僕の彼女は風俗嬢ですが、何か?
「なつくん、おかえり〜」
「ただいまー。あ、今日は夜勤の日?」
「そうそう。カレー作っておいたから食べてね〜。今日はなつくんの学期末試験終了を祝して夏野菜たっぷりカレーだよ〜」
「まじ?やったぁ」
仕事用の小さなハンドバックを持ちながら、無邪気に喜ぶ三つ歳下大学生彼氏に屈託のない笑顔を浮かべている彼女はれいちゃんこと清水麗華。
元はただのお隣さんだったが、三か月前に僕が思い切って告白して付き合ってからは、僕の部屋で半同棲状態の生活を送っている。
れいちゃんは、料理も洗濯も掃除も全部完璧だし、なにより可愛い。
ぱっちり丸目と筋の通った鼻筋に、笑うと口元にえくぼが浮かぶ富士唇。
しかも最近はチェリーブラウン色の前下がりボブに変えて、ますます可愛さに拍車がかかっている。もう、どうしてこんな人が恋人なんだろうと日々疑うくらいだ。
そんな僕の自慢の恋人は、人気風俗嬢である。
初めて聞いた時は正直驚いた。だけど、彼女の努力を目の当たりにしてきた今はただただ尊敬の気持ちしかない。
プロ意識が高くて、お客さんに対して適切に接客を変え、必ず満足させようと全力を尽くす。いつしかその姿勢が評価されて、指名が殺到するほど人気を呼び、今では風俗という枠を超えて、女性ファッション誌にまで取り上げられるようになった。
そんな彼女はというと、いつの間にか屈託のない笑顔を封じて、いたずらっぽくニヤニヤしながら僕の方を見ている。
「もう!ずっとニヤニヤしてさ。一体なんだよ」
「相変わらずなつくんは可愛いなぁと思って」
「だから、可愛いのはれいちゃんの方だよ」
「ありがとう。てかさ、いっつも可愛いって言ってくれるよね、なつくんは」
「だって事実なんだもん」
「まぁ可愛いって言われるのは当然嬉しいよ。嬉しいけどさぁ、たまには…可愛い以外もほしいなぁって思ったりするんだけどなぁ」
「うーん、それなら……尊敬してる!かな」
「尊敬?なんで?」
「だってれいちゃんは家事も完璧で、お仕事でもお客さんに満足してもらえるように励んでるじゃん。なんでも努力してるのすごいと思う」
「ほんと?私、ちゃんとできてるかなぁ」
「できてるよ!仕事は順調そうだし、その上家事も完璧でさ、僕は真似できない。だからほんと尊敬してるんだよね」
「なつくん……あぁぁぁ、もう!なんでそんなに可愛いの、なつくんは!すきぃ!!」
そう言うや否や、れいちゃんは僕をぎゅっと抱きしめてきた。
柔らかい体が密着して、Eカップはあるという胸の弾力がわざとらしいくらいに押し付けられる。きっと僕の反応を楽しんでるんだろう。
『そうはいくもんか!』なんて格好をつけたいところだが、元気になってしまうのは男の性のようだ。
「ちょっ、れいちゃん…」
「あれぇ、なんか当たってるんですけどぉ。ひょっとしてなつくん、ムラムラしてきちゃったのかなぁ」
「してない…」
嘘である。
胸の谷間がしっかりと見える黒のカジュアルなTシャツに、白のレーススカートという薄手コーデだからか、余計に押し付けられた肉体が柔らかく感じられ、血流が僕のとある一点に集中すれば、それが彼女の太ももに当たってしまう。
それに反応するように、僕の耳元でふふっと小さく笑うと甘く囁いた。
「太ももに硬くて大きくなったなつくんのムスコさんが当たってるよっ」
れいちゃんの吐息混じりの囁き声が耳をくすぐり、頬が火照っていくのがわかる。
そんな僕を上目遣いで、いじわるに微笑むれいちゃんは余計に妖艶感じられた。
なおさらムスコが元気になっていくのは無理がない。
「いや、だってれいちゃんが…」
「れいちゃんが…なぁに?」
「なんでもない…」
「えぇー。聞きたいなぁ」
「なんでもないってば!てか早く家出ないと遅刻しちゃうのでは?」
「そうだけどさぁ。まぁ仕事前にいっぱい充電させてよー。ほら、もっとぎゅーっ」
彼女とはいえ、付き合ってまだ三か月だ。
こういうスキンシップへの耐性はない。
これ以上の気恥ずかしさに耐えられず、身を引こうとすると気付かれたようで、目をとろんとさせ、相変わらず意地悪に笑うとれいちゃんはすぐに僕を抱き寄せた。
今にも一発仕掛けてきそうだったその表情に、僕の心音と血流は余計に早まっていく。
「あれ〜、なつくん、段々大きくなってきたよぉ。ふふ、やっぱりムラムラしてきちゃったんだ〜」
「だ、だって、れいちゃんの服薄くて」
「じゃあさ……一回…しちゃう?」
「いや、もう時間ないし」
「でもさ…我慢…できないんでしょ?」
はい。その通りです。今にもムスコが破裂しちゃいそうです。
耳元をとろけさせるような甘い囁きに僕は考えることを放棄せざるを得なかった。
「じゃ、じゃあ……し…しちゃ」
いやいや、だめだめ。
れいちゃんは今大事な時期なんだ。僕が足を引っ張ってどうするんだ。
仕事一つも愚かにできないんだぞ!
誘惑に負けそうになったことを反省し、視界の隅に映ったリビングの壁掛け時計の時刻を彼女に伝えることにした。
「し、しちゃわない!てか、れいちゃん!今何分だと思いますか?」
僕の言葉に彼女もふと時間を確認すると、あからさまにつまらないなぁと言わんばかりのため息をつく。
「ぶー…仕方ないなぁ。はいはい、わかりましたぁ。わかりましたよぉ」
「れいちゃん、今は大事な時期なんだからね。いっときの誘惑に流されてはいけません」
僕もだけどね。
「えぇー。なつくんとエッチするためにお仕事休むなら本望だよ」
「だめです」
そう言って僕は彼女の背中を押して玄関へ移動させる。
「なつくんの鬼ぃ〜」
なんだかんだぶつぶつ言いながらも、僕の肩を支えにしてヒールを立ちながら雑に履き、玄関に置かれている姿見で前髪を整えると彼女は唇を尖らせ、僕に向き直る。
「じゃあ仕方なくいってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「あ、そうだ!なつくん!」
急に僕の耳元に顔を近寄せ、また吐息混じりに囁く。
「帰ったら、いっぱいエッチしようね」
あ、やべ。またムスコが元気になってきた。
だめだだめだ!自制心自制心……
「もうっ!揶揄ってないで、早く行きなよ!遅刻しちゃうよ」
「冷たいな〜」
たぶん元気になっているのがバレているのだろう、れいちゃんはクスッと笑い、手を振りながら出ていく。
扉がしまり、彼女がアパートの階段を降りていく音を聞きながら、僕は一人玄関でクールダウンを試みるが収まりそうにはない。
「はぁ…明日の朝まで我慢できないよ」
そんな独り言は虚しく空に消えるが、余計にムスコが元気になってきた。
「いかんいかん。とりあえず晩御飯にしよ。気を紛らせないと」
とても良いタイミングで腹が鳴り、僕は腹を空かせていたことを思い出し、どうにかムスコが落ち着いてきた。
性欲が食欲へと変わっていくこのタイミングを逃すまいとして、カレーを温め直そうと台所へ向かったその瞬間、突然玄関のチャイムが鳴った。
「ん?……れいちゃん、また忘れ物したのかな」
大方の予想はついていた。
家事も仕事も完璧なくせに、どこか抜けてるところがある。財布とかハンカチとか、忘れ物を取りに戻ってくるのは彼女の“あるある”だ。
まぁ、それも含めて可愛いんだけど。
そんな可愛い彼女に、行ってきますのキスくらいはしたいと思い軽い足取りで玄関へ向かい、扉を開けるとそこにいたのはれいちゃんではなかった。
「朱音?」
「よっ」
「何しに来たんだ?」
「ちょっとあんたに話があったから来たのよ」
「話?」
「そうよ。とりあえず部屋の中で話したいから、上がるわね」
遠慮もなしにズカズカと靴を脱いで上がり込んでくる彼女は火野朱音。
幼馴染で、同じ大学に通っている。
実家暮らしだけど、僕の母さんに可愛がられていて、まるで“第二の母”みたいに何かと世話を焼いてくる。
「今日はどんなご用件で?」
「は?」
「いや、は?って、こっちのセリフなんだが」
「わかってるくせに」
不満げに言い放つと、朱音は僕に背中を向ける。
その声色と、ほんの少し陰りのある仕草だけで、だいたい察しはついた。
おそらくれいちゃんと僕が付き合っていることについてだろう。
以前、近所のスーパーでれいちゃんと買い物していたところで鉢合わせしたのである。
って、別によくない?
大学生なんだし、彼女の一人居てもおかしくはないだろう。
全く過干渉にもほどがある。
そう考えると、不満気な気持ちになるのは僕の方が然るべきである。
そんな気持ちから、ジトっとした視線を彼女の背後に向ければ、リビングに着くや否やその視線を断つように目をきゅっと細めながら振り返る。
その威圧感あふれる視線に思わず一瞬怯んでしまった。
「な、なんだよ」
「今日彼女さんは?」
「仕事だよ」
「そう」
「そうだけど、だったらなに?」
「あんたの彼女さんについて話があるんだけど」
やはりとは思っていたが、なぜそんな不機嫌なんだ?
鉢合わせしたあの時、れいちゃんと付き合っていて、彼女は隣りに住んでいるとは言ったが、半同棲とは言っていない。
まぁ仮にバレていたとしても、いくらなんでも過干渉すぎるだろ。正直親よりうざいわ。
そんな心の声が漏れていたのか、表情から察しられたのか鋭い眼光と威圧感を放ちながらにじり寄ってきた。
「隠してること、あるでしょ?」
「隠してる?なにを?」
やっぱり半同棲がバレていたか。
そう身構えた瞬間、朱音の口から出たのは別の言葉だった。
「あんたの彼女さん、駅前の風俗店で働いてるよね。知ってた?」
「あぁ、なんだ。そんなことか。そうだよ。僕の彼女は風俗嬢ですが、何か?」
「何かって…あんたねぇ」
「あ!言っておくけど、人気風俗嬢ね!しかも雑誌デビューした知名度爆上がり中の」
自慢気に、そして朱音の真剣さを打ち消すような明るいテンションでいる僕が鼻についたようで、急に声を低くしてきた。
「は?」
「は?って、なんでそんな怒ってんの?」
「あのさ、風俗嬢だよ?いろんな男に体売ってんの!あんたわかってんの?」
「だとしても、別に普通に社会人してるんだから問題なくね?僕からしたら立派な大人だよ」
僕の考えに理解が及ばなかったのようで、朱音は呆気にとられたまま固まった。
いや、僕は何もおかしいことは言っていない。
れいちゃんは、頑張って働いて、稼いで、家賃も光熱費も、もちろん税金だってちゃんと払ってる。
そのうえ僕に食べさせるご飯の食費まで出してくれる。
金銭面だけじゃない。僕の身の回りのことまで、彼女は当たり前のようにこなしてくれてる。
逆の立場なら、僕は絶対に無理だ。
仕事を一生懸命やって、その上自分以外の分の家事までやるなんて、きっと僕ならてんてこ舞いになって、笑顔ひとつ浮かべる余裕もないだろう。
僕からすれば、やはり彼女は、尊敬する存在であり、立派な社会人だ。
「とにかくれいちゃんは立派に社会人をやってるんだし、僕の身の回りのことだってやってくれてる。仮に朱音がれいちゃんの立場なら同じことができんのかよ」
「あたしならもっとマシな方法でやるわよ!」
「はいはい、口でならなんとでも言えるって。れいちゃんのことを何にも知らない癖に戯言なんて聞きたくないね」
「はぁ。なつと、あんたやっぱ毒されてるよ」
「僕は毒されてなんかない。強いて言うなら、毒されてるのは朱音の方じゃないか。世間の偏見的な意見に」
「正気で言ってるの?」
「もちろんだ」
「あんた以外の知らない男に体触られて、相手して……そんな女と付き合ってんだよ?普通に考えてまともじゃないでしょ!」
「まともじゃないって言うが、それが世間的な意見だったとしても、君の個人的な意見だったとしても、僕は今が幸せなんだ。間違いなくな」
れいちゃんがよく言うんだ。
『こういうときは意見をぶつけずに、さらっと流して“そうだね、うんうん”って同意してあげるのが大人だよ』って。
でも彼女を悪く言われるのは心底、耐えられないから、今においては大人じゃなくていい。
とはいえ、僕としては冷静に答えたつもりだった。
けれど、その僕の振る舞いが朱音の怒りの火に油を注いでしまったらしい。
彼女はさらに顔を紅潮させ畳みかけてきた。
「なつとが良しとしても、世間はそう思わない!あんたがどれだけあの女を肯定する言葉を並べたって、外から見れば“風俗嬢の彼氏”ってレッテルを貼られるだけ!」
「だからそれがなんだよ?」
「まだわかんないの?なつとってほんと馬鹿だよね。あたしがこんなにもあんたのことを想って言ってあげてんのにさ。ほんと毒されて、頭までおかしくされちゃってさ。早く別れた方がいいよ」
「おかしいのは世間の定説に犯されている朱音の方だ。誰だって理由があってその職に就いて、一生懸命働いてる。れいちゃんはよく頑張ってるよ。僕は彼女が風俗嬢になった経緯も知ってるし、その上で彼女を応援して、尊敬して、誇らしいとさえ思ってるんだ。だから僕はなんと言われても彼女とは決して別れない」
「なっ……!」
朱音は言葉を飲み込み、悔しそうに拳を握りしめる。
「……もういい!あんたがそこまで言うなら、勝手にすればいいじゃん!」
「僕は最初から勝手にしてる。れいちゃんを今度は僕が支えるって、大切にするって決めてるから。だから朱音の意見を理解することはできない」
「ほんと馬鹿!」
立涙を滲ませながら朱音はリビングの引き戸を乱暴に引くとそこには、忘れ物を取りに戻ってきたであろうれいちゃんがぎょっとしたように目を丸くし、口を半開きにして立っていた。
「……あ」
思わず声を漏らした朱音が、動きを止める。
れいちゃんは一瞬だけ目を伏せ、それから柔らかく苦笑した。
「あ、あの…こんばんは。えぇと、なつくんの幼馴染の…」
「火野朱音です」
「そうそう!あかねちゃんよね!こないだはあまりお話できなかったから、なつくんから色々お話聞いてたんだよぉ。早く仲良くなりたいなぁって思ってたんだぁ」
「あの、馴れ馴れしくしないでもらえますか?てかなんですか?仲良くなる?は?いやいや、無理なんですけど。大体、幼馴染を毒したあんたみたいな悪魔と仲良くする気なんてないので」
悪魔?
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥で何かがブチッと音を立てて切れた。
例えようのない怒りが、体の奥底から込み上げて、気づいた時には、もう口を突いて叫んでいた。
「っっざけんな!!!」
おそらく朱音とは幼少からの仲だが、彼女の前で声を荒げたことは未だかつてなかったからか、朱音は目を見開いて硬直していた。
そんな彼女を目の当たりにしても、僕の怒りは止まることはなかった。
「悪魔って何?一生懸命働いて、僕を幸せにしてくれて、そんなれいちゃんを悪魔呼ばわりって。ふざけんな。大体、れいちゃんのことをなんにも知らないくせにさ!」
「なにも知らないのはなつとじゃん!」
朱音の声は震えていた。虚を突かれたのが手に取るようにわかるくらいに幼馴染の顔が強張っていく。
「朱音、今の僕がいるのはれいちゃんのおかげなんだ。れいちゃんを侮辱するなら、今の僕を侮辱するのと同じだ!」
「あ、あたしはなつとを否定してない!あたしが否定してんのはその女が風俗で──」
「仕事に貴賎なんてない。必死に働いて、生活して、税金だって払ってる。立派な社会人じゃん。それでいて僕を幸せにしてくれた。誰よりも誇れる人なんだよ。何も分かってないくせに、れいちゃんを否定すんな!」
怒りが抑えきれず、自分の声が震えていることにさえ、気づかず、拳を握りしめ、胸が熱くて息が荒くなっていく。
「まぁまぁ、なつくん……落ち着いて」
背中に柔らかな声が届くと共にれいちゃんが僕の腕をそっと掴む。
その温もりにようやく僕は冷静さを取り戻せたようなものだった。
見ず知らずの人に悪魔なんて言われても、やはりれいちゃんは大人でその表情は柔らかく、相変わらずの優しい笑みを浮かべている。
「大丈夫だよ。私、慣れてるから」
れいちゃんはそう言うと、その柔らかい表情を崩さないまま、朱音に向き直った。
「朱音ちゃん、不安にさせてごめんね。私がこういう職業柄でなつくんと付き合ってるから、それは、まぁ心配になるよね」
「そうよ。自覚はあるんだね。なら、さっさと別れてよ!!なつとを不幸にする前に早く別れてよ!!」
朱音は顔を赤くし、唇を強く噛みしめた。
そんな彼女にまた僕の自制心は破綻していく。
「もういいって!!なんなんだよ一体。僕たちを不幸にしてんのは朱音じゃん!だいたい朱音に僕たちの何が──」
朱音に詰め寄ろうとした僕はれいちゃんに腕を掴まれ、ふと彼女を見ると目尻から一粒の涙が頬を伝っていくのが見えた。
僕は後悔した。
大人な振る舞いをしても、れいちゃんがそこまで強くないのを僕は知っている。きっと強がっているのだろう。
僕と知り合わなければきっとこんな罵詈雑言を浴びせられることはなかったのだろうに。
心臓が冷たくなる感覚に陥る中、立ち尽くす僕の頭をぽんぽんと叩くと大人な彼女は僕に変わり、朱音に言葉を紡いだ。
「朱音ちゃん、ごめんね。確かに朱音ちゃんの言う通り、私の職業は世間から見れば、あまり誇れる職業ではないのかもしれない。それでもね、私がなつくんを幸せにするためには、なつくんを支えるためには、私にはこの職業しかないの」
「はぁ?意味わかんない。別に働き口なんていくらでもあるでしょ?なのに風俗ってさ…それってただあんたが他の男ヤリたいだけでしょ?それともなに?男に身体売って、楽して大金稼げるから?」
和解は不可能と感じた僕は朱音に詰め寄った。
「れいちゃんのことをわかりもしないくせに否定すんなよ。れいちゃんがどれだけ辛くて、大変な思いをしたかも知らないくせに、わかったようなこと言ってんな!大体な、朱音が考えたことなんて、とっくの昔に──」
「なつくんっ!!」
れいちゃんの声が子どもな僕を止める。
そのはっきりとした声に僕は肩をびくっと揺らし、視線を向けると、彼女は優しく穏やかな表情で首を横に振り、そして朱音に再び向き合った。
「朱音ちゃん、私ね、普通に働くことができないの。精神的な病気をいくつか抱えててさ。今は薬でなんとか誤魔化せてるけど、よく体調が崩れたりするんだよね。だから今のお仕事しか私は選択肢がないの。でもね──」
そう言うと大人なれいちゃんは満面の笑みを浮かべて、朱音にはっきりと言った。
「私、今のお仕事別に嫌いじゃないよ」
その言葉に朱音はぎゅっと眉を寄せ、困惑の色を浮かべていた。
けれど、れいちゃんは笑顔を崩さずに続けた。
「だってね、私、この仕事をしてると、必要とされてるんだなって思えるの。社会じゃさ、私は役立たずかもしれない。病気もあるし、普通に働く力もないし……居場所なんてないのかもって、何度も思った」
れいちゃんは少し伏し目がちに、でも柔らかく言葉を紡いでいく。
「でも、この仕事を選んでからは違った。私を必要としてくれる人がいるって実感できた。『ありがとう』って言葉をもらえるだけで、私が生きてていいんだって思えたの」
その声は決して大きくない。けれど、ひとつひとつの言葉が僕の胸に染み渡った。
「それにね──」
れいちゃんは僕をちらっと見て、また朱音に向き直る。
「なつくんを支えてあげられることがなによりも嬉しいんだぁ。わたし」
僕の心臓が大きく跳ねた。
彼女は真剣に、でも花が咲いたような笑顔を浮かべてそう言うのである。
「だから、嫌いじゃない。私にとっては、これが精一杯の生き方で……誇れるものなんだ」
その笑顔が眩しかった。
彼女がどれほどの過去を抱え、どれほどの痛みを越えて、今ここに立っているのかを僕は知っている。
だからこそ、僕は彼女が大好きなんだ。
「何開き直ってんのよ」
カウンターパンチを食らった朱音は剣幕で目を見開き、後退りしたあと勢いよく玄関へ向かい扉を開けた。
そしてこちらに振り向くや否や、憎しみのこもった眼差しを向けてきた。
「あたし……絶対に認めないから!なつとがどんなにあんたを庇ったって、あんたみたいな悪魔に奪われるのは絶対嫌!必ず別れさせてやる!」
その捨て台詞を最後に、朱音は勢いよく踵を返し、扉を家が揺れるほどの音が響きわたるくらいにバタンと閉めた。
その瞬間、緊張の糸が切れたようで腰から力が抜けて、格好のつかない具合にヘタレ込んだ。
「ごめん、あんな声出したの久しぶりで」
「んーん、私の方こそごめんね。もっとちゃんと上手く気持ちを伝えれてたら結果はまだましだったかもしれないのに」
そう言いながられいちゃんはしゃがみ込み僕の頭を撫でてくれた。頬にはさっきの涙の軌跡を残しているがそれでも笑顔でいる。
その姿に、僕は彼女を結局不幸にしてしまうんじゃないかという気持ちがふとよぎったもんで、本心を口にせざるを得なかった。
「なぁ、れいちゃん。僕とこれからも一緒に居たい?」
言葉にした瞬間、自分でも情けない質問だと思った。
僕の声はかすれ、喉の奥が苦しくて、視線を合わせることすらできない。
「僕と一緒にいても、れいちゃんは傷つくだけなんじゃないかって思っちゃった。今日だってそうだ。僕と関わらなければあんなことを言われることなんてなかったかもしれないのに」
俯いて吐き出す僕の言葉に、れいちゃんは一瞬黙り込んだ。
けれど次の瞬間、彼女は明るい声で口を開いた。
「何言ってるの。なつくん、忘れたの?」
「え……」
「付き合ったあの日、この先、何があってもずっと一緒にいるって、約束したでしょ?」
僕は思い出した。
生きる意味を見いだせなくなり、命を投げ出そうとした僕に希望をくれた言葉だ。
また涙が込み上げてきた。
「私はね、なつくんと出会えたこと、本当に幸運だと思ってるんだよ。だってね、なつくんがいてくれるからなんでも頑張れる。なつくんに出会うまでの私には考えられなかったくらいすごいことなんだよ。誰に何を言われても、なつくんが私を嫌いにならない限り、私はなつくんずっと一緒にいたい」
「嫌いにはならないよ。絶対」
「じゃあ約束だよ。もう絶対に『一緒にいちゃいけない』なんて言わないで。私は離れる気なんてないんだからね。なつくんと一緒に笑って、一緒にご飯食べて、一緒に眠る。そんな毎日が幸せなの」
「うん。約束する」
彼女の声は震えていなかった。
まっすぐに僕の心を照らすように、澄んでいた。
「あぁ、やっぱりなつくんが好きっ」
そう言ってれいちゃんは僕の胸に飛び込んできた。
その小さな体を、僕は強く、強く抱きしめ返す。
「ありがとう……ありがとう」
「うん。こっちこそ、私なんかと一緒に居てくれてありがとうね」
お互いの鼓動を確かめ合うように抱きしめ合いながら、僕は静かに涙を流した。
誰に否定されても、この腕の温もりが、揺るぎない答えだったことに安心すれば、僕はふと思い出した。
「あ!てか、れいちゃん仕事は?!」
「ぎゃっ!忘れてた!!今何時?」
「八時半だよ!!間に合う?」
「んー、あ!タクシー!タクシー拾うわ!」
そう言って、彼女はまた無邪気に笑顔を見せ、慌ただしくバッグを掴んで立ち上がる。
そして玄関へ向かう直前、振り返って手を振った。
その笑顔は相変わらず輝いていて、今の俺には優しくて、温かった。
まだまだ未熟者で勉強中ですので、おかしい点や不明な点、また誤植、誤字、脱字があればぜひ教えてください!
あ、友達のように気軽に教えてくださいね!
もし仮に、上記に当てはまらず、純粋に良かったと思っていただいた場合はお星様★★★★★をお願いします。
めっちゃ喜びます(๑˃̵ᴗ˂̵)