第32話 プロポーズの演出
決戦の日の朝。アマン東京のスイートルームは、嵐の前の静けさに包まれていた。
だが、その静寂を破るような、奇妙な光景がリビングの中央にあった。
3人掛けのイタリア製高級ソファ。
そのど真ん中を、灰色の小さな毛玉が独占していた。
仔猫のハイだ。
彼は今、野生を完全に放棄した姿で熟睡していた。
仰向けになり、四肢をだらりと投げ出す「へそ天」スタイル。ここまでは猫にはよくあることだ。
だが、ハイのそれは芸術的だった。
首が直角に曲がり、上半身と下半身が雑巾を絞ったようにねじれている。前足は「幽霊」のように胸の前で垂れ下がり、後ろ足はパカッと開脚している。
極めつけは顔だ。口を半開きにし、ピンク色の舌をチロリと出し、白目を剥いている。
「……ボス、これ生きてるの?」
森舞永がコーヒーカップ片手に、呆れたように覗き込んだ。
井上健太郎はネクタイを締めながら、苦笑した。
「安心しろ。……いびきが聞こえる」
耳を澄ませば、ズピー、ズピー、という親父のようないびきが聞こえてくる。
時折、夢の中で獲物を追っているのか、前足がピクピクと痙攣し、口がモグモグと動く。
「完全に無警戒ね。……ここが安全だって分かってるんだわ」
舞永がハイの無防備な腹を指先でツンと突いた。
ハイは「んぐっ」と変な声を漏らしたが、起きる気配はない。むしろ、さらにねじれてソファの隙間に顔を埋めてしまった。
その姿は、まるで酔い潰れて駅のホームで寝ているサラリーマンのようだ。
「平和だな」
井上は目を細めた。
この部屋だけは、時間が止まっているかのようだ。
だが、一歩外に出れば、そこは魑魅魍魎が跋扈する修羅場だ。
今日は、西園寺麗華との「婚約」を公表する日。
彼女を完全に傀儡とし、帝都グループ乗っ取りの足場を固めるための、一大パフォーマンスが行われる。
「……そろそろ時間だ」
井上はジャケットを羽織った。
今日の衣装は、光沢のあるライトグレーのスーツ。
「白馬の王子様」を演じるための舞台衣装だ。
「行ってくる。……ハイが起きたら、高い缶詰を開けてやってくれ」
「了解。……頑張ってね、王子様」
舞永がヒラヒラと手を振る。
井上はハイの奇妙な寝姿を目に焼き付け、戦場へと向かった。
東京・銀座。
中央通りに面した帝都グループ所有の商業施設『テイト・プラザ』のエントランス前には、朝から黒山の人だかりができていた。
今日は、帝都グループが支援するチャリティー財団の設立記念イベントが行われる。
本来なら、会長の西園寺貴子が出席するはずだったが、彼女は「体調不良」を理由に欠席。
代わりに出席するのは、次期社長候補として名前が挙がっている西園寺麗華だ。
マスコミの狙いは、当然ながら兄・猛の逮捕劇についてのコメントだ。
フラッシュの嵐。怒号のような質問。
「麗華さん! お兄様の逮捕について一言!」
「被害者女性への謝罪は済ませたのですか!?」
「次期社長就任の噂は本当ですか!?」
黒塗りの車から降り立った麗華は、SPに囲まれながら、必死に笑顔を作っていた。
だが、その顔は引きつっている。
白いドレスが、彼女の顔色の悪さを余計に際立たせていた。
「……ノーコメントです。後日、正式に発表させていただきます」
麗華はか細い声で繰り返し、逃げるように特設ステージへと上がった。
群衆の視線が痛い。
好奇心、軽蔑、悪意。
かつて自分が他人に向けていた視線が、今は何百倍にもなって自分に降り注いでいる。
(怖い……誰か、助けて……)
麗華はマイクの前に立ったが、手が震えて原稿が読めない。
母・貴子は自分を見捨てて屋敷に引きこもっている。
兄はいない。
私は一人ぼっちだ。
孤独と恐怖で、視界が滲む。
その時だった。
キキーッ!
鋭いブレーキ音と共に、一台の銀色のリムジンが、マスコミの列を割ってエントランスに乗り付けた。
特注色のイリジウム・シルバーに輝く、マイバッハ S680。
先日のパーティーで会場の度肝を抜いた、あの車だ。
運転席から降りた女性ドライバー――ドレス姿の森舞永が、恭しく後部座席のドアを開けた。
そこから、一人の男が颯爽と降り立った。
「……待たせたね、麗華」
よく通るバリトンボイスが、喧騒を切り裂いた。
マスコミが一斉に振り返る。
そこにいたのは、映画スターのようなオーラを放つ美貌の男――井上健太郎だった。
「け、健太郎さん……!」
麗華の顔が輝いた。
地獄に仏、いや、塔に幽閉された姫を救いに来た王子様。
井上はSPたちを手で制し、悠然とレッドカーペットを歩いてステージへ上がった。
その堂々たる態度は、マスコミたちをも圧倒し、自然と道を開けさせた。
「遅くなってすまない。……君を一人にはさせないと言っただろう?」
井上は麗華の隣に立ち、その腰を力強く抱き寄せた。
麗華は崩れ落ちるように井上の胸に寄りかかった。
カメラのシャッター音が、機関銃のように炸裂する。
「あ、あの男は誰だ!?」
「先日のパーティーにいた投資家か?」
「K.I.ホールディングスの井上だ!」
記者たちがざわめく。
井上はマイクを取り、群衆を見渡した。
その瞳は、カメラのレンズを通して全世界を見据えている。
「皆様、お騒がせしております。……西園寺麗華さんのパートナー、井上健太郎です」
井上は宣言した。
「現在、帝都グループは未曾有の危機にあります。……ですが、彼女は逃げずにここに立った。その勇気を、僕は心から愛しています」
甘い言葉。
だが、計算された演出だ。
「悪徳企業の令嬢」というイメージを、「困難に立ち向かう健気なヒロイン」へと書き換えるためのシナリオ。
「麗華」
井上はマイクを置き、麗華に向き直った。
そして、群衆の目の前で、片膝をついた。
「キャァァァッ!」
「おい、まさか……!」
悲鳴のような歓声が上がる。
井上は懐から、小さなベルベットの箱を取り出した。
パカッ。
中には、大粒のダイヤモンドが嵌められた指輪が輝いている。
『ハリー・ウィンストン』の特注品。数千万円の輝きだ。
「僕と、結婚してくれませんか」
井上は言った。
その声は、マイクを通さなくても、会場の隅々まで響き渡った。
「君の背負う十字架も、苦しみも、全て僕が半分引き受ける。……共に歩こう」
麗華は両手で口元を覆い、涙を溢れさせた。
これは夢ではない。
世界中の注目が集まる中で、最高の男性から求婚されているのだ。
兄の逮捕も、母の冷遇も、今のこの幸福の前では霞んでしまう。
「……はい。……はいっ! 喜んで!」
麗華は叫んだ。
井上は優しく微笑み、彼女の左手の薬指に指輪を滑り込ませた。
サイズは完璧だ。事前に調べ上げている。
井上は立ち上がり、麗華を抱きしめた。
そして、カメラに向かって、彼女の涙を拭う仕草を見せつけた。
完璧な絵面。
「財閥の危機を救う愛の物語」の完成だ。
会場中から拍手と喝采が巻き起こる。
マスコミも、スキャンダルの追及を忘れ、このドラマチックな展開に熱狂している。
井上は麗華の肩越しに、群衆の中に紛れ込んでいる一人の女性と目を合わせた。
斎藤冴子。
彼女はニヤリと笑い、スマートフォンを操作した。
『送信完了』の合図だ。
その瞬間、ネット上には冴子が書き上げた記事が一斉に配信された。
『帝都の救世主現る! 謎の天才投資家・井上健太郎、令嬢・麗華と電撃婚約』
『愛は会社を救うか? 井上氏、帝都グループへの巨額出資を表明』
『美しすぎるカップルの誕生! 猛批判から一転、祝福ムードへ』
冴子の筆致は巧みだった。
井上を「彗星のごとく現れた白馬の騎士」として持ち上げ、麗華を「悲劇を乗り越えるプリンセス」として描く。
大衆はスキャンダルを好むが、それ以上に「ロマンス」と「逆転劇」を好む。
猛へのヘイトは、井上と麗華への興味と好意へとスライドしていく。
「……やったわね」
冴子は人混みの中で呟いた。
これで、井上は帝都グループの「内部」に入り込む正当な権利を手に入れた。
株主も世間も、この「救世主」の登場を歓迎するだろう。
そして、その救世主こそが、国を滅ぼすトロイの木馬であることには、まだ誰も気づいていない。
ステージの上。
井上は麗華の腰を抱きながら、耳元で囁いた。
「……これで、君はもう一人じゃない」
「ええ、健太郎さん……愛してるわ」
麗華は陶酔しきった目で井上を見上げている。
井上もまた、愛おしげに彼女を見つめ返した。
その瞳の奥で、氷の刃を研ぎ澄ませながら。
(愛しているとも。……お前が持っている『株』と『議決権』をな)
井上の計画は次のフェーズへと移行する。
麗華との婚約を梃子に、帝都グループの経営権に介入する。
そして、孤立した女帝・貴子を玉座から引きずり下ろす。
フラッシュが二人を包む。
それは、祝福の光であると同時に、破滅へのカウントダウンを告げるストロボの明滅だった。
★★★★★★★★★★★
その頃、西園寺邸。
書斎のテレビで中継を見ていた西園寺貴子は、リモコンを画面に投げつけた。
ガシャン!
液晶にヒビが入る。
「……何が愛よ! 馬鹿馬鹿しい!」
貴子は激昂した。
麗華が勝手に婚約を発表したこと。
そして、あの得体の知れない男・井上が、土足で西園寺家の領域に踏み込んできたこと。
全てが気に入らない。
「あの男……やはり危険だわ。乗っ取る気ね」
貴子の直感は正しい。
だが、彼女の思考はそこで途切れた。
ズキリ、と頭の芯が痛む。
「……あれ? 私、何をするつもりだったかしら?」
貴子はこめかみを押さえた。
怒りは覚えているのに、具体的な対策が思い浮かばない。
思考に霧がかかったようだ。
茉莉が盛り続けている「薬」の効果が、確実に脳を蝕んでいた。
「……お茶。茉莉、お茶を持ってきなさい!」
貴子はベルを鳴らした。
その一杯が、さらなる毒であるとも知らずに。
★★★★★★★★★★★
夜。アマン東京。
井上はタキシードを脱ぎ、シャワーを浴びてリビングに戻った。
そこには、いつもの光景があった。
ソファの上で、ハイが「へそ天」で爆睡している。
朝と同じ、ねじれた奇妙なポーズだ。
だが、その顔は平和そのもので、見ているだけで心が洗われる。
「……ただいま、ハイ」
井上はそっとハイの頭を撫でた。
ハイは「ムニャ」と寝言を言い、尻尾をパタンと振った。
外の世界では、井上健太郎は「時の人」となり、英雄として崇められている。
だが、ここにある小さな温もりだけが、彼にとっての真実だった。
「……ボス、お疲れ」
舞永がビールを差し出した。
心と冴子も、ニヤニヤしながらモニターを見ている。
「視聴率、凄かったよ。……アンタ、俳優になれるね」
「記事のアクセス数も過去最高よ。……これで貴子は孤立無援ね」
井上はビールを受け取り、一口煽った。
冷たい苦味が、喉の渇きを癒やす。
「……まだだ」
井上は窓の外、東京の夜景を見据えた。
麗華という駒は手に入れた。
次はいよいよ、本丸への攻撃だ。
「貴子の様子はどうだ?」
井上が尋ねると、スピーカーから茉莉の声が聞こえた。
『……順調ですわ、旦那様。奥様は今、私の淹れた『特製ハーブティー』を召し上がって、深い眠りにつかれました。……判断力は、日に日に低下しております』
電話の向こうで、茉莉が妖艶に笑う気配がした。
「よし。……麗華は完全に落ちた。これで帝都グループの内部への『合鍵』は手に入れた」
井上はハイの肉球を指でつついた。
プニプニとした感触。
「貴子はまだ、俺たちを警戒している。……だが、娘である麗華を使えば、その懐に潜り込むのは容易い」
井上の瞳が、静かに燃える。
「ゆっくりと、確実に。……内側から食い荒らしてやる」
プロポーズという名の宣戦布告は終わった。
ここからは、愛に溺れた麗華を操り、女帝の城を内部崩壊させる、冷酷な侵食劇が始まる。




