第30話 共有される秘密
アマン東京のスイートルーム。
午後3時の日差しが、リビングのガラステーブルに反射して煌めいている。
井上健太郎は、ソファでくつろぎながら、クリスタルグラスに注いだ炭酸水を飲んでいた。
無糖の、強炭酸水。
グラスの中で、無数の泡が勢いよく立ち昇り、パチパチと小さな音を立てている。
「……ミャウ?」
井上の膝の上でまどろんでいた仔猫のハイが、その音に気づいて顔を上げた。
青い瞳をまん丸くし、不思議そうな顔でグラスを見つめている。
生き物のような泡の動きが、好奇心を刺激したらしい。
ハイは恐る恐る前足を伸ばし、グラスの縁にかけた。
そして、鼻先を近づけ、匂いを嗅ごうとする。
シュワッ!
弾けた炭酸の飛沫が、ハイの敏感な鼻先を直撃した。
「ッ!!?」
ハイは感電したように飛び上がった。
空中で一回転し、ソファの背もたれに着地すると、全身の毛を逆立てて「フーッ!」とグラスを威嚇した。
見えない敵からの攻撃に、パニック状態だ。
「……ははは。敵じゃないぞ、ハイ」
井上は笑いを堪えながら、グラスを揺らした。
ハイは警戒を解かず、猫パンチで空気を薙ぎ払っている。
その必死な姿が愛らしくて、井上は目尻を下げた。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
井上は表情を引き締め、ハイを抱き上げて床に下ろした。
「……全員、集まったか」
今日は定例の作戦会議だ。
だが、井上には別の目的があった。
昨日、心にだけ明かした「真実」。それをチーム全員に共有し、最終決戦への結束を固めること。
それは、常識では考えられない話を信じさせるという賭けだった。
リビングには、井上の「共犯者」たちが勢揃いしていた。
天才ハッカー、木村心。
最強のボディーガード、森舞永。
冷徹な弁護士、清水南。
毒舌のジャーナリスト、斎藤冴子。
イカれた闇医者、山崎桃子。
復讐の女神となった女優、林優香。
そして、西園寺家から一時帰還した潜入工作員、池田茉莉。
7人の美女たちが、それぞれの定位置でくつろいでいる。
「……さて、ボス。今日は何の作戦?」
舞永がビール片手に尋ねた。
井上は部屋の中央に立ち、全員を見渡した。
「作戦の前に、話しておかなければならないことがある」
井上の声色が、普段よりも低く、重かった。
その空気を察し、全員の視線が集まる。
心だけが、全てを知っている顔でニヤリと笑い、ポテトチップスを齧った。
「俺の過去についてだ。……君たちは疑問に思っているはずだ。なぜ俺が、西園寺家の内部事情にあんなに詳しいのか。猛の癖、屋敷の隠し金庫の位置、貴子の薬の隠し場所……。外部の人間が知り得るはずのない情報を、なぜ知っていたのか」
茉莉が静かに頷いた。
彼女は実際に潜入して、井上の情報の正確さに舌を巻いていた一人だ。
「ええ。……正直、不気味でしたわ。まるで長年あそこで暮らしていた執事のような知識量でしたから」
「当然だ。……俺は、あそこで暮らしていたからな」
井上はモニターを操作した。
画面に映し出されたのは、心が見つけた一枚の写真。
黒縁メガネをかけ、猫背で、自信なさげに微笑む地味な男。
『元・帝都グループ社員 灰谷 守』。
「これが、整形前の俺だ」
部屋が静まり返った。
写真は、冴えない30歳の平社員。
「灰谷守……。今年の4月に突然退職して、行方不明になった男ですね」
南が冷静に記憶を検索した。
「でも、おかしいわ」
冴子が鋭く指摘した。
「この灰谷守という男、ただの平社員よ? 西園寺家の屋敷に出入りできる立場じゃない。……いつ、どうやってあんな内部情報を手に入れたの?」
そこだ。
この世界の事実だけでは、どう繋ぎ合わせても説明がつかない矛盾。
井上は深く息を吸い込んだ。
「……信じられないかもしれないが、聞いてくれ」
井上は全員の顔を一人ひとり見つめた。
「俺は、未来から来た」
「……は?」
舞永がビールの缶を落としそうになった。
心もポテトチップスを持つ手が止まる。
全員が、冗談か狂言かを疑う目で井上を見ている。
「正確には、死んで戻ってきたんだ。……今から10年後の未来で」
井上は語り始めた。
自分が歩んだ「1周目の人生」について。
30歳の春、麗華と最悪の出会いを果たし、気に入られて結婚したこと。
それからの10年間、夫ではなく「犬」として扱われ、義母や義兄に虐げられ続けた地獄の日々。
そして40歳になった冬の日、猛に横領の罪を着せられ、雪の山道で殺されたこと。
「……気づいたら、俺は10年前――今年の4月の朝に戻っていた。まだ麗華と出会う前の、ボロアパートの一室にな」
静寂。
あまりにも荒唐無稽な話だ。
だが、誰も笑わなかった。
井上の瞳。その奥に宿る、底知れない暗闇と、壮絶な痛みの記憶。
それが、嘘をついている人間の目ではないことを、ここにいる「修羅場をくぐってきた女たち」は本能で理解してしまったからだ。
「だから……あんなに株で勝てたのね」
心がポツリと言った。
「製薬会社の暴落も、原油の高騰も。……全部、未来を知っていたから」
「そうだ。……そして、猛が隠蔽したトンネル事故のことも、貴子が隠している資産のことも、全て『前の人生』で知ったことだ」
点と点が繋がる。
井上の持つ異常な資金力、予知能力のような投資、そして西園寺家への執拗なまでの憎悪。
全てが、「2周目」という鍵によって説明がついてしまう。
「私は、一度死んだ男だ。……この命は、奴らを地獄に送るためだけに拾った余生に過ぎない」
井上は自嘲気味に笑った。
「これが俺の正体だ。……復讐に取り憑かれた、時間の迷子だ」
重い沈黙が流れた。
最初に口を開いたのは、桃子だった。
「……へえ。面白いじゃない」
彼女はけだるげに笑い、タバコに火をつけた。
「どおりで、アンタの身体からは『死の匂い』がするわけだ。……一度死んでるなら、納得ね」
「私も、信じるわ」
舞永が立ち上がり、井上の肩を叩いた。
「ていうか、そんな面白い話、なんで今まで黙ってたのよ。……未来から来たボスなんて、SF映画みたいで最高じゃん」
「法的証拠にはなりませんが……」
南が眼鏡を光らせた。
「貴方の証言と、これまでの事実は符合します。……合理的推論として、貴方の話を『真実』と認定します」
優香は涙を流していた。
「10年も……そんな酷い目に……。井上さんの痛み、私には想像もできません」
そして、茉莉が進み出た。
彼女は井上の前に跪き、その手を取った。
「……ようやく、腑に落ちました」
茉莉は井上の瞳を見つめた。
「私が屋敷で感じた違和感。……貴方様が、初めて会ったはずの私に対して、まるで長年の知己のように接してくださったこと。そして何より……」
彼女は井上の手に頬を寄せた。
「貴方様の瞳の奥に、あの屋敷に長く囚われていた者だけが持つ、深く、静かな『絶望』の色が見えたこと」
茉莉はスパイとして、人の本質を見抜く訓練を受けている。
井上が纏う空気感は、単なる調査で得た知識だけでは説明がつかないほど、西園寺家の闇に染まっていたのだ。
「貴方様は、本当にあそこで戦ってこられたのですね。……たったお一人で、10年も」
その言葉に、井上の胸が詰まった。
誰にも言えなかった孤独。
狂人扱いされることを恐れて隠していた記憶。
それが今、受け入れられた。
「……私の主は、西園寺貴子ではありません」
茉莉は妖艶に、そして聖女のように微笑んだ。
「最初から、井上様、貴方だけです。……時を超えて戻ってこられた貴方様の復讐、この茉莉が全身全霊でお支えいたします」
全員が、井上を見ていた。
そこにあるのは、疑いではなく、強固な信頼と結束。
秘密を共有したことで、このチームは「共犯者」を超え、運命共同体となった。
「……ありがとう」
井上は短く礼を言った。
声が少し震えていたかもしれない。
「よし。……全員、聞け」
井上は表情を引き締め、空気を変えた。
感傷に浸る時間は終わりだ。
「次のターゲットは、本丸。……西園寺貴子だ」
モニターに、女帝の顔写真が表示される。
1周目で自分を殺すように仕向け、2周目でも息子を切り捨てた非情な母親。
「彼女の弱点は『金』だ。……心が見つけたデータによれば、貴子には申告していない膨大な隠し資産がある」
井上は心に目配せした。
心がキーボードを叩き、昨日発見した「アキレス腱」――海外口座の記録と、古びた写真をモニターに映し出した。
「これを暴き、全てを奪い取る。……そして、一文無しにして路地に放り出す」
「了解。……未来の知識、フル活用させてもらうわよ」
心がニカっと笑った。
足元では、ハイが「ニャー!」と元気よく鳴いた。
出撃の合図だ。
井上健太郎――時を遡った復讐者は、最強の仲間たちと共に、最後の戦いへと歩み出した。
共有された秘密は、彼らを繋ぐ鋼の鎖となり、敵を絞め殺すための最強の武器となる。




