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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
覚醒と変身

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第3話 決別と初手

 帝都グループ本社ビルを見上げると、首が痛くなるほどの高さに圧倒される。かつてこの威容に怯え、縮こまっていた自分を思い出し、灰谷守は小さく鼻を鳴らした。

 10年前の4月10日。

 あの日、守はこのビルのエントランスで、運命の悪戯に見舞われた。

 上司に頼まれた重要書類の入った封筒を、焦りのあまり廊下でぶち撒けてしまったのだ。運悪く、そこ通りかかったのが、当時常務取締役だった西園寺麗華だった。

 書類を拾おうと這いつくばる守を、彼女はハイヒールで跨ぎ、「汚い」と罵った。

 そして、必死に土下座をして謝る守の姿を見て、嗜虐心を刺激されたのか、「面白そうな犬ね」と拾い上げたのだ。


 それが、10年間の地獄の始まりだった。


「……だが、今日の俺は違う」


 守はスーツの内ポケットを軽く叩いた。そこには、問題となるはずの書類が完璧に整理されて収まっている。

 そしてもう一通、白い封筒も。

 自動ドアを抜け、冷房の効いたロビーへと足を踏み入れる。

 懐かしい空気だ。だが、今の守にとっては、ここはもう職場ではなく、敵城でしかなかった。


 午前10時。

 総務部のフロアは、いつも通りの忙しなさに包まれていた。

 電話のベル、キーボードを叩く音、怒号。

 守は自分のデスク――窓際の一番端――に座り、淡々と業務をこなしていた。

 未来の記憶がある彼にとって、10年前のルーチンワークなど赤子の手を捻るようなものだ。

 本来ならミスをするはずだった書類作成も、完璧な精度で仕上げて提出した。


「おい灰谷! なんだこの完璧な書類は!?」


 課長が驚きの声を上げた。普段なら些細なミスを見つけてはネチネチと嫌味を言う男だが、今日ばかりはぐうの音も出ないようだ。


「確認しました。不備はありません」

「む、むう……。ま、まあいい。次はこれだ、役員会議の資料を12階へ届けてこい。急げよ!」


 来た。

 これが「運命のイベント」のトリガーだ。

 あの日、守はこの資料を抱えて走り、エレベーターホールで転んで書類を撒き散らした。そして、エレベーターから降りてきた麗華と遭遇したのだ。


「承知しました」


 守は資料を受け取ると、静かに席を立った。

 焦る必要はない。走る必要もない。

 守は落ち着いた足取りで廊下へ出た。

 エレベーターホールへ向かう途中、向こうから数人の取り巻きを引き連れた女性が歩いてくるのが見えた。

 心臓がドクリと跳ねる。


 西園寺麗華。

 10年前の、まだ若く、傲慢さが美貌として結晶化している全盛期の彼女だ。

 イタリア製のオーダーメイドスーツに身を包み、カツカツとリズムよくヒールを鳴らして歩いてくる。その表情は自信に満ち溢れ、すれ違う社員たちが壁際に寄って頭を下げるのを、当然のように無視している。


(麗華……)


 憎悪で視界が赤く染まりそうになるのを、守は奥歯を噛み締めて堪えた。

 殺したい。今すぐこの手で、その細い首を締め上げてやりたい。

 「来世は人間になれるといいわね」という最期の言葉が、耳の奥で反響する。


 だが、まだだ。

 今ここで暴れれば、ただの狂人として逮捕されて終わりだ。それでは復讐にならない。

 彼女から全てを奪い、絶望の淵に叩き落とさなければ意味がない。


 守は廊下の端に寄り、他の社員と同じように深く頭を下げた。

 ただし、目は伏せない。

 前髪の隙間から、彼女の顔を睨みつけるように見据えた。


 麗華が近づいてくる。

 香水の匂い。あの夜、守に唾を吐きかけた時と同じ匂いだ。


 彼女の視線が、一瞬だけ守の方を向いた。

 しかし、それは守を見ているのではない。ただの風景の一部、壁のシミを見るような無関心な視線だ。

 彼女は守の存在になど気づきもしない。

 そのまま、風を切って通り過ぎていった。


「…………」


 守はゆっくりと頭を上げた。

 遠ざかる麗華の背中を見つめながら、口元だけで笑った。


(通り過ぎたな)


 運命は変わった。

 本来ならここでぶつかり、罵られ、そして彼女のペットとして飼われる運命だった。

 だが、今の俺はただの「地味な社員A」として見過ごされた。

 これは勝利だ。

 灰谷守という男は、西園寺麗華の人生から消去されたのだ。


「次は、俺がお前の人生を消去する番だ」


 守は呟くと、持っていた資料を近くのゴミ箱へ放り込んだ。

 そして、内ポケットからもう一通の封筒――退職届を取り出した。

 もう、この会社に用はない。

 未練も、感傷もない。

 守は迷うことなく、課長のいるデスクとは反対方向、出口へと向かった。


 会社を出た守はその足で銀行へ向かい、全財産である200万円を引き出した。

 厚みのある封筒を懐に入れると、次に家電量販店へ入り、プリペイド式の携帯電話と、中古のノートパソコンを購入した。

 足がつかない通信手段と、情報の武器。

 準備は整った。


 日が暮れるのを待ち、守が向かったのは新宿・歌舞伎町だった。

 ネオンが毒々しく明滅する欲望の街。

 10年前の真面目な守なら、決して足を踏み入れない場所だ。

 だが、守は知っていた。

 この街の雑居ビルの奥深くに、表の経済では扱えない金を動かす「両替商」のようなブローカーがいることを。


 1周目の人生で、義兄の猛が裏金を作るために使っていた男だ。

 猛の運転手として何度も送迎させられた際、漏れ聞こえる会話から、その男の名前と場所を記憶していた。


 路地裏の、エレベーターも壊れかけた古いビル。

 その最上階にある看板のない鉄扉の前で、守は立ち止まった。

 インターホンはない。監視カメラがこちらを向いているだけだ。

 守はカメラに向かって、以前猛が使っていた合言葉を口にした。


「……『帝都の黒い雨』」


 数秒の沈黙の後、ガチャンと重い解錠音が響いた。

 守は深呼吸を一回し、扉を開けた。


 中は紫煙が立ち込める薄暗い事務所だった。

 奥のソファに、派手な柄シャツを着た男が座っている。

 爬虫類のような目つきの男。毒島だ。

 周囲には強面の護衛が二人。


「誰だ、兄ちゃん。その言葉を知ってるってことは、西園寺の紹介か?」


 毒島が低い声で尋ねる。

 守は怯むことなく、部屋の中央へと進み出た。


「紹介じゃない。取引に来た」

「取引ぃ? 学生みたいなツラして、何の用だ」


 護衛の一人が威嚇するように前に出る。

 だが、守は動じない。40歳まで生きた経験と、死線をくぐり抜けた覚悟が、今の彼にはある。


「単刀直入に言う。この金を、一週間で10倍にしてほしい」


 守は懐から200万円の入った封筒を取り出し、テーブルの上に放り投げた。

 毒島が片眉を上げる。


「200万か。……ガキのお小遣いにしては大金だが、俺を動かすには桁が二つ足りねえな」

「ただの運用じゃない。あんたが持っている『裏口座』を使わせてくれ。海外のハイレバレッジ口座だ。倍率は500倍、いや、1000倍でもいい」


 毒島の目が細められた。

 国内の規制では不可能な超ハイリスク・ハイリターンの取引。それを可能にするルートを毒島が持っていることを、守は知っていた。猛がそこで会社の金を溶かしていたからだ。


「……どこでそれを聞いた? 西園寺のボンボンか?」

「出所はどうでもいい。あんたにとっても悪い話じゃないはずだ。手数料として利益の2割を払う」

「ハッ、面白い冗談だ。素人がそんな倍率で張ってみろ。一瞬で溶けて借金まみれだぞ? 臓器でも売るつもりか?」

「溶かさない」


 守は断言した。

 その瞳には、確信めいた冷たい光が宿っていた。


「未来が見えると言ったら、信じるか?」

「はあ?」

「一週間後……正確には4月17日の午後3時。ある中堅製薬会社の治験データ改ざんが発覚し、株価が大暴落する。俺はそのタイミングで空売りを仕掛けたい」


 それは、1周目の人生で守がニュースで見た、忘れられない事件だった。

 当時、株など持っていなかった守は「大変だな」としか思わなかったが、その暴落幅は記録的なものだった。もしあの時、全力で売りを仕掛けていれば、億万長者になれていただろうと、後になって思ったものだ。


「予言者気取りか? 笑わせるな」

「ただの予言じゃない。確信だ。……信じられないなら、これを担保にしてもいい」


 守は懐からもう一つ、USBメモリを取り出した。

 中には何も入っていない。だが、ハッタリだ。


「ここには、西園寺猛が先月、あんたを通じて行った裏金作りの詳細データが入っている。これを公にされたくなければ、俺に賭けろ」


 これは危険な賭けだった。

 猛の裏金作りを知っていると匂わせることは、消されるリスクもある。

 毒島の目が据わった。

 護衛たちが懐に手を入れる。空気が凍りつく。


 だが、守は微動だにしなかった。

 死ぬことへの恐怖は、あの雪の崖下で捨ててきた。

 今の彼にあるのは、目的を遂行する狂気だけだ。


「……へえ」


 数秒の緊迫した沈黙の後、毒島が口の端を歪めた。

 それは嘲笑ではなく、狂った同類を見るような笑みだった。


「いい度胸だ、兄ちゃん。名前は?」

「……井上。井上健太郎だ」


 守は咄嗟に、これから名乗る予定の偽名を告げた。

 灰谷守はもういない。ここにいるのは、復讐鬼・井上健太郎の原型だ。


「いいだろう、井上ちゃん。その200万、預かってやる。その代わり、もし溶かしたら……その眼球、片方貰うぞ」

「構わない。両目でもいい」

「ハハハ! 気に入った! おい、こいつに専用端末を用意してやれ!」


 毒島が手を叩くと、護衛たちが緊張を解き、パソコンを用意し始めた。

 守は大きく息を吐き、ソファに深く腰掛けた。

 第一関門突破。

 これで、戦うための武器を作る土台ができた。


 守はパソコンの画面を見つめた。

 画面の中で明滅するチャートの数字が、西園寺家を燃やす炎のように見えた。

 

「さあ、始めようか」


 キーボードに手を置く。

 それは、灰谷守による、世界へのささやかで、かつ致命的な反撃の開始だった。

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