第15話 義母・貴子の値踏み
アマン東京の朝は、雲の上のような静寂に包まれていた。
だが、その静けさを破る、小さな猛獣がいた。
「……ミャウ! ミャー!」
井上健太郎の足元で、仔猫のハイが必死にジャンプを繰り返している。
狙いは、井上が結ぼうとしているネクタイの剣先だ。
揺れるシルクの布地が、ハイの狩猟本能を刺激してやまないらしい。
「こら、遊ぶな。これは高いんだぞ」
井上は苦笑しながら、ネクタイを高い位置に持ち上げた。
ハイは「ナァ〜ン」と不満げな声を上げると、今度は井上のスラックスにしがみつき、爪を立ててよじ登ろうとする。
爪が生地に引っかかる感触。
普通の飼い主なら叱るところだが、井上はされるがままに任せた。
膝まで登ってきたハイを、片手でひょいと抱き上げる。
ハイは井上の腕の中で喉をゴロゴロと鳴らし、鼻先を井上の頬に擦り付けてきた。
ミルクの匂いと、陽だまりのような温かい匂い。
その温もりが、これから向かう場所の寒々しさを、一瞬だけ忘れさせてくれる。
「……留守番だ。いい子にしてろよ」
井上はハイをソファのクッションの上に下ろした。
ハイは前足を揃えて座り、首を傾げて井上を見つめ返す。その青い瞳は、どこか全てを見透かしているようで、井上はふと、この猫が自分の守護霊か何かなのではないかという錯覚を覚えた。
「行ってくる」
井上はジャケットを羽織り、部屋を出た。
背後で「ミャ!」という激励の声が聞こえた気がした。
黒塗りのハイヤーが、都内屈指の高級住宅街・松濤の坂道を登っていく。
目的地は、その一角に広大な敷地を構える、西園寺家の屋敷だ。
運転席には森舞永。
今日はボディガードらしく、黒のパンツスーツにサングラス姿だ。
「ボス、顔色が悪いわよ。……古傷が痛む?」
ルームミラー越しに、舞永が声をかけてきた。
「いや。……ただの『アレルギー』だ」
井上は窓の外を睨みつけた。
高い塀に囲まれた要塞のような屋敷が見えてきた。
10年前、灰谷守としてこの門をくぐった日から、地獄は始まった。
使用人以下の扱いを受け、罵倒され、最後にはゴミのように捨てられた場所。
その門を、今日はVIPとしてくぐる。
「到着よ。……いつでも飛び込めるように、エンジンはかけとくわ」
「頼む」
重厚な門が開く。
井上は車を降り、砂利道を踏みしめた。
かつて、毎朝のように掃き掃除をさせられていた道だ。
石の一つ一つにまで、屈辱の記憶が染み付いている。
玄関ホールには、執事が控えていた。
以前いた古参の執事は解雇されたらしく、見知らぬ若い男だった。
「ようこそお越しくださいました、井上様。奥様がお待ちです」
通されたのは、1階の応接間だった。
アンティークの調度品で埋め尽くされた、美術館のような部屋。
その中央のソファに、彼女は座っていた。
西園寺貴子。
帝都グループの女帝。
60代とは思えない若作りをした厚化粧と、全身を飾る宝石。
その目は爬虫類のように冷たく、入ってきた井上を頭のてっぺんから爪先まで嘗め回すように値踏みした。
「初めまして、井上さん。……昨夜のパーティーでは、随分と目立っていらしたそうね」
貴子は立ち上がろうともせず、扇子で口元を隠して笑った。
その態度は傲慢そのものだが、井上に対しては「興味」という名の毒を含んだ視線を向けている。
「お招きいただき光栄です、西園寺会長」
井上は優雅に一礼した。
完璧な姿勢。洗練された所作。
かつてこの部屋で、土下座をして額を床に擦り付けていた男と同一人物だとは、彼女の貧困な想像力では思いつきもしないだろう。
「お掛けになって。……急にお呼び立てして悪かったわね。でも、麗華があまりにも貴方のことを褒めるものだから、どんな殿方なのか一度お話ししてみたくなったのよ」
「麗華様にお褒めいただけるとは、身に余る光栄です」
井上は対面のソファに腰を下ろした。
ここからが勝負だ。
この女は、金と権力以外の言葉を持たない。
中途半端な謙遜は「弱さ」と見なされ、食い物にされるだけだ。
「単刀直入に伺うわ。……貴方、資産はどれくらいお持ち?」
挨拶もそこそこに、貴子は核心を突いてきた。
下品極まりない質問だが、それが彼女の流儀だ。
「K.I.ホールディングスの運用資産は、公表ベースで500億ドル。……私個人の資産については、税務署にも秘密にしておりますが」
井上は意味深に微笑み、指を3本立てた。
30億か、300億か。
あえて単位を言わないことで、相手の想像力を刺激する。
「……あら、頼もしいこと」
貴子の目が、獲物を見つけた猛禽類のように鋭く細められた。
合格ラインを超えたようだ。
「それで、我が社にどのようなビジネスをご提案くださるのかしら?」
「ビジネスの話の前に……喉が渇きましたね」
井上は会話を遮り、視線を部屋の入り口に向けた。
絶妙なタイミングだった。
ノックの音と共に、ドアが開いた。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
ワゴンを押して入ってきたのは、完璧なメイド姿の池田茉莉だった。
背筋を伸ばし、一切の足音を立てずに近づいてくる。
その表情は能面のように無機質だが、井上と目が合った一瞬だけ、瞳の奥に「共犯者」の色が走った。
連携プレーの始まりだ。
茉莉はテーブルの横にワゴンを止め、ティーセットを並べ始めた。
最高級のボーンチャイナ。
カチャリ、という微かな陶磁器の音が、静寂に響く。
「……私の屋敷の茶葉は、英国王室御用達の特別ブレンドよ。お口に合うかしら」
貴子が自慢げに言った。
その隙に、井上はわざとらしく懐からスマートフォンを取り出し、画面を見て眉をひそめた。
「おっと、失礼。……ロンドン市場が動き出したようです」
井上はスマートフォンをテーブルの上に置き、画面を貴子の方へ向けた。
そこには、急激に変動する為替チャートが表示されている。
「……これは?」
「ポンドが暴落しています。……会長、御社の欧州部門、為替予約は済ませてありますか? このままだと数億の損害が出ますよ」
ハッタリだ。
だが、「損害」という言葉に、守銭奴の貴子は過剰に反応した。
「な、なんですって!?」
貴子が身を乗り出し、スマートフォンの画面を覗き込んだ。
視線が井上の手元に釘付けになる。
今だ。
その一瞬の隙を、茉莉は見逃さなかった。
彼女は井上の前にティーカップを置く動作の中で、左手の指先に隠し持っていた極小のチップ――高性能盗聴器を、ソーサーの裏側の窪みに滑り込ませた。
手品師のような早業。
カチャン。
カップが置かれた時には、盗聴器は完全にソーサーの裏に張り付いていた。
「どうぞ、旦那様」
茉莉は涼しい顔で一歩下がった。
完璧だ。
井上は心の中で彼女に拍手を送りつつ、表情を崩さずにスマートフォンをしまった。
「……ああ、失礼。持ち直しました。一時的な調整局面だったようです」
「……脅かさないでちょうだい。心臓に悪いわ」
貴子は安堵のため息をつき、自分のお茶に口をつけた。
彼女は気づいていない。
自分の目の前にあるそのカップとソーサーが、彼女の破滅を記録するブラックボックスになったことを。
「それで、話の続きですが……」
井上はソーサーごとカップを持ち上げ、香りを嗅ぐふりをしながら、指先で裏側の異物の感触を確認した。
しっかりと付いている。
この盗聴器は、この後の会話はもちろん、井上が去った後の貴子の独り言や、呼び出された猛との密談を拾い続ける。
回収は、後で茉莉が片付ける時に行えばいい。
「私は、御社の『負債』を整理するお手伝いがしたいのです」
「負債?」
「ええ。……例えば、最近リゾート開発で失敗続きの、ある部門とか」
猛のことだ。
貴子の眉がピクリと動いた。
「あら、ご存じなの? 耳が早いのね」
「投資家ですから。……無能な経営者が会社を食い潰す事例は、数多く見てきました。傷が浅いうちに切り離すのが、賢明な経営者の判断かと」
井上は冷徹に言い放った。
それは、かつて猛に濡れ衣を着せられ、切り捨てられた自分の言葉を、そのまま返した皮肉だった。
「……厳しいこと。でも、一理あるわね」
貴子はカップを置き、ニヤリと笑った。
その笑顔は、息子を愛する母親のものではない。
損得勘定で人間を切り刻む、冷酷な経営者の顔だった。
「猛は少々、甘えが過ぎるのよ。……もし、貴方が代わりにもっと大きな利益をもたらしてくれると言うなら、考えなくもないわ」
「お約束しましょう。私が御社の株主になった暁には、株価を倍にしてみせます」
井上は紅茶を一口飲んだ。
香り高いダージリン。
だが、その味はどこか鉄錆のような、血の味がした。
午後6時。アマン東京。
西園寺家から戻った井上は、ジャケットを脱ぎ捨て、キッチンの前に立っていた。
口の中に残る、あの屋敷の不快な紅茶の味を洗い流さなければならない。
「……作るか」
井上はエプロンを締め、冷蔵庫から食材を取り出した。
牛ひき肉、玉ねぎ、セロリ、人参。そしてホールトマトの缶詰。
作る料理は決まっていた。
『ラザニア』。
何層にも重ねられた複雑な味のパスタ料理。それは、嘘と裏切りを重ねる今の自分を象徴するかのようだ。
まずはボロネーゼソースだ。
野菜をみじん切りにし、オリーブオイルで飴色になるまでじっくりと炒める。ソフリットの甘い香りが立ち上る。
そこに牛ひき肉を投入し、強火で焼き付けるように炒める。肉の焼ける香ばしい匂い。
赤ワインを注ぎ、アルコールを飛ばしてからトマト缶とローリエを加える。
ここからが勝負だ。弱火でコトコトと煮込み、水分を飛ばして旨味を凝縮させていく。
その間に、ベシャメルソースを作る。
バターを溶かし、小麦粉を炒める。焦がさないように、慎重に。
そこへ冷たい牛乳を一気に注ぎ入れ、ホイッパーで素早くかき混ぜる。
とろみがつくまで火を入れ、最後にナツメグをひと振り。
滑らかで真っ白なソースの完成だ。
耐熱皿にバターを塗り、組み立てに入る。
ベシャメル、ラザニアシート、ボロネーゼ、そしてパルミジャーノ・レッジャーノ。
これを何度も繰り返す。
白と赤の層が積み重なっていく。
最後にたっぷりのモッツァレラチーズを乗せ、220度のオーブンへ。
「ミャー」
足元でハイが鳴いた。
いい匂いがしてきたのだろう。
「待て。これは熱すぎる」
井上はハイに専用のカリカリを与え、オーブンの前で焼き上がりを待った。
15分後。
チーン、という軽快な音が鳴る。
取り出したラザニアは、表面のチーズがグツグツと音を立て、焦げ目が黄金色に輝いていた。
濃厚なトマトとチーズの香り。
暴力的なまでの食欲をそそる香りだ。
井上はそれをテーブルに運び、ナイフを入れた。
サクッとした表面を破ると、中から熱々のソースが溢れ出す。
断面は美しい層を成している。
だが、井上がその横に置いたのは、ワインではなかった。
ガラスのコップに注がれた、純白の液体。
『牛乳』だ。
北海道産の、乳脂肪分が高い特選牛乳。
熱々のラザニアと、冷たい牛乳。
子供じみた組み合わせかもしれない。
だが、濃厚な肉とチーズの脂を受け止めるには、ワインの渋みよりも、牛乳のまろやかさが最適解だと井上は信じていた。
「いただきます」
井上はフォークでラザニアを掬い上げ、口に運んだ。
熱い。
ハフハフと息を吐きながら噛みしめる。
濃厚なボロネーゼのコク、ベシャメルの優しさ、そしてパスタの食感が一体となって押し寄せる。
複雑で、重厚な旨味の塊。
そこに、冷えた牛乳を流し込む。
ゴクッ。
牛乳の冷たさと甘みが、口の中の熱と油を洗い流し、瞬時にリセットしてくれる。
(……美味い)
井上は息をついた。
あの屋敷で感じた胸焼けするような嫌悪感が、胃の腑に落ちて消えていく。
井上はタブレット端末を取り出し、イヤホンを装着した。
茉莉が仕掛けた盗聴器からの音声データだ。
『……ふん、生意気な小僧だこと』
貴子のしわがれた声が聞こえてくる。
『でも、金は持っているわね。猛の失敗の穴埋めに使えるかもしれない』
『麗華にも上手く取り入らせて……骨までしゃぶってやればいいわ』
ククク、と下卑た笑い声。
予想通りの反応だ。彼女は井上を「カモ」だと認定した。
それが命取りになるとも知らずに。
「……聞こえているぞ、クソババア」
井上は呟き、ラザニアをもう一口頬張った。
そして牛乳を煽る。
口元に白い髭ができたのを、ナプキンで無造作に拭った。
屋敷の中に残された「耳」と、潜んでいる「目」。
西園寺家の堅牢な城壁は、内側から確実に崩れ始めている。
熱いラザニアが腹に収まる頃には、次の一手が決まっているだろう。
井上はハイを見下ろした。
ハイも満腹になったのか、ソファの上で幸せそうに腹を出して眠っている。
「……さて、次は猛だ」
井上は最後の牛乳を飲み干し、グラスを置いた。
その瞳には、ラザニアの熱よりも熱い、復讐の炎が静かに燃えていた。




