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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
第2章:再会と潜入

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第16話 折られた指

 東京湾の夜景を一望するアマン東京のスイートルームに、香ばしいニンニクとバターの香りが充満していた。

 それは、食欲という本能をダイレクトに殴りつけるような、暴力的なまでに魅惑的な香りだった。


 井上健太郎は、中華鍋を振っていた。

 今日の食材は、豊洲市場で仕入れた活けの『ノコギリガザミ』だ。

 鋼鉄のように硬い甲羅を持つこのカニは、濃厚な旨味と甘みを持つことで知られている。

 井上は事前にカニを締め、ぶつ切りにし、爪の部分には包丁の背でヒビを入れておいた。


「……仕上げだ」


 熱した鍋に、これでもかという量の刻みニンニクと無塩バターを投入する。

 ジュワァアアア! という音と共に、白煙が立ち上る。

 そこにカニを投入。

 強火で一気に煽る。甲羅が鮮やかな赤色に変わっていく。

 調味はシンプルだ。粗挽きの黒胡椒を大量に、そして隠し味にナンプラーと砂糖を少々。

 最後に、追いバターをひとかけら。

 鍋肌から醤油を垂らし、焦がし醤油の香りを纏わせる。


 完成だ。


 『カニのガーリックバター炒め』。


 シンガポールやサンフランシスコの名物料理を、井上流にアレンジした一皿。


 皿に盛り付けると、艶やかな油を纏ったカニが山のように積み上げられた。

 だが、この濃厚な料理に合わせるのは、酒ではない。


 井上は茶器セットを取り出した。

 小さな急須に茶葉を入れ、高い位置から熱湯を注ぐ。

 一煎目はすぐに捨て、茶葉を開かせる「洗茶」。

 そして二煎目。

 ガラスの茶海に注がれたのは、透き通るような黄金色の液体だ。


 『阿里山烏龍茶』。


 台湾の高山で栽培された、最高級の高山茶だ。

 花のような華やかな香りと、ミルクのような甘い余韻が特徴。


「……いただきます」


 井上はダイニングテーブルに着いた。

 向かいには、森舞永が座っている。彼女はすでに両手にビニール手袋をはめ、戦場に向かう兵士のような顔つきでカニを睨んでいた。


「ボス、これ反則よ。匂いだけでご飯3杯いけるわ」

「冷める前に食え。……ハイには刺激が強すぎるからな」


 足元では、仔猫のハイが「ミャー! ミャー!」と抗議の声を上げているが、井上は心を鬼にして無視した。


 舞永がカニの爪を掴み、豪快にかぶりつく。

 ガリッ、という音と共に殻を砕き、中の身を吸い出す。

 

「んん〜っ! 濃い! 美味い!」


 バターのコク、ニンニクのパンチ、そしてカニの強烈な甘み。

 それらが黒胡椒の刺激と共に口の中で爆発する。

 指についたソースまで舐めとりたくなるような、背徳的な味だ。


 そこで、阿里山烏龍茶を一口。

 熱い茶が喉を通ると、口の中の脂っこさが魔法のように洗い流される。

 後に残るのは、高山茶特有の清涼感と、鼻に抜ける蘭の花のような香り。


「……なるほどね。ビールじゃ重すぎる。このお茶だからこそ、カニの旨味が引き立つわけか」


 舞永が感心したように茶を啜る。


「リセットだ。……濃厚な快楽と、冷徹な理性。その往復が、より深い満足感を生む」


 井上はカニの身をほじりながら言った。

 それは食事の話であり、同時にこれからの「仕事」の話でもあった。


「で? 今夜のデザートは?」


 舞永が新しいカニに手を伸ばしながら尋ねる。


「西園寺猛だ。……向こうから接触してくる」

「接触? デートの誘い?」

「いや。……因縁だ」


 井上はスマートフォンを取り出し、画面をタップした。

 そこには、茉莉が送ってきたGPS情報が表示されていた。

 猛の車が、このホテルに向かって移動している。


「昨日のパーティーでの俺の態度、そして今日の母親の態度。……猛は焦っている。自分の立場が脅かされるとな」

「だから、直接ビビらせに来るってわけ? 短絡的ねぇ」

「ああ。奴はそういう男だ。……暴力でしか他人を支配できない、哀れな王様だ」


 かつて、灰谷守だった頃。

 些細なミスで猛に殴られ、蹴られ、肋骨を折られた日々が脳裏をよぎる。

 あの時の痛みは、今も骨が覚えている。


「行こうか。……お茶が冷める前に終わらせるぞ」


 井上は立ち上がった。

 舞永も手袋を外し、ナプキンで口を拭うと、ニヤリと笑った。


「了解。……食後の運動にはちょうどいいわ」


 午後9時。

 井上と舞永は、ホテルを出て、近くのオフィス街の路地裏を歩いていた。

 人通りは少ない。ビル風が吹き抜け、街灯が頼りなく明滅している。


 キキーッ!

 鋭いブレーキ音と共に、前後を塞ぐようにして2台の黒いワンボックスカーが停まった。

 スライドドアが開き、中から強面の男たちがぞろぞろと降りてくる。

 その数、8人。

 手には鉄パイプや金属バットが握られている。


「……随分と熱烈な歓迎ね」


 舞永が欠伸を噛み殺しながら呟く。

 井上は足を止め、冷静に男たちを見渡した。

 

 最後に、後方の車から一人の男が降りてきた。

 派手なスーツを着崩し、葉巻をくわえた男。

 西園寺猛だ。


「よう、井上さんよ。……こんな夜更けに散歩か?」


 猛は下卑た笑みを浮かべ、バットを肩に担いで近づいてきた。

 その目は充血し、焦点が定まっていない。薬が効いているのか、あるいは酒か。


「奇遇ですね、西園寺専務。……何か御用で?」

「白々しいんだよ、テメェ!」


 猛がいきなり怒鳴り声を上げ、近くのゴミ箱を蹴り飛ばした。

 ガシャーン! という音が路地に響く。


「母さんに何を吹き込みやがった? 俺を切れだと? 調子に乗るんじゃねえぞ、どこの馬の骨とも知れねえ詐欺師が!」

「……アドバイスをしただけですが。経営者として当然の」

「黙れ! ここは俺のシマだ! テメェみたいなよそ者がデカイ顔してんじゃねえ!」


 猛は井上の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。

 だが、その手は空を切った。

 井上が半歩下がって避けたからではない。

 横から伸びてきたしなやかな手が、猛の手首を掴み、捻り上げたからだ。


「……っ!?」


 猛が悲鳴を上げる間もなく、舞永が間に割って入っていた。


「気安く触らないでくれる? そのスーツ、高いのよ」


 舞永は猛の手首を握ったまま、甘い笑顔を向けた。

 だが、その握力は万力のように骨を締め上げている。


「い、痛ぇ! 放せ! なんだこのアマ!」

「あら、口が悪いわね。……教育が必要かしら」


 舞永が手首をさらに捻ると、猛は無様に膝をついた。


「や、やっちまえ! こいつら殺せ!」


 猛の悲鳴を合図に、周囲のチンピラたちが一斉に襲いかかってきた。

 鉄パイプが風を切る音。


「ボス、下がってて」


 舞永は猛を突き飛ばすと、襲いかかる男たちの中に自ら飛び込んでいった。

 それは、一方的な蹂躙の始まりだった。


 先頭の男が振り下ろした鉄パイプを、舞永は紙一重でかわす。

 そのまま懐に入り込み、男の腕を掴む。


 ボキッ。


 乾いた音が響いた。

 肘関節が、あり得ない方向に曲がっている。

 男が絶叫するより早く、舞永は次の標的へ向かっていた。


「はい、次」


 バットを構えた男の指を掴み、逆方向にへし折る。

 パキパキパキッ。

 小気味良い破砕音。


「次」


 後ろから羽交い締めにしようとした男の小指を掴み、そのまま一本背負いの要領で投げ飛ばす。

 地面に叩きつけられた男は、脱臼した肩を押さえてのた打ち回る。


 舞永は笑っていた。

 まるでダンスを踊るように、軽やかに、優雅に。

 だが、彼女が触れた場所は必ず「壊れて」いく。

 関節技のスペシャリスト。

 打撃よりも確実に、相手の戦闘能力を奪う「破壊」の技術。


「……ひ、ひぃ……!」


 わずか1分足らず。

 路地裏には、関節を外され、指を折られ、苦痛に呻く男たちの山が出来上がっていた。

 立っているのは、井上と舞永、そして腰を抜かして震える猛だけだ。


「……な、なんなんだ、お前らは……」


 猛は後ずさりし、背中を壁にぶつけた。

 暴力で他人を支配してきた男が、初めて「圧倒的な暴力」に晒された時の顔。

 恐怖と混乱で、顔面が蒼白になっている。


 井上はゆっくりと猛に歩み寄った。

 そして、彼の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。


「……西園寺さん。一つ、忠告しておきます」


 井上の声は、低く、穏やかだった。

 だが、その瞳には温度がない。


「私は、貴方が今まで相手にしてきたような、金を積めば黙る相手でも、暴力で脅せば逃げる相手でもない」

「……っ」

「次に私の前に現れる時は、もう少しマシな手土産を持ってきなさい。……例えば、貴方の辞表とかね」


 井上は猛の胸ポケットに、ハンカチを突っ込んだ。

 かつて、自分が血を拭うために使っていた安物のハンカチではない。

 上質なシルクのチーフだ。


「これは治療費代わりです。……指の手当、お大事に」


 井上は立ち上がり、背を向けた。

 舞永が、倒れている男の手を踏みつけながらついてくる。


「楽しかったわ、ボス。……でも、ちょっと弱すぎない?」

「準備運動にはちょうどいいだろう」


 二人は悠然と路地裏を後にした。

 背後で、猛の「畜生ぉぉぉ!」という、負け犬の遠吠えが響き渡った。


 アマン東京に戻った頃には、日付が変わっていた。

 井上はキッチンで湯を沸かし、新しい茶葉を用意した。


「……ふぅ。いい運動だった」


 舞永はソファに寝転がり、ハイを腹の上に乗せて遊んでいる。

 ハイは舞永の指を甘噛みし、じゃれついている。


「あいつ、これからどうなるの?」

「恐怖は理性を蝕む。……あいつはこれから、俺の影に怯え、疑心暗鬼になり、さらに薬に溺れるだろう」


 井上は茶海に黄金色の茶を注いだ。

 茉莉の報告によれば、猛はすでに精神安定剤の過剰摂取気味だという。

 今日の恐怖が引き金となり、自滅への坂道を転がり落ちていくはずだ。


「そして、その隙を俺たちが突く」


 井上は茶杯を二つ持ち、リビングへ向かった。

 一つを舞永に渡し、自分もソファに腰を下ろす。


「乾杯だ。……俺たちの、ささやかな勝利に」

「乾杯。……次はもっと骨のある相手を用意してよね」


 舞永が笑い、茶を啜る。

 阿里山烏龍茶の甘い香りが、血生臭い記憶を優しく洗い流していく。


 井上は窓の外を見た。

 東京の夜景は、変わらず美しく輝いている。

 だが、その光の下で、西園寺家の屋台骨は、確実に軋み始めていた。


 猛の次は、誰だ。

 井上はハイの背中を撫でながら、次なる標的へと思いを馳せた。

 折られた指の痛みは、かつて自分が受けた心の痛みに比べれば、蚊に刺された程度のものでしかないのだから。

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