NO.7 あなた、部屋入りなさい!
白い霧がふわっと広がり、あっという間に消えてしまった。その瞬間、姜沐は巨大な映画館の席にどんと腰かけているのに気づく。柔らかな照明はまるで絹が舞うように降り注ぎ、目の前には巨人の瞳のような大型スクリーンがそびえ立っていた。
「さて、何を観る?」
不意に声がしてそちらを見やると、販売員の制服を着ている男がやけに偉そうな態度で座っている。手には大きなポップコーンのバケツ。ふんわり甘さの漂うにおいが鼻先をくすぐった。
「うわ~、すっごい本格的じゃん。じゃあ『葬送られたヒンメル』をお願い。まだ最後まで追いかけてなくてさ」
「その作品はまだ公開してない。あと十一年ほど先だね」
「うーん……じゃあ『究極マンティガ』で。最近ちょっと観返したくなってさ」
「権利がないんだわ。てか君、動画サイトの会員じゃなかったっけ? いまどきB站も上場してない頃合いだろうに、ネット検索すればすぐ見つかるでしょ。昔は三十以上のサイトを絨毯爆撃してまで画像の出どこ探したっていう伝説のヒーローが、今さら“探すのめんどい”ってどういうことよ」
姜沐はちょっと目を細め、「ねえ、そちらさんは一体どちら様?」とやんわり尋ねる。
(なるほどね、“十一年”とか妙に具体的な話をしてくるあたり、俺のことを何かと知ってそうだ。いわゆるシステムの“代弁人”かも? “幕間”的なものが解放されたタイミングでここに登場するってことは、きっと報酬か何か重要な情報があるんだろう。)
「放映員と呼んでくれりゃいいさ。分析はもう済んだ? じゃあ始めようか。短編だよ、タイトルは……『笑顔の意味』。」
言うが早いか、彼はパチンと指を鳴らした。照明が一気に落ち、スクリーンがぱっと光を放ち始める。
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今日の呂玲児はちょっぴり不機嫌だった。
彼女みたいなタイプにとって「機嫌が悪い」状態はレアケースだ。普通はできたてホヤホヤの卤鸭腿(鴨モモ肉)を差し出されれば、それだけで天真爛漫にニコニコしてくれる。
最初、お母さんは「大雨で濡れたせいかしら」と軽く思っていた。何しろ今回の雨はまるで赤ん坊の大泣きみたいに不意打ちで降り出したので、呂玲児だけじゃなくパパもずぶ濡れ。今は生姜とクコの実入りのお茶を保温ボトルでちびちび飲んで暖を取っている。
でも、お母さんが大きな鶏モモ肉を二つも皿にのせて差し出したのに、呂玲児がまったく手を伸ばさない。そこでようやく「これはただ事じゃない」と気づいたわけだ。
「ねえ、玲児……ひょっとして夕飯足りなかった?」
――この一言から、普段の呂玲児がどう思われているかが察せるだろう。
「ううん……べつに何でもない……」
彼女はムスッと首を振る。家族を心配させたくないから黙ってようと思ったのに、ほんの数秒で思い直す。
「ママ、私ちょっと聞きたいことがあって」
要するに“今度から大人ぶろう”という決意は次の機会に持ち越しだ。
「いいわよ」お母さんは穏やかな笑みでうなずく。
「パパ普段……あれ? パパどこいった?」
母が視線を向ける先を見ると、パパが無表情でお茶をすすっている。
「今日は大雨だったのに、傘が一本しかなかったからね」お母さんは自慢げに話す。
「えーじゃあ、パパってばママに傘を全部譲ってあげたの?」
「ふふん、ママをなめないでもらおうか。私だってそうヤワじゃないの」
「正しくは、うちのママが力任せに傘をひったくってったんだよ……」とパパが切なそうに一言。
「……」
うん、もうちょっとだけ女性が控えめなほうがいいかも、と呂玲児は思う。
「ちっ違うもん! ちゃんとコインを投げて決定したのよ!」とお母さんはむきになって言う。
「そうだね、でも計二回投げたんだ。最初は表でママの勝ち。俺が抗議したら“もう一回やる”って再提案して、二回目は裏が出たのに、なぜかまたママの勝ちだと言い張る……」
「えっ、それって勝利条件入れ替えたりしたの?」
「いいえ、私はそんなの一切変えてないわよ。そもそもコインが地面に落ちれば、出る面は表と裏だけじゃないでしょ? 横向きとか垂直に刺さる可能性もあるじゃない。で、横なら私の勝ち、垂直ならパパの勝ちってわけ。完璧に平等でしょ?」
「……」
はあ、と呂玲児は心の中で(最初から何もかも奪い取ればいいじゃん、こんな回りくどいことしなくても……)と呟いた。
もっとも彼女はなんだかんだおりこうさんな娘だから、「ま、いっか」と彼女自身の疑問を優先することにした。
「ママ、実は別の質問があって……」
「うん、教えてほしいことがあるなら何でも言いなさい」お母さんは向かい合わせに椅子を引き、目を見てにこやかにうなずいている。滅多にない真剣な様子の娘を大事にしたいのだ。
「どうしてママが“パパ、ちょっと部屋来て”って言うと、パパはビクッて怯えるの? あと、ママってばそのときヘンな笑い方するよね?」
「……」
お母さんは言葉に詰まる。いちいち詳しく解説したくはない話だ。
「……」
お父さんも何か嫌なフラッシュバックが来たらしく、沈黙を続けている。
何も言わない両親に対し、呂玲児はさらに言葉を重ねる。
「だってね、今日外でちょっと変わった男の子と知り合ったんだけど……な、なんていうかヘンなヤツ?」
言葉を濁すのは無理もない。自分がそいつの夕飯をほぼ食べてしまったなんて言いづらいし、どう説明すればいいか迷う。
「つまり!」
彼女のほっぺはハチミツづけのリンゴ飴みたいに再び真っ赤。
「パパがイタズラしたとき、ママは部屋の中でどうやって懲らしめてるの? お部屋に呼ぶだけ? ほかにも“何か”するの? 私もアイツをギャフンと言わせたいからさ、とりあえず部屋に引っ張り込めばいいのかな?」
「ぶはっ……」
お父さんはクコ入りのお茶を勢いよく吹き出した。
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姜沐:「……」
【幕間の再生が終わりました。報酬はインベントリに付与されました。】
幕も照明も映画館も、すべてがまた白い霧となって溶け消えていく。まるで文章の頁のすき間に消え込む桃源郷みたいに。
そして気がつけば、ぼんやりオンボロPCの前に戻ってきていた姜沐は、思わず“この先の人生だいじょうぶか?”と頭を抱える。
人生の意味に疑問を持ったというより、「本当に俺の命がもつんだろうか……」と心配しているのだ。
なにしろあの女の子のパパが放っていた視線を思い出すと、通りで一刀両断される可能性は低くはあるが、“ゼロじゃない”と思えてならないから。
――ラーメン一杯分のトラブルで、なんでこんな危険な目に? 誰かを恨んだ覚えはないんだけど?
被害者は俺なのに! うちの祠堂には歴代の列祖列宗がズラッと見守ってくれて、俺がさんざん“ひとしきり殴られた”の証人になってくれたじゃん……。
世の中ってホント冷たいよな……。
せめてこの新しく手に入った報酬だけが、かすかな救いだ。
【うおっ、激レア級!】
「……おのれ」