フェレシア・フォーサイス
薄暗い研究室で、その女性はゆっくりと目を覚ました。 意識が覚醒してすぐに感じたのは、頭に奔る鈍痛と眩暈、そして腕の痛み。 床にそのまま倒れるようにして転がっていたようで、女性は痛む身体を無理矢理起こす。 あたりには何本もの注射器が転がっていた。
「また、殴られて気を失ったのね……」
こんなの日常茶飯事だ。
実験体C、それが彼女の呼び名だ。 Cに居場所などなく、人並みの生活や扱いなど与えられたことがなかった。
自分が生物兵器として創り上げられたその日から、彼女はいつも殴られ、虐げられ、そして腫れ物のように捨てられる。 それが彼女の全てだ。
注射が嫌いだった。
Cは注射を見て身震いをした。 小さい頃から何度も注射を打たれ、その度に身体が焼けるように熱く、苦しい思いをした。 注射を拒んで逃げ出そうとすれば、研究員達から羽交締めにされ、気を失うまで何度もレンガで頭を殴られてしまう。 今日もその繰り返しだ。
今日は何の薬を入れられたのだろうか。 クラクラする頭を抑え、薬の効果が落ち着くのを待っている時だ。 部屋の外の廊下から足音が聞こえてくる。 Cはその足音を聞いてゾッとした。 研究員の足音ではない。 それよりももっと、Cが苦手な男だ。
「な~に寝てんだァ、ゴミ!」
ドアが開いて、その男はCを蹴り飛ばした。 Cは壁に叩きつけられ、ぐったりと横たわる。
「晩餐は一緒に食えって言ったよなァ! テメェはオレの『娘』だろうが! 呑気に寝やがって、使えねェゴミがよ!」
Cの前髪を掴み、壁に頭を何度も打ち付けた。 普通の人間であれば死んでしまうが、Cはこの程度では死なない。 彼女は生物兵器、化け物なのだから。
どの種族よりも頑丈で強く、血に猛毒を有する。 それが実験体Cだ。
殴られている時、Cはいつも無心だった。 やめてほしいとも痛いとも思えない。 これが普通だから。
それとただ、もうどうでも良くなってしまったのだ。 十何年もこの扱いを受けて、改善することはない。 声を出すだけ無駄だ。 どれだけ蹴られても殴られても、もう心は痛まなかった。 この嵐が去るのを、ただじっと息を潜めて待つだけ。
「ったく、明後日は大事なパーティがあるってのによ……。 いいか、テメェは道具だ。 生物兵器だ! 言われた通りにすりゃいいんだよ、わかったか?!」
床に転がっているCは、男の言葉に一切の反応を示さなかった。 男は舌打ちをして、苛立った様子で部屋を出て行った。
「…………そろそろ良いかしら」
しばらくして、Cは平然とその場に立ち上がった。
この程度では死なない。 そういう風に作られたのだから。 埃のついた粗末な服をはたいて、研究室から出る。 途中で薬品保管庫に寄り、覚えておいた薬をくすねる。
真夜中の薄暗い廊下を明かりもつけずに歩く。 人間とは違って、彼女は暗闇の中でも気にせずに歩くことができた。
地下に続く扉の鍵を開けて、忘れずに内側から施錠する。 石で出来た階段を下って、地下牢の並ぶ牢獄へたどり着いた。
「来るのが遅くなったわ」
「あ、おねえちゃん……」
その牢屋に閉じ込められていたのは七歳くらいの少年だった。 少年は柵に駆け寄ってCを見上げる。
「おねえちゃん、怪我してるよ……! また痛いことされたの!?」
「騒がないで。 バレたら面倒でしょ。 今日は具合はどう?」
ここは拐った子供を閉じ込めておく場所だ。 ケージは定期的に子供を連れ去って、強制労働に使ったり、遊び道具に使っている。 Cはそれを知っていた為、なんとかして地下牢の鍵を盗んで、こうして子供の元に顔を見にきていた。 しかし、全ての子供たちに会えるわけではない。 ケージのアジトは何ヵ所もあって、Cがいるのは実験場だ。 ここに連れて来られるのは、自分と同じように人体実験に使われる子供だけ。
Cは牢屋の鍵を開けて中に入る。 少年は体が弱く、薬を飲まねば死んでしまう。 くすねてきた薬を取り出して試験管に入れると、自分の人差し指をナイフで少し切る。 薬に血を垂らして混ぜると、緑色だった薬の色が鮮やかな水色へ変わる。
「飲んで。 明日は一日中体が苦しいかもしれないけど、これで大丈夫だから」
「ほ、ほんとに……?」
「早く飲みなさい。 そして寝て。 明日になったら、誰が来ても動かずに眠っておいて。 動きたくても動けないでしょうけど、具合が悪いとわかればあいつらだって手出しはしない」
Cは薬を飲んだ少年の頭を撫でて立ち上がる。
「明後日になったら、お父さんとお母さんのところに連れて行くわ」
「会えるの……? パパとママに?」
「ええ。 だから早く寝なさい」
地下牢にもう一度鍵をかけて、Cはその場を離れた。 周りに誰もいないことを確認して地下から出て、自分の部屋へ戻る。 部屋と言っても、小さな個室だが。
『明後日、エレニアの王都に宣戦布告を仕掛けに行くって言ってたけど、ほんとかしら。 バカね……軍に勝てるわけないのに』
地下牢の鍵を見つからない場所に押し込んで仮眠をとる準備をしていると、扉がトントンと叩かれる音がした。 Cは動きを止めて息を潜めた。 自分の部屋の扉をこうやってノックするのは、ただ一人だけしかいない。 そしてそのたった一人の男に会いたくなかった。
だが扉の前にいる男はもう一度ノックをする。
「また機嫌を損ねると殴られてしまいますよ」
その言葉にCは嫌気が差して、仕方がなくゆっくりと嫌々扉を開いた。 そこに立っているのはさっきの男だ。 自分を蹴り付けて、何度も殴った男。 しかし先ほどと違って男は落ち着いていて、殴ったり怒鳴ったりもしない。
この男の名はジョエル。 ケージを取りまとめるボスだ。 彼は二つの人格を持っていて、表の人格をジョエル、裏の人格をゴーティスと呼んでいる。
「来なさい」
言われた通りにジョエルの後を着いていく。
Cはこの男が本当に嫌いだった。 思想も嫌いで、そして存在そのものも大嫌いだ。 彼が今からどこへ行くのかも分かっている。 こんなのはほぼ毎日だ。
Cは空っぽの心のまま、ただ無表情で窓の外を見上げた。
『死にたい…………』
その願いは、もう何十年も叶うことがない願いだった。