第2話 崖下の絶望と二度目の朝
ワイパーがフロントガラスを叩く音が、規則的に車内に響いていた。
屋敷を出た時に降り始めた冷たい雨は、都心を離れ、標高が上がるにつれて重たい牡丹雪へと変わっていた。
高級車特有の静粛な空間だが、今の灰谷守にとって、外の景色を白く塗り潰していく雪は、まるで死へのカウントダウンのように見えた。
ハンドルを握っているのは義兄の猛だ。助手席には守。
猛は上機嫌に鼻歌を歌いながら、ハンドルを指先で軽く叩いている。
車は街灯もまばらな山道へと深く入り込んでいた。ナビの画面には、道なき道のような細いラインが表示されているだけだ。
「……お義兄さん、まだ着かないんですか?」
守が恐る恐る尋ねると、猛は視線だけで守を睨めつけた。
「うるさいな。もうすぐだよ。お前にぴったりの、静かで誰も来ない場所だ」
その言い草に、守の背筋に冷たいものが走った。
誰も来ない場所。ほとぼりが冷めるまで隠れていろと言われたが、本当にただの隠蔽工作なのだろうか。
横領の罪を被せ、社会的に抹殺した人間を、わざわざ生かしておくメリットが彼らにあるのだろうか。
「……そうだ。俺、トイレに行きたくなってな」
唐突に、猛が車を路肩に寄せた。
ヘッドライトが照らすガードレールのすぐ外側は深い闇だ。切り立った崖になっているらしく、下の方から微かに川の流れる音が聞こえる。雪の白さが、その闇の深さを際立たせていた。
「ちょっと外の空気を吸ってくる。お前も運転を代われ。ここからは一本道だ」
「えっ、でも……」
「命令だ。さっさと降りろ」
猛はエンジンをかけっぱなしにしたまま車を降りると、助手席のドアを開け、守を乱暴に引きずり出した。
凍えるような寒気が全身を襲う。スーツ一着の守は震えながら、雪を踏みしめて運転席へと乗り込んだ。
「いいか、俺が戻るまでエンジンを温めておけよ。……ああ、それと」
猛は運転席の窓から顔を突っ込み、ニヤリと笑った。
その笑顔は、かつて守が失敗した時に見せた、あの嘲るような表情そのものだった。
「お前、本当に馬鹿だな」
「え……?」
「さよならだ、義弟くん」
猛が何かを操作した音がした。
次の瞬間、サイドブレーキが解除された。
車体がグラリと傾く。
この場所は、緩やかな下り坂になっていたのだ。
「う、わあぁっ!?」
守は慌ててブレーキペダルを踏み込んだ。
だが、ペダルはスカスカと床まで沈み込むだけで、何の抵抗もなかった。
ブレーキが効かない。
オイルが抜かれているのか、細工されていたのか。
「お、お義兄さん! ブレーキが! 助けてくれ!!」
守は窓から叫んだ。
しかし、猛は路肩に立ち尽くし、遠ざかる車を無表情で見送っていた。その手にはスマートフォンが握られ、誰かと通話をしているようだった。おそらく、「事故の報告」でもしているのだろう。
車は重力に引かれ、加速していく。
目の前に迫るのは、錆びついた古いガードレールと、その先に広がる虚無のような闇。
「いやだ、死にたくない……っ!」
守は必死にハンドルを切った。だが、雪で凍結した路面にタイヤが空転し、車体は制御を失ってスピンした。
キィィィィン! という金属音と共にガードレールを突き破る。
浮遊感。
内臓が浮き上がるような、気持ちの悪い感覚。
走馬灯のように、この10年間の記憶が溢れ出した。
麗華に罵倒された日々。義母に水をかけられた日。義兄に殴られた夜。
そして、唯一の味方だと思っていた義父の、冷たくなった顔。
(悔しい……)
死の恐怖よりも先に、どす黒い感情が胸を支配した。
(俺は、あいつらの玩具になるために生まれてきたのか? こんな惨めな最期を迎えるために、泥水を啜ってきたのか?)
激しい衝撃音。
ガラスが砕け散り、全身を無数の刃が貫く。
車体は斜面を転がり落ちながら、何度も岩肌に激突した。
身体がひしゃげる音。骨が砕ける音。
熱い液体が視界を覆い尽くす。
薄れゆく意識の中で、守は最後に、雪空の合間から覗く真っ赤に染まった月を見た気がした。
(許さない……もしも、もう一度やり直せるなら……次は俺が、お前たちを地獄へ……)
思考はそこでプツリと途絶え、灰谷守の人生は幕を閉じた。
はずだった。
「……っ、はあッ!?」
守は弾かれたように体を起こした。
心臓が早鐘を打ち、全身から脂汗が噴き出している。
激痛がない。
身体が熱い。
「ここは……病院、か?」
荒い息を整えながら、周囲を見渡す。
白い天井。だが、病院の無機質なそれではない。ヤニで薄汚れた壁紙。安っぽいシーリングライト。
部屋の隅には、脱ぎ捨てられた衣服と、飲みかけの缶ビールが転がっている。
見覚えがあった。
痛いほどに、懐かしい風景。
「まさか……俺のアパート?」
そこは、守が結婚する前――30歳まで住んでいた、家賃5万円のボロアパートの一室だった。
壁に掛けられたカレンダーを見る。
『20XX年 4月』。
守が死んだはずの日付より、ちょうど10年前の日付だ。
「夢か……? それとも、死後の世界がこれなのか?」
守は震える手で自分の頬を触った。
温かい。髭の感触がある。
布団から飛び出し、洗面所へと駆け込んだ。
鏡の中にいたのは、白髪混じりの疲弊した初老の男ではなかった。
黒々とした髪。肌には張りがあり、目にはまだ生気が残っている。
30歳の、若き日の自分自身だった。
「戻って、いる……?」
信じられなかった。
守は洗面台の横に置かれていたスマートフォンを手に取った。
機種は古い。画面のヒビ割れも、当時のままだ。
ロックを解除すると、日付は『4月10日』。
4月10日。
守の記憶が正しければ、今日は運命の日だ。
帝都グループの平社員だった守が、重要な書類を紛失し、それを当時の常務だった西園寺麗華に咎められる日。
その際の守のあまりの土下座の必死さと、都合の良い扱いやすさを気に入られ、「お気に入り」として目をつけられた日だ。
つまり、地獄への入り口となる日だ。
「は、はは……」
乾いた笑いが漏れた。
現実感が湧くと同時に、全身の震えが止まらなくなる。
これは奇跡だ。神様か悪魔か知らないが、誰かがチャンスをくれたのだ。
守は洗面台に水を溜め、顔を突っ込んだ。
冷たい水が、火照った頭を冷やしていく。
顔を上げ、もう一度鏡を見る。
そこに映る男の目は、先ほどまでの怯えた小動物のものではなかった。
「……あいつらは、まだ生きている。麗華も、猛も、貴子も。みんな、のうのうと笑って生きている」
鏡の中の自分に語りかける。
記憶は鮮明だ。
崖から落ちる瞬間の恐怖。義兄の嘲笑。妻の冷酷な言葉。
それら全てが、今の守の燃料だった。
「逃げない。もう二度と、逃げるものか」
このまま会社に行かず、田舎に帰って静かに暮らすという選択肢もあったかもしれない。
だが、守の魂に焼きついた怒りの炎は、そんな安穏とした未来を許さなかった。
復讐だ。
自分を殺し、尊厳を踏みにじった彼らから、全てを奪い尽くす。
金も、地位も、名誉も、そして未来も。
守はスマートフォンを強く握りしめた。
今の自分には、未来の知識がある。
どの株が上がり、どの企業が潰れるか。ビットコインの暴騰、パンデミックによる市場の混乱、そして帝都グループが隠蔽することになる数々の不祥事。
全てが頭の中に入っている。
「まずは金だ。復讐には力が要る」
守は部屋の中を見回し、通帳と印鑑を探し出した。
残高は200万円ほど。結婚資金としてコツコツ貯めていた金だ。
10年前の自分なら、これを元手に堅実に生きようとしただろう。
だが、今の守には、これを数年で数億、数十億に変える算段があった。
「行ってきます、灰谷守」
守は鏡に向かって、かつての自分に別れを告げた。
スーツに着替える。
ヨレヨレの量販店のスーツだが、不思議と背筋が伸びた。
今日は会社に行く。
だが、書類を紛失して麗華に媚びる「未来」はもう選ばない。
今日この日から、灰谷守の、いや、復讐者としての新しい人生が始まるのだ。
ドアを開けると、春の眩しい日差しが守の目を刺した。
それは、地獄の底から這い上がった男を祝福するような、残酷なほどに美しい青空だった。




