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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: U3
覚醒と変身

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10/19

第10話 死に場所への鎮魂歌

 東京の空は高く、鰯雲が流れているものの、窓から差し込む日差しにはまだ夏の名残である強い熱気が混じっていた。

 アマン東京のレジデンススイート。

 季節は9月。暦の上では秋だが、東京のアスファルトはまだ昼間の熱を蓄え続けている。


 井上健太郎は、アイランドキッチンの前に立っていた。

 身につけているのは、オーダーメイドのシャツの袖を捲り上げ、その上に巻いた紺色のエプロンだ。

 オーブンからは、食欲をそそる芳醇な香りが漂い出している。燻製のようなスモーキーな香りと、豚の脂が焼ける甘い匂い。


 彼が今日挑んだのは、ハワイの伝統料理『カルーアピッグ』だ。

 本来は地面に掘った穴で豚を一頭丸ごと蒸し焼きにする豪快な料理だが、井上はこれをスイートルームのキッチンで、科学的かつ繊細に再現しようとしていた。


「……そろそろか」


 井上はオーブンを開けた。

 熱気と共に、香りが爆発的に広がる。

 取り出したのは、ダッチオーブンだ。

 重い鉄の蓋を開けると、バナナの葉に包まれた巨大な肉塊が鎮座していた。


 豚肩ロースの塊肉、2キログラム。

 昨夜のうちにハワイ産の赤塩とリキッドスモークを丁寧に揉み込み、バナナの葉で厳重に包んで一晩寝かせたものだ。

 それを120度の低温オーブンで、5時間かけてじっくりと火を通した。


 井上はトングを使い、肉をバットに移した。

 そして、二本のフォークを突き立てる。

 力などいらない。

 軽く引くだけで、肉の繊維がほろほろと解けていく。

 長時間加熱によってコラーゲンがゼラチン化し、繊維の一本一本まで柔らかく仕上がっている証拠だ。

 肉汁が溢れ出し、繊維に絡みつく。


「ミャウ……!」


 足元で、仔猫のハイが興奮した声を上げた。

 強烈な肉の匂いに、野生の本能が刺激されたらしい。井上の足に爪を立ててよじ登ろうとしている。


「待て。これは塩が効きすぎている」


 井上はハイを優しく引き剥がし、別に用意しておいた茹でた鶏ササミを小皿に入れてやった。

 ハイは不満そうに一瞬鼻を鳴らしたが、すぐにササミに食らいついた。


 井上は手際よく肉を全て裂き、肉汁と絡めた。

 そこに、蒸したキャベツを合わせる。

 キャベツの甘みが、豚肉の塩気と脂を中和し、いくらでも食べられるバランスを生む。


 完成だ。

 皿に盛り付けられたカルーアピッグは、素朴な見た目だが、圧倒的な存在感を放っている。

 だが、井上がその横に置いたのは、ビールでもトロピカルカクテルでもなかった。


 冷蔵庫から取り出した、磨りガラスのような青い瓶。

 純米吟醸酒『黒龍』。

 福井県の銘酒だ。華やかな香りと、切れ味鋭い辛口の後味。


 異色の組み合わせ。

 ハワイのソウルフードと、日本の魂。

 だが、井上の中では、これこそが今の自分を象徴する味だった。

 国籍も、顔も、名前すら変えてしまった男の、歪で贅沢な食卓。


 ガラスの酒器に酒を注ぐ。

 トクトクという音が、静寂な部屋に響く。


「……いただきます」


 井上はフォークで肉とキャベツをたっぷりとすくい、口へ運んだ。

 

 美味い。

 口に入れた瞬間、強烈なスモークの香りが鼻腔を抜ける。

 噛む必要がないほど柔らかい肉から、豚の濃厚な旨味と脂が溶け出し、舌を包み込む。

 ハワイアンソルトのミネラルを含んだ塩気が、肉の甘みを極限まで引き立てている。


 そこに、冷えた日本酒を流し込む。

 吟醸香がスモークの香りと混ざり合い、不思議な調和を見せる。

 そして、キリッとした酸味が、口の中に残る豚の脂をさっぱりと洗い流していく。


(……悪くない)


 井上は独りごちた。

 野性味と洗練。

 熱気と冷気。

 相反する要素がぶつかり合い、喉の奥で一つになる。

 それはまるで、復讐に燃える心と、それを冷徹に実行しようとする理性が同居する、今の自分のようだった。


「ミャー」


 ササミを食べ終えたハイが、満足げに顔を洗っている。

 井上は肉をもう一口頬張り、酒を煽った。

 腹の底から熱い力が湧いてくる。

 生きている。

 これから死地へ向かうとは思えないほど、生の実感が漲ってくる。


 完食。

 井上は酒器を置いた。

 腹は満たされた。

 次は、心を満たしに行く番だ。


 午後2時。

 井上はハイヤーの後部座席に座っていた。

 向かっているのは、都心から車で2時間ほどの山間部。

 かつて「別荘」と呼ばれ、今は帝都グループのリゾート開発予定地となっている場所だ。

 そう、1周目の人生で、灰谷守が殺された現場だ。


 車窓を流れる景色は、深い緑に覆われている。

 まだ紅葉には早いが、木々の緑は夏の盛りを過ぎ、どこか落ち着いた色合いに変わっていた。

 井上の心拍数が、少しずつ上がっていく。

 恐怖ではない。

 怒りという名の燃料が、静かに燃え上がっているのだ。


「ここで止めてくれ」


 井上は運転手に命じ、山道の手前で車を降りた。

 ここからは歩く。

 自分の足で、死に場所を踏みしめるために。


 舗装されていない砂利道を歩く。

 湿り気を帯びた風が吹き抜け、草むらからは蝉の声に混じって、秋の虫たちの鳴き声が聞こえ始めていた。

 1周目の死の直前では、この辺りは雪に覆われていたが、今はまだ生命力に溢れた緑が残っている。

 だが、所々に「開発予定地」「立入禁止」の看板が立てられ、測量のための杭が打たれていた。


 30分ほど歩いただろうか。

 視界が開けた。

 切り立った崖の上。眼下には深い渓谷があり、遠くに細い川の流れが見える。

 ガードレールは錆びつき、所々歪んでいる。


「……ここだ」


 井上はガードレールに手をかけた。

 生温かい鉄の感触。

 あの日、このガードレールを突き破り、宙を舞った感覚が鮮明に蘇る。

 内臓が浮き上がる浮遊感。

 ガラスが砕ける音。

 そして、全身を貫く激痛と絶望。


 井上は崖下を覗き込んだ。

 吸い込まれそうな高さだ。

 あそこで、灰谷守は死んだ。誰にも知られず、ゴミのように処理された。


「……戻ってきたぞ」


 井上は谷底に向かって呟いた。

 風が吹き抜け、木々がざわめく音が、死者の嗚咽のように聞こえた。


 その時だった。

 遠くから、車のエンジン音が近づいてきた。

 一台ではない。複数の、重厚なエンジン音だ。


 井上は反射的に身を翻し、近くの藪の中に身を隠した。

 元傭兵の教官から叩き込まれた身のこなしで、気配を殺す。


 現れたのは、黒塗りの高級車が3台。

 帝都グループの社章が入っている。

 車が停まり、ドアが開く。

 降りてきたのは、スーツ姿の男たち。社員だろう。彼らは恭しく後部座席のドアを開けた。


 そこから現れた人物を見て、井上の目が凍りついた。


 西園寺麗華。

 そして、義兄の猛。


 10年前の彼らだ。

 麗華は薄いシルクのノースリーブワンピースに身を包み、腕には高価なブランドバッグを下げている。

 猛は麻のジャケットを羽織り、暑そうに襟元を緩めて葉巻をくわえている。


「うわぁ、何ここ。虫がいそうで最悪」


 麗華が開口一番、不満を漏らした。

 手でパタパタと顔を仰ぎ、蒸し暑さに顔をしかめる。

 社員が慌てて地面にシートを敷こうとするが、彼女はそれを無視して崖の方へと歩み寄った。


「ここが、例の予定地か? 随分と田舎だな」

「ええ。ですが地盤はしっかりしていますし、来年のシーズンまでには造成が完了します」


 社員が揉み手をして説明する。

 麗華はサングラスを少しずらし、つまらなそうに崖下を見下ろした。

 ちょうど、井上が死んだポイントだ。


「ねえ、お兄様。ここ、リゾートホテルにするのよね?」

「ああ。温泉も出るらしいしな。富裕層向けの隠れ家にするつもりだ」

「ふーん……。でも、なんか景色が鬱蒼としてて陰気じゃない?」


 麗華は鼻で笑った。


「いっそ、ここをゴミ処理場にしちゃえば? 崖下なら、何を捨ててもバレなそうだし」


 その言葉に、猛が下卑た笑い声を上げた。


「ハハハ! 違いない。産廃の不法投棄にはもってこいの地形だな」

「でしょ? 産業廃棄物も、要らなくなった人間も、ここなら綺麗サッパリ消えてくれそう」


 要らなくなった人間。

 その言葉が、井上の心臓を直接握り潰すように響いた。


(……ああ、そうか)


 井上は藪の中で、ギリギリと奥歯を噛み締めた。

 彼女にとって、自分はずっと前から「ゴミ」だったのだ。

 結婚する前も、結婚した後も、そして殺した後も。

 彼女の中では、灰谷守という命は、壊れた家具や生ゴミと同列の存在でしかなかったのだ。


 殺意。

 純度100%の、混じりっけのない殺意が、全身の血液を沸騰させる。

 今ここで飛び出し、彼女の首をへし折って、あの崖下に突き落としてやりたい。

 そうすれば、どんなに胸がすくだろうか。


 だが、井上は動かなかった。

 握りしめた拳の爪が、掌に食い込み、血が滲む。

 それでも、呼吸を整え、冷徹な理性を保ち続けた。


 楽に殺してはならない。

 一瞬で終わらせてはならない。

 彼女が大切にしているもの――金、地位、美貌、プライド――その全てを一枚ずつ剥ぎ取り、裸のまま絶望の泥沼に突き落とさなければならない。


 「ゴミ」として捨てられる恐怖と屈辱を、骨の髄まで味わわせなければならない。


「……じゃあ、帰ろ。蚊に刺されそうだし」


 麗華は興味を失ったように踵を返した。

 猛も社員たちを引き連れ、車へと戻っていく。

 エンジン音が遠ざかり、再び静寂が戻ってきた。


 井上はゆっくりと藪から出た。

 スーツには泥がつき、草の汁がついている。

 だが、その表情は、先ほどまでの激情が嘘のように静まり返っていた。

 能面のような無表情。

 だがその瞳の奥には、決して消えることのない青白い炎が揺らめいていた。


「聞いたか、灰谷守」


 井上は誰もいない崖に向かって語りかけた。


「彼女は、ここをゴミ捨て場だと言った。……上等だ」


 井上は懐から、一枚のハンカチを取り出した。

 そして、崖の淵に立った。

 眼下には、深い緑に覆われた渓谷が広がっている。美しくも残酷な墓標だ。


「この場所は、お前の墓場じゃない。……西園寺家の墓場だ」


 井上はハンカチを離した。

 白い布が、湿った風に煽られ、ひらひらと谷底へと舞い落ちていく。

 それは、灰谷守への別れの挨拶であり、西園寺家への宣戦布告だった。


 明日はパーティーだ。

 いよいよ、怪物が表舞台に姿を現す。


 「ゴミ」が「王」の仮面を被って、彼らの前に立つのだ。


「待っていろ、麗華。……最高のゴミ処理を見せてやる」


 井上は背を向け、歩き出した。

 その背中は、もう丸まってはいなかった。

 残暑の日差しが傾き、彼の長い影を地面に焼き付けていた。

 それはまるで、復讐という名の悪魔の影のように、黒々と伸びていた。

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