9話 交わる過去
静まり返ったセーフハウスの一室に、二人の気配だけが漂っていた。
柴崎はベッドに腰掛けたまま、和馬の動きを静かに見つめている。
ヒートの影響はようやく収まり、身体のだるさも薄れてきた。
だが、心の中にはまだざわめきが残っていた。
和馬は机の上に置いた水のボトルを取ると、無言で柴崎に差し出した。
「……飲めるか?」
柴崎は頷き、受け取ったボトルの水を一口飲む。その冷たさが身体に染み渡ると同時に、和馬の視線の鋭さを感じ、思わず口を開いた。
「和馬……なんで俺を助けに来たんだ?」
問いかけられた和馬は、短く息を吐き、椅子に腰を下ろした。そして、天井を見上げるように顔を上げる。
「なんでか……お前があの犯人どもに捕まったと聞いた瞬間、身体が勝手に動いてた。」
柴崎はその言葉を聞き、微かに胸が温かくなるのを感じた。だが、和馬の次の言葉がその感情を引き裂いた。
「俺がアルファだからかも……」
唐突な告白に、柴崎は一瞬言葉を失った。
「アルファ……?」
「隠してたわけじゃない。ただ、話すタイミングがなかった。」
和馬は視線を逸らしながら、不器用に言葉を続ける。
「正直、今だって言うべきか迷った。でも、お前に嘘をつきたくなかったんだ。」
柴崎は和馬の表情を見つめた。
その目は、かつて中学時代に見たどこか寂しげな少年のままだった。
「そうだったのか……。」
「怒ってるか?」
「いや、怒ってるわけじゃない。ただ……驚いただけ。」
和馬は微かに眉をひそめたが、どこかほっとしたようにも見えた。
やがて、和馬はふと視線を窓に向けたまま、低い声で言葉を漏らす。
「俺の母さんのこと、話したことあったか?」
柴崎はその問いに首を振った。和馬がぽつぽつと話し始める。
「俺の母親、病気で死んだんだ。中学3年の頃だった。あの日、母さんの手を握ってて、何もできなかった自分が悔しかった。」
和馬の声は穏やかだったが、その裏に隠された深い苦しみが伝わってきた。
「その後、俺は親父――東条組の組長に引き取られた。そいつが初めて俺に言った言葉が、『今日からお前は東条だ』だ。」
和馬はかすかに笑みを浮かべるが、それが本心でないことは明らかだった。
「俺に選択肢なんてなかった。ただ、母さんを守れなかった俺にできることは、父親の言う通りに生きることだけだった。」
柴崎は何も言えなかった。ただ、和馬の言葉に耳を傾けることしかできなかった。
「でもさ、俺が東条になる前、唯一救われたことがあったんだ。」
和馬はふと視線を柴崎に戻した。
「小学校5年生の時、廊下に貼られてた作文、お前が書いたやつ。」
柴崎は一瞬驚き、思い出したように顔を上げる。
「……僕の将来の夢はヒーローになることです、ってやつ?」
「そうだ。」
和馬は短く笑った。
「あんな子供っぽい夢、普通なら笑うだろ?でも俺にはそれが支えになったんだ。」
柴崎は思わず顔を伏せる。
「そんなの、もう忘れてくれよ……恥ずかしいだろ。」
「俺には忘れられない。」
和馬は静かにそう言った。
やがて、柴崎も口を開いた。
「俺も、お前には感謝してるんだ。」
「俺に?」
柴崎は小さく頷く。
「中学の頃、俺、オメガって診断されてから引きこもってた。それでも、毎日お前がノートや宿題を届けに来てくれたこと、覚えてる。」
「そんなの大したことじゃねぇよ。」
「俺にとっては大したことだったんだ。」
柴崎の言葉に、和馬は一瞬だけ言葉を失った。そして、目を細め、口元に笑みを浮かべた。
ふいに、和馬の表情が引き締まる。
「けど、お前が俺に近づけば近づくほど、周りから危険が迫るのも事実だ。」
「それは……。」
柴崎は何も返せなかった。ただ、和馬の言葉の重さに押し黙るしかなかった。
「俺たちの立場が違うことを、忘れるなよ。」
そう告げると、和馬は立ち上がり、部屋を出て行った。
窓から差し込む月明かりが、柴崎の顔を薄く照らす。
「お前がいなかったら、俺はどうなってたんだろうな……。」
静かな部屋に、その呟きだけが響いていた。




