第11話 地下の狂犬
山奥の崖から戻った井上健太郎を出迎えたのは、アマン東京の窓の外に広がる、煌びやかな東京の夜景だった。
決戦前夜。
明日はついに、帝都グループのパーティーだ。
「……ミャウ」
足元で甘えたような鳴き声がした。
仔猫のハイだ。
数日前に拾った時は死にかけていたが、山崎桃子の処置と栄養たっぷりのミルクのおかげで、今ではすっかり元気を取り戻している。
ロシアンブルーのような灰色の毛並みは、照明を受けて銀色に輝いている。炎症を起こしていた片目もぱっちりと開き、井上と同じ深いブルーの瞳で見上げている。
「……ただいま。いい子にしてたか?」
井上はソファに腰を下ろし、ハイを抱き上げた。
ハイはゴロゴロと喉を鳴らし、井上の指にじゃれつき、甘噛みをしてくる。
無垢な温もり。
さっきまで崖の上で感じていた、凍てつくような殺意とは対極にあるものだ。
「明日は忙しくなる。……お前もしばらく留守番だぞ」
井上はハイの腹を優しく撫でながら、独りごちた。
準備は整った。
衣装も、手土産も、心構えも。
だが、一つだけ懸念があった。
昼間、崖で見た義兄・猛の姿だ。連れていたのはただの社員ではなく、目つきの鋭いボディーガードたちだった。
裏社会との繋がりが深い猛のことだ。もし井上の正体に感づけば、あるいはビジネス上の敵と見なせば、躊躇なく「物理的な排除」に動くだろう。
ブブッ、ブブッ。
サイドテーブルのスマートフォンが震え、静寂を破った。
画面には『毒島』の文字。
井上はハイをソファに下ろし、通話ボタンを押した。
「……どうした」
『よう、大将。崖へのピクニックは楽しかったか?』
「ああ。おかげで腹が決まったよ」
『そりゃ結構。……だがな、一つ忠告だ。西園寺のババアと猛、最近きな臭い動きをしてるぜ』
毒島の声が、少し低くなった。
『あそこは表向きは綺麗な財閥だが、裏じゃ昔から「掃除屋」を使ってる。特に最近、労働組合の幹部が謎の事故死を遂げたり、競合他社の役員が行方不明になったりしてる』
「……暴力か」
『そうだ。あんたがどれだけ頭が良かろうが、金を持っていようが、夜道で刺されちゃおしまいだ。……明日のパーティー、丸腰で行く気か?』
井上は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
完璧なマスク。だが、その下にある肉体は、ただの人間だ。ナイフ一本で死ぬ。
復讐を完遂するには、絶対的な「盾」が必要だ。
「……心当たりはあるのか?」
『へへ、そう来ると思ったよ。……とびきり凶暴で、とびきり腕の立つのが一人いる。ただ、こいつは「狂犬」だ。飼い主を選ぶぜ?』
「構わない。場所は?」
『大田区の湾岸倉庫だ。今夜、地下で「試合」がある。……急げよ、メインイベントが始まる』
通話を切ると、井上は立ち上がった。
ハイが「行くな」と言うように足にまとわりつく。
「すぐ戻る。……番犬を拾ってくるだけだ」
井上はクローゼットを開け、夜の闇に溶け込むダークスーツを選んだ。
今夜は、知性ではなく、野生の匂いを纏う必要がある。
井上を乗せたハイヤーは、臨海部の工業地帯へと入っていった。
錆びついたクレーン、積み上げられたコンテナ、そして潮とオイルの混じった匂い。
煌びやかな都心とは対極にある、鉄とコンクリートの墓場だ。
指定された倉庫の前には、屈強な男たちが立っていた。
井上が毒島から教えられた合言葉を告げると、重いシャッターの一部が開かれた。
中に入ると、湿った熱気と、男たちの怒号が渦巻いていた。
地下へと続く階段を降りる。
そこには、金網で囲まれたリングと、それに群がる数百人の観客がいた。
ヤクザ、半グレ、あるいはスリルを求める富裕層。
目が血走った男たちが、手に万札を握りしめ、獣のように叫んでいる。
「殺せ! 殺せぇぇ!」
「もっと血を見せろ!」
ルール無用の地下格闘技。
井上はVIP席のバルコニーに案内された。そこには毒島が待っていた。
「よう、来たな。……いい匂いだろ? 血と金の匂いだ」
「……悪臭だな」
井上はハンカチで鼻を覆った。
だが、その目は冷静にリングを見下ろしていた。
「で、どれだ? あんたの言う『狂犬』は」
「次の試合だ。……賭けるか?」
「俺は勝つ方にしか賭けない」
ゴングが鳴る。
MCが大袈裟な声で選手を紹介し始めた。
「赤コーナー! 身長2メートル、体重130キロ! ロシアの処刑人、ボリス・イワノフ!!」
リングに上がったのは、巨大な岩のような筋肉の塊だった。全身に刺青を入れ、殺気立った目で吼えている。
会場が湧く。どう見ても殺人マシーンだ。
「そして青コーナー! ……詳細不明! 流れ着いた元傭兵! マナ・モリ!!」
ブーイングと口笛が入り混じる中、反対側の花道から現れたのは、場違いなほど美しい女だった。
森 舞永。28歳。
スポットライトを浴びて輝くブロンドヘア。
身長は170センチほどか。モデルのようなスラリとした体躯だが、タンクトップとショートパンツから覗く手足の筋肉は、豹のようにしなやかで引き締まっている。
その顔立ちは、華やかで挑発的な美貌だ。
「……女?」
井上は眉をひそめた。
対格差は倍以上ある。普通の格闘技なら試合成立すらしない。
「見かけで判断すると火傷するぜ。……あいつはPMCで中東の最前線を渡り歩いてきた本物だ」
リング中央で、ボリスと舞永が対峙する。
ボリスが卑猥な言葉を投げかけ、威嚇する。
だが、舞永は退屈そうにガムを噛みながら、髪をかき上げただけだった。
「……Ready? Fight!!」
開始の合図と同時に、ボリスが突進した。
戦車のようなタックル。まともに食らえば内臓破裂は免れない。
観客が息を呑む。
だが、次の瞬間、舞永の姿が消えた。
いや、消えたように見えるほどの速度で、ボリスの懐に潜り込んだのだ。
ドゴッ!
鈍い音が響く。
舞永の肘が、ボリスの鳩尾に突き刺さっていた。
巨体がくの字に折れ曲がる。
舞永は流れるような動きでボリスの腕を取り、背後に回り込むと、そのまま関節を極めながら地面に叩きつけた。
ズドンッ!
リングが揺れる。
ボリスの悲鳴が上がる間もなく、舞永は倒れた巨体の首に脚を絡め、締め上げた。
三角絞め。
完璧なフォームだ。
ボリスが必死に暴れるが、舞永は涼しい顔で、ガムをプーッと膨らませた。
「……落ちたな」
数秒後、ボリスの白目が剥き出しになり、腕がだらりと垂れ下がった。
失神KO。
会場が一瞬静まり返り、次の瞬間、爆発的な歓声に包まれた。
「勝者、マナ・モリィィ!!」
舞永は勝ち名乗りを受けることもなく、倒れたボリスを跨いでリングを降りていった。
その背中は、「退屈すぎてあくびが出る」と語っていた。
「……どうだ?」
毒島がニヤリと笑う。
井上は立ち上がった。
「最高だ。……紹介しろ」
試合後の控え室。
そこは倉庫の一角をベニヤ板で仕切っただけの粗末な部屋だった。
舞永はパイプ椅子に座り、血のついたバンテージを解いていた。
傍らには安酒の瓶が置かれている。
「……何の用? 追っかけならサインはしないわよ」
入ってきた井上を一瞥もせず、舞永は言った。
近くで見ると、その美貌はいっそう際立っていた。汗に濡れた肌が、照明の下で妖しく光っている。
「サインはいらない。……契約書にサインが欲しい」
井上は単刀直入に切り出した。
「誰? 芸能事務所のスカウト?」
「似たようなものだ。……俺のボディーガードをしてほしい」
舞永は手を止め、初めて井上の方を見た。
その瞳は、獲物を値踏みする肉食獣の色をしていた。
彼女は井上の顔――整形された完璧なマスク――をじっと見つめ、鼻で笑った。
「アンタ、いい顔してるけど……中身は空っぽね。作り物みたい」
「……よく言われる」
「お断りよ。私は退屈が一番嫌いなの。金持ちのお人形さんの遊び相手なんて、あくびが出るわ」
舞永は酒瓶を煽った。
「金なら弾む。今のギャラの10倍だ」
「金の問題じゃないって言ってるでしょ。……帰ってママのおっぱいでも吸ってなさい」
交渉決裂か。
普通の人間ならここで引き下がるだろう。
だが、井上は一歩踏み出した。
「……お前、今の生活に満足しているのか?」
井上の声色が、スッと低くなった。
フィリップに叩き込まれた、相手の深層心理に侵入する声だ。
「こんな地下の澱みで、三流のゴロツキ相手に鬱憤を晴らす毎日。……本当は、もっとヒリつくような『戦場』を求めているんじゃないのか?」
舞永の手が止まった。
「俺が提供するのは、ただの警護じゃない。……戦争だ」
井上は続けた。
「相手は日本最大級の財閥、帝都グループ。警察もマスコミも抱き込んだ巨大な権力だ。そいつらを相手に、俺は喧嘩を売る。……殺し屋も来るだろう。ヤクザも来るだろう。手段を選ばない連中だ」
「……へえ」
舞永の瞳に、興味の光が灯った。
「つまり、アンタと一緒にいれば、合法的に暴れられるってこと?」
「合法的かどうかは保証しない。だが、退屈はさせない」
井上は懐から、一枚の写真を取り出した。
西園寺猛が、裏社会の人間と密会している盗撮写真だ。
「明日のパーティー会場にも、この男の息がかかった連中がいるはずだ。……そいつらを処理するのが、最初の仕事になる」
舞永は写真を受け取り、口角を吊り上げた。
それは、獲物を見つけた獣の、獰猛で美しい笑みだった。
「……悪くないわね」
彼女は立ち上がり、井上の目の前に立った。
身長差はあるが、その圧迫感は井上をも凌駕していた。
甘い香水の匂いと、鉄錆のような血の匂いが混ざり合う。
「気に入ったわ、ハンサムボーイ。……アンタからは、私と同じ『壊れた人間』の匂いがする」
舞永は井上のネクタイを指で弾いた。
「いいわ、飼われてあげる。……でも、鎖は緩めにしておいてね? 噛み付くのが私の愛情表現だから」
「善処しよう。……ようこそ、地獄へ」
井上は右手を差し出した。
舞永はその手を強く、骨が軋むほどの力で握り返した。
「森 舞永よ。よろしく、ボス」
契約成立。
井上は、最強の「盾」を手に入れた。
「……さて、と」
舞永はバンテージを放り投げ、パイプ椅子から立ち上がった。
そして、挑発的な瞳で井上を見上げた。
「ねえ、ボス。契約成立の祝いに、デートに連れてってよ」
「デート?」
「そう。喉がカラカラなの。……とびきり強い酒が飲めるところ、知ってるでしょ?」
いきなりの要求。
だが、ここで断れば「甲斐性のない飼い主」と見なされるだろう。
井上は短く息を吐き、口角を上げた。
「いいだろう。……ついて来い」
倉庫街を出ると、井上が手配していたハイヤーが待機していた。
だが、舞永は運転手を助手席に追いやると、当然のように運転席に乗り込んだ。
「私が運転するわ。ボスの車の趣味、チェックさせて」
「……事故るなよ」
井上が後部座席に乗り込むや否や、車はタイヤを軋ませて急発進した。
猛スピードで夜の湾岸線を駆け抜ける。
スリルを楽しむように鼻歌を歌う舞永と、後部座席で眉一つ動かさず夜景を眺める井上。
奇妙なドライブデートだった。
車が停まったのは、六本木の会員制バーの前だった。
看板もない重厚な扉の奥。
ジャズが静かに流れる薄暗い店内は、先ほどの地下格闘技場とは対極の、洗練された大人の空間だ。
カウンター席に並んで座る。
舞永はメニューも見ずにオーダーした。
「スピリタス。ロックで」
「……正気か?」
井上が呆れると、舞永はケラケラと笑った。
「冗談よ。……マティーニを頂戴。ステアじゃなくてシェイクで。それと、オリーブは3つ」
「かしこまりました」
バーテンダーが慣れた手つきでシェイカーを振る。
井上はバーボンを頼んだ。
「で、ボス。明日のパーティー、私は何を着ていけばいい? 迷彩服? それともビキニ?」
「……ドレスだ。とびきり派手なやつを用意させる」
井上はグラスを傾けた。
「お前には俺の『恋人』役を演じてもらう。……同時に、俺の背後を狙う羽虫どもを威圧する『番犬』だ」
「了解。……恋人役なら、キスくらいはサービスに含まれる?」
舞永は顔を近づけ、妖艶に微笑んだ。
その瞳は、井上の反応を楽しんでいる。
井上は動じることなく、彼女の瞳を見つめ返した。
「仕事ならな。……だが、俺の唇は高いぞ」
「あら、自信過剰。……嫌いじゃないわ」
舞永はマティーニのグラスを掲げた。
「乾杯しましょ。私たちの『戦争』に」
「ああ。……乾杯」
カチン、とグラスが触れ合う音が響いた。
強いアルコールが喉を焼く。
隣で飲み干す舞永の横顔は、戦場の狂気を隠し、ただ美しい一人の女性に見えた。
店を出ると、夜風が火照った肌に心地よかった。
「さて、まずは何をする? ホテルにシケこむ?」
「いや。……猫にミルクをやる時間だ」
舞永は目を丸くし、それから腹を抱えて笑い出した。
「ハハハ! 最高! アンタ、見た目よりずっと面白いわ!」
高らかな笑い声が、夜の街に響き渡った。
資金、知略、美貌、そして武力。
全てのピースが揃った。
日付が変われば、運命の日だ。
西園寺家は知る由もない。
彼らの華やかな宴に、飢えた狼たちが解き放たれようとしていることを。




