を注いだ。
「お薬の時間でございます、奥様」
「……ああ、そうね」
貴子は疑うことなく、茉莉から渡された錠剤と、水を飲み干した。
これで、また思考の霧が濃くなる。
会長室を出ると、麗華は晴れ晴れとした顔をしていた。
「見た? 母様のあの顔! ……ざまあみろだわ」
麗華はクスクスと笑った。
母親を屈服させた優越感。
彼女は今、人生で最高の有頂天にあった。
「これで帝都グループは安泰よ。……私と健太郎さんで、新しい時代を作るの」
「ああ。……楽しみだね」
井上は同意しながら、心の中で冷たく呟いた。
『そうだな。帝都グループは安泰だ。……ただし、お前たちのいない形でな』
麗華は井上の腕に絡みつき、甘えた声を出した。
「ねえ、今夜はお祝いしましょ? ……私の部屋で」
「残念だが、まだ手続きが残っている。……明日からは忙しくなるぞ。社長就任の準備がある」
「えー、つまんない。……でも、社長になるなら仕方ないわね」
麗華は不満そうに頬を膨らませたが、すぐに「社長」という甘美な響きに酔いしれた。
「分かったわ。……じゃあ、明日の朝、迎えに来てね」
「約束するよ」
井上は麗華をエレベーターホールまで送り届け、キスをして別れた。
扉が閉まり、麗華の笑顔が見えなくなった瞬間。
井上の表情から、感情が抜け落ちた。
「……疲れる女だ」
井上はハンカチで唇を拭った。
背後で、茉莉が静かに佇んでいる。
「お疲れ様でした、旦那様。……名演技でしたわ」
「お前もな。……貴子の様子はどうだ?」
「順調に壊れてきております。……感情の起伏が激しくなり、記憶の混濁も見られます。もう、まともな経営判断はできません」
「よし。……次の段階だ」
井上はスマートフォンを取り出し、木村心にメッセージを送った。
『フェーズ3、開始。……内部データを拡散しろ』
猛の件で揺らいだ帝都グループの信用。
そこに、トドメの一撃を叩き込む。
貴子の隠し資産、裏金、そして過去の不正の数々。
それらをネットの海に放流し、株主たちの不安を極限まで煽るのだ。
女帝を疑心暗鬼の檻に閉じ込め、完全に孤立させるために。
井上は窓の外、眼下に広がる東京の街を見下ろした。
この巨大な王国が、音を立てて崩れ去る時が来た。
その夜。
アマン東京に戻った井上は、ソファで眠るハイの寝顔を見ながら、静かにグラスを傾けた。
有頂天の麗華。
孤立する貴子。
そして、その背後で糸を引く自分。
高笑いをするがいい。
その笑い声が、悲鳴に変わる瞬間まで、もう少しの辛抱だ。




