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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
第3章:侵食と誘惑

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第31話 忍び寄る毒

 アマン東京のスイートルームは、午後の柔らかな光に満ちていた。

 だが、デスクに向かう井上健太郎にとっては、そこは戦場の一部だった。

 複数のモニターに映し出される株価チャート、西園寺家の資産データ、そして今後の作戦スケジュール。

 一瞬の判断ミスが命取りになる。神経を研ぎ澄ませ、画面を凝視していた、その時だった。


「……ミャー」


 キーボードの上に、灰色のモフモフした物体が鎮座した。

 仔猫のハイだ。

 画面が見えない。

 それどころか、ハイのお尻が「Enter」キーを連打している。


「おい、ハイ。……そこはベッドじゃないぞ」


 井上は苦笑しながら、ハイを退かそうとした。

 だが、ハイは「テコでも動かん」とばかりに液体化し、キーボードの上に溶け込んでしまった。

 上目遣いで井上を見つめ、青い瞳をパチクリとさせる。

 『仕事なんかしてないで、僕を構え』という無言の圧力だ。


「……参ったな」


 井上はため息をつき、作業を中断した。

 ハイの顎の下を指先で掻いてやる。

 ゴロゴロゴロ……。

 即座に喉を鳴らし、気持ちよさそうに目を細める。

 その無防備な姿を見ていると、張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩むのを感じた。


「お前はいいな。……悩みなんてなさそうで」


 井上はハイを抱き上げ、膝の上に乗せた。

 ハイは井上の太ももを前足でフミフミと揉み始め、やがて丸くなって寝息を立て始めた。

 温かい。

 この温もりだけが、復讐という修羅道を行く井上の、唯一の精神安定剤だった。


「ボス、平和ボケしてる場合じゃないわよ」


 リビングのソファから、森舞永が声をかけてきた。

 彼女はプロテインバーを齧りながら、タブレットでニュースをチェックしている。


「西園寺のババア、動き出したわ。……裏の探偵を使って、あんたの身元を洗い直してるみたい」

「想定内だ。……猛を切り捨てた今、次の標的を探しているんだろう」


 井上はハイの背中を撫でながら、冷徹な目に戻った。

 西園寺貴子。

 あの女は、ただ強欲なだけではない。野生の獣のような勘を持っている。

 井上健太郎という男の出現と、猛の失脚。そのタイミングの良さに、違和感を覚え始めているのだ。


「毒島と南が作った経歴は完璧だ。そう簡単には尻尾を掴ませない」

「でも、疑われ続けてたら動きづらいでしょ?」

「ああ。……だから、少し『頭』を冷やしてもらう必要がある」


 井上はモニターの一角に映る、西園寺邸の内部カメラ映像を見た。

 そこには、メイド姿の池田茉莉が、銀のトレイを持って廊下を歩く姿が映っていた。


「……始めようか。毒入りのティータイムを」


★★★★★★★★★★★


 西園寺邸、2階の書斎。

 重厚なオーク材のデスクの向こうで、西園寺貴子は苛立ちを隠せない様子でペンを走らせていた。

 目の前には、私立探偵からの報告書が散らばっている。


 『井上健太郎。30歳。K.I.ホールディングス代表。……経歴不詳』


 貴子は報告書をデスクに叩きつけた。


「使えない探偵ね……! 何ひとつ新しい情報がないじゃない!」


 貴子は爪を噛んだ。

 猛の不祥事による株価暴落、銀行団からの融資引き上げ圧力、そして世間のバッシング。

 全てが悪い方へと転がっている。

 その中心にいるのが、あの井上健太郎という男だ。

 彼は麗華を籠絡し、救世主面をして近づいてきた。一見すると味方のようだが、貴子の本能が警鐘を鳴らしている。


 『あの男は危険だ』


 タイミングが良すぎる。

 猛の失態を知っていたかのような手回し。

 そして何より、あの目。

 初めて会った時、彼は恭しく頭を下げていたが、その瞳の奥には、底知れない冷たさが潜んでいた。

 まるで、最初からこの家を憎んでいるかのような――。


「……まさかね」


 貴子は首を振った。

 被害妄想だ。今の自分は、ストレスで神経過敏になっているだけだ。

 だが、この胸騒ぎを無視することはできなかった。


「おい、お茶!」


 貴子は卓上のベルを乱暴に鳴らした。

 すぐにドアが開き、メイドの茉莉が入ってきた。


「失礼いたします、奥様。……お呼びでしょうか」


 茉莉は完璧な所作で一礼した。

 その表情は能面のように静かで、感情を読み取ることはできない。

 貴子にとって、使用人など家具と同じだ。そこに「意志」があるなどと考えたこともない。


「喉が渇いたわ。いつもの紅茶を淹れなさい。……濃いめでね」

「畏まりました」


 茉莉は一礼して下がった。

 廊下に出た瞬間、彼女の瞳に鋭い光が宿った。


 1階のキッチン。

 広大な厨房には、シェフや他の使用人たちの姿はない。今は休憩時間だ。

 茉莉は手際よく湯を沸かし、ティーポットを温めた。

 茶葉は、貴子お気に入りのダージリン・ファーストフラッシュ。

 芳醇な香りが立ち昇る。


 茉莉はエプロンのポケットから、小さな小瓶を取り出した。

 ラベルはない。

 中に入っているのは、無色透明な液体。

 山崎桃子が調合した、特製の薬品だ。


 『……いい? これは毒じゃないわ。ただの「サプリメント」よ』


 桃子の言葉を思い出す。


 『脳の神経伝達物質を少しだけ阻害するの。判断力を鈍らせ、記憶を曖昧にし、感情の起伏を激しくする。……認知症の初期症状にそっくりな状態を作り出す薬よ』


 即効性はない。

 だが、毎日少しずつ摂取させることで、確実に脳を蝕んでいく。

 疑り深い女帝の「直感」という最大の武器を、錆びつかせるための毒。


「……失礼します、奥様」


 茉莉は小瓶の蓋を開け、スポイトで一滴だけ吸い上げた。

 ポタリ。

 琥珀色の紅茶の中に、透明な雫が落ち、波紋となって消えた。

 無味無臭。

 誰にも気づかれない。


「さあ、召し上がれ。……地獄への入り口ですわ」


 茉莉は妖艶に微笑むと、トレイを持って書斎へと向かった。


★★★★★★★★★★★


「お待たせいたしました」


 茉莉は書斎に入り、貴子のデスクの脇にカップを置いた。

 ソーサーの裏には、以前仕掛けた盗聴器がまだ張り付いている。


「遅い!」


 貴子は苛立ちを隠さずにカップを手に取った。

 香りを確認する。いつも通りのダージリンだ。

 彼女は疑うことなく、熱い紅茶を口に運んだ。


 ゴクリ。

 喉を通る音。

 茉莉は後ろに下がり、その様子をじっと見つめていた。

 飲んだ。

 最初の一滴が、貴子の体内に入った。


「……ふぅ」


 貴子はカップを置き、眉間を揉んだ。


「……なんだか、最近頭が重いのよ。疲れかしら」

「ご心労が重なっておられるのでしょう。……猛様のこともございますし」


 茉莉は心配そうに声をかけた。

 猛の名前を出したのは、わざとだ。

 ストレスを与え、薬の回りを早めるために。


「あんな馬鹿息子のことなんてどうでもいいわ! ……問題は、私の立場よ」


 貴子は再びペンを執ったが、その手がピタリと止まった。


「……あれ? 私、何をしようとしてたんだっけ?」


 貴子は書類を見つめ、首を傾げた。

 数秒の沈黙。

 ほんの些細な物忘れ。誰にでもあることだ。

 だが、その頻度がこれから加速度的に増えていくことになる。


「……ああ、そうよ。株主総会の準備よ」


 貴子は自分に言い聞かせるように呟き、再び書き始めた。

 だが、その筆圧は先ほどよりも弱く、文字が少し乱れているように見えた。


「……茉莉」

「はい」

「この部屋、少し暑くない? エアコンの温度を下げなさい」

「……奥様。設定温度は20度になっておりますが」


 実際、部屋は肌寒いほど冷えている。

 体温調節機能の狂い。

 薬の副作用だ。


「口答えするな! 私が暑いと言ったら暑いのよ!」


 貴子はヒステリックに叫んだ。

 感情の制御ができなくなってきている。


「申し訳ございません。直ちに」


 茉莉はリモコンを操作するふりをして、貴子の背後で冷ややかな笑みを浮かべた。

 効いている。

 予想以上の反応だ。

 この調子なら、井上が仕掛ける次の罠に、彼女は気づくことすらできないだろう。


「……下がっていいわ。顔を見るとイライラする」

「畏まりました。ごゆっくりお休みくださいませ」


 茉莉は一礼し、部屋を出た。

 廊下を歩きながら、彼女はポケットの中のスマートフォンを取り出した。

 宛先は『旦那様』。


『第一段階、完了いたしました。……毒は順調に回っております』


 送信ボタンを押すと、茉莉はふっと息を吐いた。

 かつて、この屋敷の人間たちは、自分たちを使用人として扱ってきた。

 だが今、彼らはモノによって壊されようとしている。

 なんという皮肉。なんという愉悦。


★★★★★★★★★★★


 アマン東京。

 井上はスマートフォンの通知を確認し、口角を上げた。


「……始まったな」


 膝の上で眠るハイの背中を撫でながら、井上はモニターを見た。

 画面には、貴子の隠し資産に関するデータが表示されている。

 ケイマン諸島のペーパーカンパニー。スイス銀行の秘密口座。

 彼女が長年、会社から横領し、私腹を肥やしてきた証拠。


「貴子。お前の自慢の直感も、ここまでだ」


 薬によって判断力が鈍った貴子は、これから致命的なミスを犯すだろう。

 隠し資産を守ろうとして、逆にその尻尾を出してしまうはずだ。

 その瞬間を、心は見逃さない。


「ボス、そろそろ出かける時間よ」


 舞永がジャケットを投げてよこした。

 今夜は、次の標的――西園寺麗華とのデート(という名の洗脳)が予定されている。


「ああ。……ハイ、行ってくるぞ」


 井上はハイをソファに下ろし、立ち上がった。

 ハイは「ナァ」と短く鳴き、前足を伸ばしてストレッチをした。

 そののんきな姿とは対照的に、井上の瞳には鋭い光が宿っている。


 忍び寄る毒は、血管を巡り、脳を侵し、やがて女帝を玉座から引きずり下ろす。

 崩壊のカウントダウンは、もう始まっているのだ。

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