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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
第3章:侵食と誘惑

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第28話 蜜月の罠

 9月下旬。

 アマン東京のスイートルームは、普段とは違う種類の静寂に包まれていた。

 いつもの賑やかなメンバー――舞永、心、優香といった女性たちは、今夜は全員外出させている。

 この部屋は今、井上健太郎が仕掛けた、甘い毒の満ちる密室となっていた。


「……ミャウ」


 足元で、仔猫のハイが不満げに鳴いた。

 井上の足首にまとわりつき、爪を立てようとする。

 普段なら甘えん坊の彼だが、今日はどこか機嫌が悪い。動物的な勘で、この部屋に「招かれざる客」が来ることを察知しているのかもしれない。


「すまないな、ハイ。……今夜は大事な客が来るんだ」


 井上はハイを抱き上げ、寝室へと運んだ。

 ふかふかのクッションと、大好物のプレミアムフードを用意してある。


「少しの間、隠れていてくれ。……毒気に当てられると体に悪い」


 ハイは「ニャー!」と抗議したが、井上は優しく撫でてドアを閉めた。

 これで準備は整った。


 ピンポーン。

 タイミングよく、インターホンが鳴る。

 井上は表情を切り替えた。

 冷徹な復讐者から、慈愛に満ちた「救世主」の顔へ。


 ドアを開けると、そこには西園寺麗華が立っていた。

 今日の彼女は、いつもの派手なドレスではなく、清楚な白のワンピースに身を包んでいる。化粧も薄く、髪も控えめにまとめている。

 だが、その顔色は優れなかった。

 目の下にはコンシーラーで隠しきれない隈があり、頬が少しこけている。

 兄・猛の逮捕と解任、そして急遽決まった自身の社長就任という重圧が、彼女を削り取っていたのだ。


「……いらっしゃい、麗華さん」

「健太郎さん……」


 麗華は井上の顔を見るなり、張り詰めていた糸が切れたように瞳を潤ませた。

 井上は何も言わず、彼女を優しく抱き寄せた。

 華奢な肩が震えている。


「怖かった……。毎日マスコミに追い回されて、会社に行けば役員たちに白い目で見られて……。母様は私を怒鳴りつけるばかりで……」

「もう大丈夫だ。……ここは君のための聖域だ」


 井上は彼女をリビングへとエスコートした。

 照明を落とし、夜景が美しく映えるように演出された空間。

 そこには、微かに、しかし芳醇な香りが漂っていた。

 酢飯の香りと、そして意外なことに、深く焙煎されたコーヒーの香り。


「座って。……今夜は僕が、君のためだけに腕を振るう」


 井上はキッチンに立った。

 カウンターに用意されているのは、氷を敷き詰めた木箱に並ぶ、極上の魚介類だ。

 大トロ、ノドグロ、金目鯛、そして生ウニ。

 どれも脂の乗った、濃厚なネタばかり。


「お寿司……?」

「ああ。だが、普通の寿司じゃない。……疲れた心と体を癒やすための、特別な『Sushi』だ」


 井上は柳刃包丁を手に取った。

 その手つきは、銀座の名店で修行した職人のように洗練されている。

 まずは大トロ。

 サクから切り出した切り身に、隠し包丁を細かく入れる。

 そして、バーナーを取り出した。

 ゴオォォォッ!

 青い炎が表面を舐める。脂が焦げる甘い香りが立ち昇る。

 表面だけを炙り、中はレアに。

 そこに、煮切り醤油ではなく、トリュフオイルと岩塩を一振り。


 次はノドグロ。

 皮目を炙り、脂を活性化させる。

 こちらはスダチを搾り、柚子胡椒を添える。


 シャリは、赤酢と米酢をブレンドし、少し温度を高めに保った人肌のシャリだ。

 空気を含ませるようにふんわりと握る。

 ネタとシャリが口の中で同時にほどける、究極のバランス。


 皿に並べられたのは、宝石のように輝く創作寿司たち。

 だが、井上がその横に置いたのは、日本酒でもお茶でもなかった。


 ワイングラスに注がれた、黒い液体。


 『コーヒー』だ。


 だが、ただのコーヒーではない。

 パナマ産『ゲイシャ種』の浅煎り。

 ジャスミンやベルガモットのような華やかな香りと、柑橘系の爽やかな酸味を持つ、最高級のスペシャルティコーヒー。

 それを、ハンドドリップで丁寧に抽出し、急冷してアイスコーヒーに仕立てたものだ。


「……お寿司に、コーヒー?」


 麗華が目を丸くした。

 当然の反応だ。常識外れもいいところだ。


「騙されたと思って、試してみてくれ。……このコーヒーは、フルーツのような酸味を持っている。脂の乗った魚との相性は、白ワイン以上だ」


 井上はグラスを差し出した。

 麗華は恐る恐る、炙りトロを口に運んだ。

 

 ……溶ける。


 炙られた脂の濃厚な甘みと、トリュフの香りが口いっぱいに広がる。

 そこに、冷えたコーヒーを含む。

 

「……っ!」


 麗華の目が大きく見開かれた。

 コーヒーのフルーティーな酸味が、トロの脂を驚くほどさっぱりと洗い流してくれる。

 そして、鼻に抜けるコーヒーの香りが、炙りの香ばしさと重なり合い、未知の余韻を残す。

 生臭さは微塵もない。

 あるのは、洗練された旨味のマリアージュだけ。


「美味しい……! 何これ、魔法みたい」

「気に入ってくれたかな」

「ええ、すごく。……私、こんな組み合わせ初めて」


 麗華の表情に、久しぶりに生気が戻った。

 美味しいものを食べ、驚き、感動する。

 その単純な喜びが、彼女の凝り固まった心を解きほぐしていく。


 井上は次々と寿司を握った。

 金目鯛の昆布締めには、エチオピア産のモカを。

 ウニと和牛の軍艦巻きには、深煎りのマンデリンを。

 ネタの個性に合わせて、コーヒーの豆と温度を変える。

 それは、食通を気取る麗華ですら体験したことのない、目眩がするような美食の迷宮だった。


「……健太郎さんって、本当に何でもできるのね」


 麗華はうっとりと井上を見つめた。

 その瞳は、アルコールが入っていないにも関わらず、完全に陶酔していた。


「投資の才能があって、優しくて、こんなに素敵なお料理も作れて……。まるで、物語の中の王子様みたい」

「買いかぶりすぎだ。……僕はただ、君を笑顔にしたいだけだよ」


 井上は手を止め、カウンター越しに麗華の手を握った。


「君は頑張りすぎている。……少しは、僕に甘えてもいいんだ」


 その言葉が、麗華の心の堤防を決壊させた。


「……私、もう無理なの」


 麗華が俯き、ポツリと言った。


「社長なんて器じゃないわ。会議に出ても言葉の意味すら分からないし、社員たちは陰で私を笑ってる。……母様は『人形になれ』って言うけど、私には心があるのよ。辛いのよ」


 涙がテーブルに落ちる。

 それは、わがままな令嬢の癇癪ではなく、一人の無力な女性の悲鳴だった。


「……逃げ出したい。全部捨てて、どこか遠くへ……」

「逃げればいい」


 井上は優しく言った。


「君が望むなら、今すぐ全てを捨てさせてあげる。帝都グループも、西園寺家のしがらみも。……僕が君を連れて行くよ」

「……本当に?」

「ああ。スイスでも、モルディブでも、君の好きな場所へ。……僕の資産があれば、君を一生、お姫様として暮らさせてあげられる」


 甘い誘惑。

 地獄からの逃避行の提案。

 麗華は顔を上げ、すがるように井上を見た。


「健太郎さん……」

「だが、その前に一つだけ、やり残したことがある」


 井上の声が、少しだけ低くなった。


「君を苦しめている元凶を、断ち切らなければならない」

「元凶……?」

「お母上だ」


 麗華が息を呑む。


「彼女がいる限り、君は自由になれない。……君を利用し、搾取し続けるだろう。猛さんを見捨てたように、いつか君も捨てられる」


 図星だった。

 麗華が一番恐れている未来。


「だから、戦うんだ。……僕と一緒に」


 井上は麗華の手を強く握りしめた。


「君が社長になり、実権を握る。そして、お母上を経営から退かせるんだ。……そうすれば、帝都グループは君のものになる。君が自由になるための城になる」

「でも……私には無理よ。母様に勝てるわけがない」

「一人では無理だ。……だが、僕がいる」


 井上は立ち上がり、カウンターを回って麗華の隣に立った。

 そして、彼女の肩を抱き寄せた。


「僕と、結婚してくれないか」


 時が止まった。

 麗華は信じられないという顔で、井上を見上げた。


「……え?」

「僕が西園寺家に入り、君の夫として、共同経営者として支える。……そうすれば、株主も納得するし、お母上も口出しできなくなる」


 プロポーズ。

 それは、愛の告白というよりは、最強の同盟の提案だった。

 だが、孤独と不安に押しつぶされそうになっていた麗華にとって、それはこの世で最も甘美な救いの言葉だった。


「……結婚……」


 麗華の頬が薔薇色に染まる。

 この完璧な男性と結婚し、二人で帝都グループを支配する未来。

 それは、母への復讐であり、かつてない栄光の座だ。


「健太郎さん……私、夢を見てるのかしら」

「夢じゃない。……君が望めば、現実になる」


 井上は麗華の顎を持ち上げ、その唇を奪った。

 コーヒーの香りと、甘い脂の味がするキス。

 麗華はとろけるように目を閉じ、井上の背中に腕を回した。


「……はい。……私、貴方と結婚したい」


 麗華は夢見るように呟いた。


「二人で……新しい帝都を作りましょう。母様を見返してやるの」

「ああ。……二人で、全てを手に入れよう」


 井上は麗華を抱きしめながら、彼女の背中越しに虚空を見つめた。

 その目は、氷のように冷めきっていた。

 

 釣れた。

 これで、西園寺家に入り込む「合鍵」を手に入れた。

 結婚などする気はない。

 式の当日、あるいはその直前に、彼女を奈落の底へ突き落とすための準備に過ぎない。


 かつて、自分を利用し、搾取し、捨てた女。

 今度は自分が、彼女を利用し、搾取し、捨てる番だ。


 深夜。

 夢見心地で帰っていった麗華を見送った後、井上はリビングに戻った。

 部屋にはまだ、コーヒーの香りが残っている。


「……出てきていいぞ、ハイ」


 井上が寝室のドアを開けると、ハイが飛び出してきた。


 「ニャー! ニャー!」と不満げに鳴きながら、井上の足に頭突きをしてくる。


 長時間放置されたことへの抗議だ。


「悪かったな。……だが、これでお前のキャットフード代は一生安泰だ」


 井上はハイを抱き上げ、ソファに座った。

 どっと疲れが出た。

 猛の時のような暴力的な疲労とは違う、精神を削り取られるような疲労感。

 愛してもいない女に愛を囁き、憎むべき相手に優しくする演技。

 それは、自分の心を腐らせていく行為だ。


「……気持ち悪いな」


 井上は自分の唇を手の甲で拭った。

 何度洗っても、麗華の感触が消えない気がする。


 その時、ハイが井上の顔を覗き込み、ザラリとした舌でその唇を舐めた。

 一度、二度。

 まるで、穢れを浄化してくれているかのように。


「……お前」


 井上は苦笑いし、ハイを抱きしめた。

 小さな心臓の音。温かい体温。

 この純粋な温もりだけが、井上を「こちら側」に繋ぎ止めてくれる。


「ただいま、ボス。……あら、お取り込み中?」


 ドアが開き、舞永たちが帰ってきた。

 心と冴子、そして南も一緒だ。

 彼女たちは、井上が麗華を籠絡している間、別室でモニター監視をしていたのだ。


「完璧なプロポーズだったわよ。……私ならイチコロね」


 冴子が口笛を吹く。


「音声データ、保存しました。……後で脅迫に使えますね」


 心がニヤリと笑う。


「婚姻契約書の下書き、用意しておきますか? ……もちろん、貴方に有利な特約付きで」


 南が眼鏡を光らせる。


「……頼もしい共犯者たちだ」


 井上はハイを膝に乗せ、立ち上がった仲間たちを見渡した。

 

 蜜月の罠は完成した。

 麗華は完全に井上を信じきっている。

 次はいよいよ、ラスボス・貴子を追い詰める最終段階だ。


「休もう。……明日は、忙しくなるぞ」


 井上は言った。

 その顔には、もう迷いはなかった。

 復讐のシナリオは、クライマックスへと向かって加速していく。

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